第11話

「うわぁ、綺麗……」



 ――山にある神社の高台。世界が静寂に包まれる時間。


 より開けた場所だからか夜明け前の冷たい空気が肌を刺す。

 俺は両手をポケットに突っ込みながら、隣で小さく息を吐く悠を見た。悠の息は白く染まり、澄んだ空に溶けていく。


 しばらくすると、遠くの空が薄紅色に染まり始めた。夜の青がゆっくりと溶けていき、群青、紫、橙色とどんどん世界が少しずつ目覚めていく。


 神社の高台からは街が一望できた。無数の家々の屋根、遠くに続く道路、まだ眠っているビル群。朝焼けの光がそれらを静かに照らし始める。


 「すごい……」と彼女がぽつりと呟く。


「ほら、期待してよかったじゃん」

「そう……やな」


「人ってこんなにいるんだね」

「そう、やな」


「普段歩いてると気づかないけど、こうやって上から見ると世界って広いなって思う」


 悠はじっと街を見下ろしている。その横顔はどこか寂しげで、けれど同時に満たされているようにも見えた。


「さっきから寒さの話ばっかりだけど、実は私寒さに怯えてたんだ」

「どういうこと?」


「ずっと夜の寒さが怖かったの。布団に入って目を瞑ると瞼の中で何かが私を圧してくる。ぐわんぐわんとなって、息苦しくなるの。だから起きちゃって一人で冷たいベッドで窓の外を見ていた。夜って寂しいし、冷たいし」


「――目を瞑ってしまったら、もう私には明日が来ないって思っちゃうの」


 鼻を啜っているのは冷たいせいか、それとも泣いているのか。

 俺には返す言葉も見つからなかった。


 でも俺にもわかる。死を間近に感じると、この世から自分がいなくなることが悲しくなることがあった。夜の重みが全身に押し掛かり、小さな体では受け止めきれないと足掻くばかりに。


「でもね、今は違うよ。今は隣に友達もいるし、駿が横にいる。それに、もうすぐ朝が来るから」


 地球は丸いと言うけど、それがわかるように街の奥が丸くなっている。


「……松村くんはどう思う?」

「何が?」


「この景色」


 しばらく言葉を探す。けれど、すぐには見つからなかった。ただ、彼女の言う通りだった。

 こうして見ると、自分がどれだけ小さな世界に閉じこもっていたかを思い知らされる。


 ここには、無数の家があって、それぞれに誰かが住んでいて、

 それぞれの人生があって、誰かが泣いて、笑って、愛して――。

 

 それなのに、自分はずっとひとりだった。


「……俺は」


 そう言いかけたとき、彼女が静かに言葉を紡ぐ。


「私ね、」

「……?」


「この景色を、誰かと一緒に見たかったの」


 悠の言葉に、俺は視線を向ける。空を見つめたまま、ふっと微笑んだ。


「世界はこんなに広いのに、私はずっと小さな場所で生きてた気がしてた。でもこうやって見ると、ちゃんと世界の中に自分がいるんだなって思える」


「朝が来るのが、こんなに楽しみだなんて思わなかったな」


 小さな声に乗ったその言葉は、どこか切なくも嬉しそうだった。


 俺は彼女の言葉の意味を考えた。

 彼女の言う「小さな場所」とは何だったのだろう。そして、「ここにいる」と思いたかったのは、どうしてなのか。


「なあ、悠」


 俺が名前を呼ぶと、彼女は「ん?」と振り向いた。

 朝日が昇るにつれて、悠の瞳が光を帯びていく。その景色があまりにも綺麗で、俺は思わず言葉を失う。


「……いや、なんでもない」

「えー、気になる!」


「どうせくだらないことだよ」


 小さく笑って、もう一度朝焼けを見上げる。俺も隣で、同じように空を見た。ゆっくりと昇る太陽の光が、凍えた身体を少しずつ温めていく。彼女が言っていた通りだった。


 夜の寒さを知ったからこそ、朝日がこんなにもあたたかく感じる。


 きっと、それは人生も同じなのかもしれない。悲しみを知ったからこそ、優しさが沁みる。痛みを知ったからこそ、誰かを愛することができる。


 俺はふと、悠の横顔を見た。彼女の表情は穏やかで、どこか満たされているようだった。

 

 今なら俺も、自分のことを。冴綺のことを、父のことを。話せると思った。


「俺はずっと――に囚われすぎていたんだ」

「……死?」


「なあ、悠」


 もう一度呼ぶと、今度はしっかりと目を合わせてくれた。


「俺さ、小学六年のとき父を亡くしたんだ」


 自分の口からその言葉を出した瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

 長い間、語ることさえ拒んできた記憶。口にすれば、その悲しみが形を持ってしまうような気がして、ずっと閉じ込めてきた。


 悠は驚いたように目を瞬かせ、それから「……そっか」と静かに呟いた。


「病気やった。長くは持たないって、母も俺も知ってた。でも、いざそのときが来たら……どうしても、受け入れられなかった」


 あのときの病室の光景が浮かぶ。

 漂う消毒液の匂い、白いカーテンの向こう側。


 冷たくなっていく父の手を、どうしても離せなかった。


「父は、俺にずっと優しかったんだ。何でも許してくれたし、俺の話をちゃんと聞いてくれた。歌うことが好きで、ピアノを教えてくれてた」

「ピアノって、お父さんからだったんだ」


「そう」


 父は俺にスポーツではなく音楽を学ばせたかったそうだ。音楽が好きな父の影響。だけど、習い事になると続かなくなるというのを父自身が体験しているからか、独学で覚えた知識を俺に教えてくれた。俺が興味を持った曲を耳にしては、真っ白な紙にドレミで楽譜を書いてくれたから、すごく読みやすかったのを覚えている。


「父の音色は力強くて、でも繊細でかっこよかったんだ」


 自分ができなくても、悔しくても父の演奏を聴くと心を奪われた。同じ曲でも、いつも違う。その時その時の感情がそこにはあり、目に見えないものが子どもながらに見えるような気がして。いつか、俺も父のように上手くなりたいと思うようになった。でも、結局父を追い越すことはできなかった。


「最後の日、俺は何も言えなかった」


 涙を堪えるように、拳を握る。爪が手のひらに食い込む。


「それから……時間が経って、中学三年のとき……今度は幼馴染が死んだ」


 悠が小さく息をのむ気配がした。


「そいつは、俺にとって一番近くにいたやつだった。バカみたいに明るくて、俺のことをいつも引っ張ってくれて……病が発覚しても表に表さなかった」


 言葉にするだけで、喉の奥が焼けるように痛む。

 ずっと、ずっと、心の中で燻っていた想いだった。


「俺も何かできるんじゃないか、って幼いながらに考えた。めちゃくちゃ考えた。でも、俺の無力さは彼女を蝕む悪魔には何の抵抗力もなかった」



「そしてそのまま――冴綺は永遠に目を覚まさなくなった」



 足元に涙が溢れる。どんどん乾いた土を濡らす一滴一滴は、今まで流さないようにしていた分の弱音を目に映しているようだった。


「それで思ったんだ。どうせ大切にしても、いつか失うなら――最初から何もいらない方がいいって」


 彼女は何も言わなかった。ただ、静かに俺の言葉を待っているようだった。


「それから俺は、人と深く関わるのをやめた。大橋以外の親しい友達も作らんかったし、誰かと長く一緒にいるのも避けた。……やのに、悠は俺の中にずかずか入ってきたんだよ」


 言い終えた瞬間、冷たい風が吹き抜けた。


 悠は、じっと俺を見ていた。

 朝焼けの光が彼女の髪を淡く照らし、まるでそこにいることが奇跡のようにさえ思えた。


「……松村くんはさ」


 ぽつりと、悠が呟いた。


「本当は、誰よりも人を大切にしたい人なんだね」

「そんなの――」


「もう自分に。嘘つかなくていいんだよ」


 彼女はそっと、俺の手のひらを握った。


「だって、失うのが怖くなるくらい、誰かを大事に思えるってことじゃん。それってすごく素敵なことだと思う」


 言葉が、胸の奥にゆっくりと染みていく。


「話してくれてありがとう。今話してくれたこと、全部聞けてよかった。いつか聴かせてね、松村くんのピアノ」


 ふふっと赤らんだ頬を膨らませる悠の笑顔が瞳の中に入ってきて、直視できなかった。これは朝日のせいなんだと思い込んでも、彼女から放たれる眩しさは俺には勿体無いほどだった。


「恥ずかしいから……無理」


「素直じゃないんなぁ。あ、この景色のこと書き留めておこう」

「え、今日も持ち歩いてるん」


「うん、こんな素敵な気持ち、書き留めておかないともったいないじゃん」


 手帳を出して素早く書き込む。少し考える様子を見せながらも、言葉を取りこぼさないように。


「松村くんからは、たくさんの素敵なものもらっているな」

「こちらこそ……だよ」


 悠の手は小さくて、温かかった。生きているっていう実感をすごく感じた。


 夜の冷たさを知ったからこそ、朝日の温もりがわかる。

 なら、俺がこれまで感じてきた痛みも、いつか――。


 俺はそっと、握られた手を握り返した。


「……ありがとな」


 俺がぼそっと呟くと、彼女は「え?」と首を傾げる。


「なんか言った?」

「は、絶対聞こえてたやろ!!」


 俺は柄に合わないことをしたのに、笑いながら返事を誤魔化す彼女にそっぽを向く。その横でくすっと笑った。


「こちらこそ、ありがとう」


 そう言って、朝焼けに手を伸ばす彼女。指の間から漏れる光が俺らの陰を照らした。


 聞こえているじゃんかと思いつつ、心に留めておいた。

 俺はその姿を見つめながら、ゆっくりと昇る太陽を、ただ静かに見つめていた。



 ――新しい朝が、世界に訪れる。



 冷えた空気が、少しずつあたたかさに溶けていくように、俺の心も、何かが少しずつ変わり始めていた。








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