第6話 枝葉 3
「朱全、いるんだろう? 出てこい」
陳婆さんの家から見えないところまで来ると、心高が立ち止まって言った。
すると、後方の木の影から男が現れた。
孟起が腰の剣に手をかける。
心高はそれを手で制すると、目の前に跪いた男に言った。
「状況が状況だ。手を貸してくれ。事態は把握しているな? 沢の下流の里にも雪花藻の被害が出ているはずだ。里正に知らせて薬が用意できないようであれば、泰慈先生に助けを求めるように伝えろ。それから、県令にも連絡して対策を取らせるように」
「……しかし……交代の者がまだ来ておりませんので私がお側を離れては……」
男の言葉を心高が遮る。
「これは命令だ。どのみち交代が来たらここを離れるのだろう。それが少し早まるだけだ。従えば、
「……ですが……」
「護衛は孟起殿に頼むことにするから案ずるな。腕が確かなのは見ただろう」
驚いた顔で心高と男を見比べている孟起を、男がちらりと見遣る。
「命令だ。朱全」
一回り以上年が上であろう強面の男に、心高が躊躇なく再度命ずる。
朱全、と名を呼ばれた男は心の内の葛藤を表すように眉間に溝を刻んだ。
しかし、無言で促す心高を窺うように見ると立ち上がり、拱手して行ってしまった。
剣の柄に手を置いたまま、首だけを回して男を見送った孟起が心高へと視線を戻す。
「……あの男は誰なんだ?」
心高は孟起からの視線を受け流して答える。
「……私の監視だ」
「監視……って……」
次の言葉に迷っている孟起を置いて、心高は何事もなかったように歩き出した。
「本当に、君、何者なの?」
心高を追いかけて孟起が聞く。
返事のない心高の後を歩きながら孟起が頭を掻く。そして、
「私に護衛を頼むことにするって言ってたけど?」
足を早めて心高に並び、その横顔に問うと、心高が無表情に言った。
「嫌ならいい。あれを行かせるために言っただけだから」
「嫌だなんて言ってないよ」
穏やかな声を返した孟起に、心高がようやく視線を寄越した。
「だけど、自分が護衛するのが誰かくらいは知りたいな」
琥珀色の瞳を捉えてにこりと孟起が微笑むと、心高は眉を顰め、鼻から息を吐いた。
「……後で話す。とりあえず、村正の家へ急ごう」
そう言うと心高は足を早めた。
村正の家には、庭に立派な井戸があった。しかしそれは頑丈な柵に覆われていた。
建物の戸口から
「貴方が村正ですか」
太った男はそう聞いた心高と横に立つ孟起を胡散臭そうに見る。
「見ない顔のガキだな。よそ者が何の用だ」
「紫紅峰の泰慈先生のところから薬を持って来ました。この村で病が流行っているのを知っておられますか」
村正に横柄な態度を向けられながらも、心高は静かに言った。
孟起がそれを横目で見る。
珍しく敬語を選んでいるのは、くれぐれも穏便に、と文承に釘を刺されたのを守っているからなのだろう。
「はあ? ただ何か悪いものを食って
面倒くさそうに吐き出された言葉に僅かに心高の片眉が上がる。
「体調が悪い者が多くいるということはご存知なのですね」
「薬が効かんから何とかしてくれと言ってきた者がおったわ」
「そうでしたか。ご存知ならば良かった。何か対策は取ってくださったのですね」
「何でわしがそんなことをせにゃならんのだ。あの陳の婆の腕が悪いだけじゃないか」
村正が言い捨てた後に間が空く。次に出た心高の声の温度は先ほどよりも低い。
「村の人たちが飲み水として使っている沢はご存知ですか」
「ああ」
「東側の沢の水が汚染されています。その沢の水を飲んだ人たちが具合を悪くしているんです」
村正が嫌そうに顔を歪める。
「何だそれは。自業自得だな」
いかにも自分には関係のない話だと言わんばかりに溜息を吐いた。
「用はそれだけか」
そう言って家に入ろうとした村正の背に向かって心高が言った。
「村の皆にこの井戸を開放してください」
振り返った村正はぎろりと心高を睨みつけた。
「何でわしの井戸を使わせにゃならんのだ」
「沢の水は飲めないからです」
心高が言うと、村正が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「断る」
「何故ですか」
「見境なく水を汲んだら井戸が枯れる」
「しかし村の皆が安全な水を必要としています。村の非常事態を収めるべく努めることは、村正の責務だと思いますが」
「うるさい」
村正が不快を露わにして心高の言葉を遮る。しかし心高は静かに続けた。
「この百戸ほどの村で見たところ三分の一以上の数の病人が出ています。このように
自覚していなかった不備を突かれ、村正の顔が怒りでカッと赤くなる。
「……生意気なクソガキがっ!」
村正が心高の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。
しかしその手は、心高に届く前に孟起に掴まれた。
「な、何だお前は」
「暴力は駄目ですよ」
顔と声は相変わらず穏やかだが、村正の手を掴む孟起の力に容赦はない。村正が振り解こうとするが、びくともしない。
「……このっ……放せっ!」
孟起の手を振り払おうと、村正が渾身の力を込めた。それを孟起が不意に放したため、勢い余った村正が転びそうになる。
その姿を心高が冷ややかに見る。
「報告はしていないのですね」
「……たかが腹痛だ。直ぐに収まる」
村正は掴まれていた腕をわざとらしくさすりながら睨む。
「……たかが腹痛、ですか。ならばこの水を飲んでみますか? ちょうど東の沢から汲んできたばかりです」
心高が腰につけていた竹筒を帯から外し、村正に差し出した。
「さあ。飲んだところでたかが腹痛です。大したことはないのでしょう?」
心高が一歩、村正との距離を詰める。
「くそっ、やめろ!」
村正が心高の持つ竹筒を手で払った。
竹筒はからからと音を立てて地面を転がる。
しかし心高は全く動じることなく村正から目を離さず言った。
「村で流行っている病は雪花病というものです。正しい処置をしないといずれ死に至ります。知っていてなおも対策をとらないことで病が広がれば、当然村正としての責任は問われるでしょう」
「……わしは、知らん」
逃げを許さない心高の言葉に追い詰められながら、村正が意味の通らない抵抗を辛うじて試みる。
そこへ口調の変わった心高の低い声が被さる。
「知らないで済むわけがないだろう。何のための村正だ。権力は私欲のためにあるわけじゃない。そもそもこの状況を県令に報告していない時点で紅国医疾令に違反していることをわかってるのか」
声を荒げたわけでもないのに、村正が思わずびくりと首をすくめる。
親子ほどの年の差のある若者から放たれる得体の知れない威圧感に、村正は知らぬ間に冷や汗を流していた。
「……お前……ただのガキじゃないのか……?」
思わず出た呟きは聞き流し、口調を戻した心高が低い声で言った。
「……県令には連絡がいくようにしておきました。恐らく数日のうちに県からの調査官が派遣されてくるでしょう」
「何……?」
村正が息を呑む。
「その時にまともな言い訳をしたかったら、せめて村人に井戸を開放することですね」
今度は青くなった村正はわなわなと唇を震わせていたが、結局、井戸を村人に使わせることを承諾した。
心高は村正に念を押すと、村正の家を後にした。
「……穏便に、って言われてなかったか?」
すたすたと先を歩く背中に向かって孟起が面白そうに言った。
「かなり穏便だったと思うが」
心高が振り向きもせず低い声で返す。
孟起は、そうかぁ、とひとしきり笑うと聞いた。
「……で、君は誰なんだい?」
心高は足を止めると、振り返って孟起の笑顔を見た。
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