二章 いつか来る日に脅えながら
【1】保護者、ジョヴァンニ
あの夜、ローザは泣き疲れて眠ってしまったらしい。
翌日、面会に訪れたジョヴァンニから、クロードが正式に師匠となったと聞かされた。
それから数日後。ローザは神殿を出て、クロードの家に向かう。
馬車の中で、緊張でガチガチに固まったローザに、ジョヴァンニは柔らかな声色で訊ねた。
「ローザ。君の年齢は十五歳、でしたか? クロードは今年、十八歳になります」
「う、うん……。今年の春に、十五になったよ」
ローザは少しの驚きを覚えつつ、頷く。
(あのひと、三つも、年上なんだ……)
クロードの外見は、確かに年長に見えるが、精神的にはローザの年上とは思えない。ことば遣いも、幼いこどものようなそれだった。
向かい合うジョヴァンニは、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「その、ですねぇ……。君たちは年頃の男女であるからして、本来であれば同じ屋根の下で暮らすなんて、とてもではありませんが、許すわけにはいきません」
「え、ダメなの⁉」
どうしよう。聞いていた話と違う。
これからローザはクロードに弟子入りするために、同じ家で暮らす手はずとなっていた。
クロードは現在一人暮らしで、ローザが住みつくことで、二人で暮らすことになると聞いていたが。それを土壇場で許すことはできないと言われ、ローザはひどく混乱した。
「駄目というわけではなく……いや、本来は許しがたいことなのですが、ええと、今回は特例として許可する、ということです」
ジョヴァンニがすかさず否定したので、ローザはほっと胸を撫で下ろす。
ジョヴァンニの中で何やらややこしく複雑な葛藤があったようだが、ローザがクロードの家で暮らすこと自体に、問題はないらしい。
(ふたりで暮らすことが良くないことなら、ジョヴァンニさまも一緒に暮らせばいいのに)
ローザは安易に思ったが、口にはしなかった。ジョヴァンニにも家族はいるだろうし、色々と込み入った事情があるのだろうと考えたからだ。
彼は渋い顔をしながら、続ける。
「あれは、逆に心配するほど異性への関心が薄いのです。君たちの同棲に、大きな問題は起きないと、信じたいのですが……」
ジョヴァンニも手のかかる弟弟子が、初めて弟子を取るのだ。ひどく不安なのだろう。
ローザも都会に出てきたばかりの、もの知らずの娘だ。おまけに祖母以外と暮らすのは初めて。保護者代理として、やはり思うところがあるのだろう。
ローザだって、実のところ、不安でいっぱいなのだ。
(クロード……先生、なんだか、変なひとって感じだったし……)
彼の言動を思い返せば、もはや不安要素しかない。
けれどこれ以上、お世話になっているジョヴァンニに余計な心労をかけたくない。
「ジョヴァンニさま。あたし、大丈夫! クロード先生の邪魔にならないよう、弟子として精一杯、頑張るからっ」
心配させまいと両手の拳をぎゅっと握りしめローザは口にするが、なぜか、彼はより不安げな表情を浮かべて言う。
「……何か困ったことがあれば、すぐに教えていただけますか?」
***
クロードの住処は、王都でも中流の家庭が住まいを構える地域にあった。
同じ形状の家がいくつも立ち並んでいて、そこから少し離れた場所に、ポツン、と寂しげに立っている。
馬車を降りたローザは、口をぽっかりと大きく開けて、家屋を見上げた。
(すごい、おっきい! こんな立派なおうちに、あたし、今日から住むの……⁉)
尖った三角の青い屋根。高さを見るに三階建てか。
少々荒れてはいるが、広い庭もある。
話を聞くに、書類上はクロードではなく、ジョヴァンニの持ち家だという。彼は弟弟子に無償に近い家賃で貸し出しているそうだ。
村一番大きかった村長の家と比べても、随分と大きい。二人で住むには、広すぎるくらいに思えた。
「ああ、クロード。君はまたそんな鳥の巣のような頭と、みすぼらしい服装で……!」
都会がすごいのか、ジョヴァンニがすごいのか。ローザがしみじみと感心していると、ジョヴァンニは憤然とした声で口にする。
どうやら、ちょうどクロードが、家から出てきたところのようだった。
銀色の髪を無造作に結い上げて、着古した衣装に身を包む彼は、朝日の下でもうっとりとするような美しさだ。
呑気にも欠伸をする弟弟子に、ジョヴァンニは詰め寄り、眦をキリキリと吊り上げる。
「お客様を出迎えるときは、きちんと身なりを整えるようにと、あれほど、言い聞かせているでしょう?」
叱るジョヴァンニは、上流階級のお手本のように、一寸の乱れもない着こなしだ。
まるで正反対の兄弟弟子を見比べて、本当に同じ師を持つ同士なのだろうか、とローザは内心、疑いを抱いた。
「お客様じゃなくて、兄弟子と、弟子だよ。それに」
クロードは涙を白い指先で払いながら、ローザに美しい金色の瞳を向けた。
無愛想な表情ながら、金色の眼差しは、どこか不安に揺れているように見えた。
ローザは理解する。新生活に緊張しているのは、この一風変わった先生も同じなのだ。
彼は、ぎこちない口調で続ける。
「一緒に暮らすんだから、家族みたいなものだよ。化けの皮が剥がれるのは、早いに越したことはない」
家族。
ローザはおずおずとクロードを見つめる。
(それも、悪くないかも、しれない……)
見知らぬ男の人ではなく、彼は、先生で、兄。
そう思えば、わずかに緊張がほぐれた。
「私は家族の前で、そんな恥を晒した格好はできませんが?」
呆れたように返すジョヴァンニは、年の離れた兄――というよりは父に近い。
和気藹々と家に入る二人の背中を、ローザは微笑みながら追いかけた。
***
「こら、お待ちなさい。私の可愛い王子様。寂しがりやの兄弟子にも、どうか構っていただけますか?」
挨拶もそこそこに、ジョヴァンニはローザを空いている部屋に向かわせた。少年時代、ジョヴァンニが寝泊まりしていた部屋だ。久しく使っていないので、掃除が必要だろう。
クロードは思ったとおり、金色の瞳をキラキラと輝かせて、ローザの背中を追いかけようとする。
ジョヴァンニはせっかちな弟弟子の首根っこをがっちりと掴んだ。
「……僕は、猫じゃない」
暴れるとどうなるか、長い付き合いの中で、クロードはよく理解しているらしい。騎士の家系の出身であるジョヴァンニは、面倒になると、ついつい、強行手段に出てしまいがちだ。
ささやかな抵抗か、彼は口をへの字に曲げながらぼやく。
「そう。人間は理性があり、言葉で解決に導ける生き物なのです」
ジョヴァンニはわずかに力を強めて問いかける。
本能的で衝動的な弟弟子が、果たして同じ人間かどうか疑うことは度々あれど、どうか人間の皮を被っていてほしいと切に願う。
彼が何かしらの問題を起こせば、兄弟子であるジョヴァンニも社会的に都合が悪いのだ。
間抜け面のクロードをギロリと睨みつけて、ジョヴァンニは口にする。
「私は長く君の兄弟子を務めていますから、君の考えていることが、手に取るようにわかりますよ」
とはいえ、彼の行動力はあまりにも突飛だ。
時に、兄弟子の想像を超えるときもあるのだが。ジョヴァンニには絶対の自信があった。
弟弟子は美しい顔に微笑を浮かべて、珍しく、声を弾ませて言う。
「わかる? さすがだね、ジョヴァンニ。僕、あの娘に、絵を描かせたい」
ジョヴァンニは眉根を寄せて、クロードを無言で応接室のソファに放り投げた。
「君に、仕事の依頼があります」
いそいそと腰を浮かせかけたクロードは、ジョヴァンニの言葉でひたり、と動きを止める。
「……どんな依頼?」
クロードは基本的に、画家としては『よい子』の部類なのだ。期限を守り、依頼人の希望に準じた絵を仕上げてくれる。
今もローザを追いかけたくて仕方がないだろうに。
不満げな顔をしながらも、素直に耳を傾ける弟弟子は可愛らしい。
ジョヴァンニは笑うのを必死に堪えながら、答える。
「『いつものお客様』からですよ。どうぞ君の好きなように描いてください。〈妖精画〉ではなくとも、かまいませんから」
「ふうん。わかった」
実のところ、仕事の依頼があるというのは、真っ赤な嘘である。
それも苦肉の策だ。絵を描かせるでもしないと、しばらくの間、クロードを制御することはできないのである。
どのみち、描いた絵は『いつものお客様』の元に渡るだろう。『いつものお客様』は、〈ミュトス〉のパトロンのひとり。クロードが名声を得る前から彼の絵を求めている、昔からの顧客だ。新作と聞けば、喜んで買い取るだろう。
クロードの腕なら、完成まで二週間を要するか。その間に、ジョヴァンニはローザの生活基盤を整えたいと考えていた。
何せ着の身着のままで連行されたのだ。彼女は服を持っていない。事前に何着か、家の者には届けさせたのだが、それでも足りないはずだ。
普段着や外出着はいくらあっても困らないし、顧客の前で着る上品なドレスは、何かあったときのためにも、早めに仕立てたほうが良い。
靴は当然だし、年頃の女の子だ、装身具や化粧品の類も欲しがるだろう。他にも家具や、こまごまとした日用品、新しく画材を買い揃える必要がある。
クロードは面倒を見ると豪語したが、こういった細かな配慮ができる性格ではないので、ジョヴァンニがフォローするしかないだろう。
ローザは王都に来たばかりだから、日常生活に慣れるまでの時間も必要だ。
それと。
ジョヴァンニは何を描こうか考えているだろう、ローザのことをすっかりと忘れ、ウキウキと楽しげな弟弟子の顔を、じぃぃぃっと見つめた。
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