第25話 養花 10
*
「一体どうなってるのかしらね」
東宮の客間で、湯呑みを両手で包むように持った葉珠が、ふう、と溜息をつく。隣には伶遥が、向かいには慧喬が座る。
「本当に貴妃様は、王妃様と賢妃様に毒を盛ろうとしたのかしら」
「どうなんでしょうね」
葉珠の言葉に素っ気なく応えて慧喬が一口茶を飲む。
「でも貴妃様のところで毒入りのお茶が見つかったのでしょう?」
「正確には女官の荷物の中からです。それにまだ調査中のようですから、毒入り茶についての真相はわかりません」
見つかった茶葉に毒が仕込まれていたことは、慧喬が仙舌草で確かめた。しかし毒入りだという根拠はそれのみで詳細な毒性が確認されていないため、毒入り茶の件に関しては御史台の預かりとなっている。
「梅花宮の女官が貴妃様からって言って届けたそうじゃない。……しかもその女官が遺体で見つかったなんて……誰かがその女官の口封じをしたってことじゃないの?」
物騒なことを言っている自覚があるのだろう。いつものよく通る葉珠の声が抑えられる。
「御史台は、女官が自ら井戸に身を投げたと考えてるみたいですよ」
「そうなの?」
「井戸の枠に足をかけたような跡が残っていたのと、井戸の口を覆っていた板が退けられたままだったということからのようです。何者かが井戸に落としていったなら、板を元に戻していくだろう、ということらしいです」
今朝、御史台侍御史の惇卓が来て慧喬に報告していったことだ。明汐の死が毒入り茶の件に関わりがあるかどうかは、これから調べるという。
「そういえば、その亡くなった女官って、段明汐って
「ええ」
「まさかとは思うけど……この事件って、その去年の騒動と何か関係があるのかしら」
湯呑みを口に当てたまま、元々丸い目を更に丸くして慧喬を上目遣いに見る。
「どうでしょうね」
気が乗らなそうな返事が意外だったのか、葉珠は湯呑みを置いて不満げに言った。
「だって、今更、王妃様と賢妃様を狙う理由がわからないじゃない」
「以前は嫌がらせなんかがあったんですね」
微妙に本筋からずらした問いにも、葉珠は、そうよ、と素直に応える。
「王妃様が淑妃から王妃になられた時は、嫌がらせがかなり酷かったみたい。母上……母后様に聞いたことがあるわ」
「その嫌がらせをしたのが貴妃様だったのですか?」
「それがね、結局誰とはわからなかったみたい」
「そうですか……」
元々淑妃だった梁氏が王妃に昇格したのは、慧喬が九つの時だった。子どもに愚痴を漏らす人ではないから詳しく知ることはなかったが、普段朗らかな梁氏が時々溜息をついていたのは記憶にある。その時の経験もあって、梁氏は貴妃からだといって贈られた茶を飲まなかったのかもしれない。
「それにしても、茶葉に毒が仕込まれているってよくわかったわね。貴女が見つけたらしいじゃない」
「毒を検知する薬草を持っているので」
「それって何の毒かもわかるの?」
「いいえ。害のあるものが入っているとわかるというだけなので、毒の種類まではわかりません」
「そうなのね。……でもどうしてそんなものを持っているの?」
「療養中にお世話になった仙人にいただいたんです」
葉珠が眉を顰めて首を傾げる。
「……待って、それって、命を狙われることがあったとか、狙われるかもしれないから、そんなものを持ち歩いてるってこと?」
「別にそういうつもりではありませんよ」
淡々と言う慧喬に、葉珠は鼻の頭に皺を寄せる。
「まあ……用心するに越したことはないものね」
葉珠は平然としたままの慧喬を探るような顔でしばらく見ていたが、「用があるから、私、そろそろ失礼するわ」と立ち上がった。
しかし、そのまま戸口には向かわず、慧喬の後方に控えていた孟起の目の前に立った。そして、目を瞬かせている孟起を見上げてにこりと微笑む。
「孟起、だったわよね。ちゃんとお勤めに励んでる? あと三日で冊立式ですからね。次期太子殿下のこと、くれぐれも、よろしく頼むわよ」
唐突に声をかけられて、はあ、とつい気の抜けた返事をした孟起に、「なあにその返事は。しっかりしなさい」と叱咤すると、葉珠は、またね、と軽やかに去っていった。
一人賑やかだった葉珠がいなくなると、部屋に沈黙が訪れた。
慧喬は茶を一口飲み、終始俯いたままの伶遥を見た。目の前の茶にも手をつけていない。葉珠に連れてこられてからずっと、目も合わせようとしないでいる。
「伶遥? 大丈夫か? 気分でも悪いんじゃないか?」
慧喬が覗き込みながら聞くと、伶遥が更に顔を俯けた。そして、
「……この間は……ごめんなさい」
それまで一言も発しなかった伶遥が、聞き取れないほどの声で言った。
「何に対して謝っている?」
「……だって……私が持ってきたお茶に……毒が入っていたなんて……」
ああ、と慧喬が湯呑みを置いて、伶遥の正面の位置に座り直す。
「伶遥のせいじゃないじゃないか。もう少しで伶遥も飲んでしまうところだったんだ。伶遥は被害者だろう」
慧喬が言うと、泣きそうな顔を上げた伶遥とようやく目が合う。
「伶遥が飲まなくて本当に良かった。伏せってたみたいだけど、体の調子は?」
大丈夫、と伶遥が小さく言ってまた
昨日、桃花宮を訪ねたが、伶遥は具合が悪いとのことで会うことができなかった。
今日は、葉珠に連れられてここへやって来た。
慧喬はまた黙り込んでしまった伶遥を見つめると、ゆっくりと言った。
「……その茶葉に仕込まれていた毒のことなんだが」
伶遥が伏せていた瞳をはっと上げた。
「……何か……わかったの?」
兎のような黒目がちの瞳が不安そうに揺れる。
「……考えてみたんだが……あの茶、母上と賢妃様のところに届けられたというのは、恐らく……私に飲ませようとしたからだと思う。母上はともかく、賢妃様のところに届いたのは、本当はいつも私と一緒に茶を飲む伶遥に宛てたものだったんだろう」
慧喬の言葉を伶遥は青い顔でまじろぎもせず聞く。
「ごめん。だから、むしろ私の方が伶遥に謝らないといけない。伶遥を巻き込んでしまったみたいだ。賢妃様もさぞかし伶遥のこと、心配されただろうな」
「……そうね……」
伶遥が小さく答える。
「ごめん」
慧喬が改めて謝ると、伶遥は慌ててふるふると首を振り、膝の上の手をぎゅっと握った。
「……それは……こんなことがおこったのは……慧喬が太子になるから……なの……?」
「そうだと思う。私が太子になることを気に入らない者がいるんだろう」
「……じゃあ……じゃあ……太子を断ることはできないの?」
伶遥の声が震える。
「……それができればいいのだけど。無理だな」
死にでもしない限り、撤回はあり得ないだろう。
きっぱりと言われて、伶遥がますます泣きそうな顔になる。
「大丈夫だよ」
慧喬が安心させるように微笑んで見せる。
「私は簡単にはやられたりしない」
それでも伶遥の瞳の翳りは薄くはならない。その瞳を見つめたまま、慧喬が声を落とした。
「……実は命を狙われたのは、これが初めてじゃないんだ」
「……え……?」
「さっき葉珠様にはああ言ったけど、本当は暗殺を警戒することもあって、毒を検知できる薬草を持ち歩いてるんだ」
言葉をなくした伶遥に苦笑いして見せて続ける。
「実は、療養でここを離れていた時、刺客に襲われた」
伶遥から、うそ、と掠れた声が漏れる。
「その刺客のうちの一人が、呉文則という禁軍の兵士だったんだ。……恐らくだけど、呉将軍と繋がっていたんじゃないかと思ってる」
「……そうなの……?」
「ああ。血族などではないようだが、姓が同じということで何度か言葉をかけられていたらしい。そいつが弓の名手だというのを知っていて依頼したんだろう」
「……その……刺客は……?」
「残念ながら刺客は死んでしまった」
慧喬が大きく息を吐く。
「陛下の侍従武官は呉将軍の配下だ。そこ経由で、陛下が私を後継にするつもりだと、いち早く知ったんだろうな。だから公表前に、療養中だった私へ刺客を差し向けることができたんだろう」
分析するように話す慧喬を、伶遥が青い顔で見つめる。
「それに、あの毒入り茶葉……。あれが徳妃様のところにだけないというのも怪しい。……徳妃様が首謀者だと仮定すると、全て辻褄が合うんだ。貴妃様に疑いが向くようにしていることも。徳妃様は貴妃様を憎んでるからな」
慧喬は伶遥の目を真っ直ぐに見て言った。
「実は、兄上が落馬して亡くなった件も、呉氏の一族が絡んでるのだと思ってる」
「……え……」
「呉将軍は、兄上の事故が起こった現場にいてその場の指揮をとった。そして、兄上を振り落とした馬がいた厩の主管である尚乗局の長官は、徳妃様の弟だ。計画は立て易かったはずだ。だけどまだきちんと証拠を揃えていない。引き続き調べてみるつもりだ」
呆然として聞いていた伶遥がぽつりと聞いた。
「……証拠……って……」
「ああ、幾つかな。毒の入手経路にも心当たりがある」
声を低くした慧喬に伶遥が泣きそうな目を向ける。
「でも……でも……お願いだから……無理はしないで……」
懇願するように伶遥が言った。
*
卓の横の燭台が、ゆらりと揺れた。私室で本を読んでいた慧喬が顔を上げる。
「慧喬殿下、遅くに申し訳ありません。よろしいでしょうか」
扉の外から宿直の女官から声がかかった。
「どうした」
入室を許可すると、困惑顔の女官が入って来て言った。
「あの……菊花宮から文が届いたのですが……」
菊花宮は徳妃の居所である。
「こんな遅くに?」
「はい。何でも火急のご用事だそうで、すぐに殿下にご覧いただくようにと……」
「文を持ってきた者はどこだ」
「それが……文を渡すと逃げるように去っていってしまいました。いかにも怪しいので……殿下にお渡しするか迷ったのですが……」
「そうか。いや、もらおう」
慧喬が手を出すと、女官が心配そうな顔で文を差し出した。文を受け取ると、女官には下がるようにと言い渡す。
女官が出ていくと、慧喬はゆっくりと文を広げた。
ゆらゆらと揺れる灯りの下で、文字を追う慧喬の眉間の溝が深くなる。
その文は、伶遥を預かっているから、慧喬一人で迎えに来るように、というものだった。
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