紅国春秋余録

おがた史

第1話 萌芽 1



 星の広がる夜空の墨色がほんのりと薄まる。

 稜線が朝陽で縁取られ始めると、草心高そうしんこうは水汲み場から運んできた桶を地面に置き、暗がりの中、軽い身のこなしで岩場に登った。

 目の前の闇に蜂蜜を流していくように朝陽が行き渡る。

 眼下に広がる紅国が次第に色彩を取り戻していくのを、心高はその琥珀色の瞳に映した。

 



 紅国は正式名称を峯紅国ほうこうこくといい、三清さんせいと呼ばれる元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊の三神の加護を得たほう氏の治める大国である。

 峯紅国の首都華京から西北に位置する紫紅峰。

 この山には医薬の知識に造詣が深いことで高名な仙人の泰慈先生が庵を結ぶ。

 心高はこの泰慈先生に教えを乞うために一年ほど前、十三の年にやってきた。




 朝陽の頭が山際から覗いたところで心高は潜めていた息を大きく吐くと、新しくなった空気を吸い込み伸びをする。

 よし、と小さく呟くと、岩場から降りて置いていた桶を手に持ち直した。


 その時、草むらで何かが、がさ、と音を立てた。


 心高の眉がぴくりと上がる。息を詰めて意識だけを音のした方へ向けると、どの方向へも動くことができるように構えた。

 かさかさ、と乾いた落ち葉を踏む音に耳を澄ませる。

 その動きに敵意が含まれる気配は感じられない。

 心高は構えを解き、時折見かける兎か何かだろうか、と息を吐いて、音のした方へと目を向けた。

 草むらから現れたのは驚いた顔をした小柄な少女だった。


「誰だ?」


 思わず出た心高の声に少女はびくりと肩を震わせると、一歩後ずさった。がさ、と少女の足元でその動揺する気持ちそのままを表すように音がする。


「こんな早くに何をしている?」


 怯えさせてしまったか、と心高が声を和らげる。

 よく見ると少女の着ているものは汚れていて、顔色もそれに負けないくらいの土色だった。更に酷く痩せこけている。

 少女は心高を遠慮がちに窺うと、恐る恐る口を開いた。


「……あの……仙人の……泰慈先生の庵はどこでしょうか……」


 泰慈先生の庵には、薬を分けてもらいに麓の郷人などがよく訪ねてくる。この少女は初めて見る顔だが、泰慈先生を尋ねてきたということはそういう目的なのだろう。


 しかし、それにしても早い。この時間にここにいるということは、夜通し山を登ってきたか、この辺りで夜を明かしたか。

 いずれにせよ、少女ながらに無茶をしたのは変わりないだろう。

 顔色が悪いのはそのせいなのだろうか。


「泰慈先生の庵はすぐそこだが……」


 手を差し伸べようと心高が少女の方へ足を踏み出した。

 しかし、少女はわずかにほっとした表情を浮かべると、かろうじて繋がっていた糸が切れたようにそのまま崩れ落ちてしまった。


「大丈夫か」


 駆け寄り抱き起こすが、ぐったりとした少女は目を開ける様子はない。苦しそうに歪んだ表情が痛々しい。

 心高は庵に連れていくために少女を抱え上げた。そして背負ってみると、その身体の軽さと細さに、一体どうやってここまで登ってこられたのかと驚くばかりだった。



 庵まで少女を運ぶと、心高は庵の裏にいるはずの泰慈先生を呼んだ。


「どうしました?」


 白い髭を蓄えた泰慈先生がゆっくりと木々の間から現れた。


「先生を訪ねてきたと思われる子が倒れてしまって」

「おやおや。それはいけませんね」


 曲がった腰をさすりながらも、若干歩みを早めて泰慈先生が庵の中へと入った。


 泰慈先生は横たわる少女を見ると、ふむ、とその手首を取り眉を顰める。


「気が全く足りていませんね。こんな状態でよくここまで辿り着くことができたものです……。それにこれは……」


 皺だらけの目元にさらに溝ができる。首を傾げるようにして少女の顔、首元を見る。


 泰慈先生が少女の額に手を当てて、低く呪文を唱えた。

 すると少女の目が薄く開いた。

 ぼんやりと開いた目を宙に彷徨わせていたが、枕元に白い長い髭を蓄えた泰慈先生に焦点を結ぶと、はっとしたように身を起こそうとした。

 しかし思うように体が動かせないのだろう。うう、と小さくかすれた呻き声が漏れるだけで起き上がることができない。


「大丈夫ですよ。無理に起きなくても」


 泰慈先生が穏やかな声で言う。

 少女がそれでも身を起こそうとするので、心高が手を貸して上体を起こさせる。


「水は飲めそうですか?」


 泰慈先生が聞くと、はい、と言ったようだが、音にならない息が漏れただけだった。

 心高が体を支えたままの少女に泰慈先生が茶碗を手渡す。

 茶碗を受け取った手は酷く震えていた。


 少女は水をこぼさぬよう慎重に飲むと、大きく息を吐いた。


 そしてすがるような目で泰慈先生を見た。


「……母ちゃんが……病気になって……どうしても治らなくて……。お願いです、お薬をもらえないでしょうか」


 ようやく出た声は、小さかったが切羽詰まって庵の中に響いた。







「どうしてこのガキと一緒に行かないといけないんですか」


 腕を組んで仁王立ちをした尹文承いんぶんしょうの声が尖る。

 そして目線を泰慈先生から心高に移す。


 文承は心高がここに来る何年も前から泰慈先生の弟子となった若者である。心高にとって謂わば兄弟子だ。


「何度も言うがガキではない」

 

 動じることなく心高が淡々と返すと、文承が溜息を吐く。


「何度も言うがお前のその口調が腹立つんだって。年上を全く敬ってないだろ」

「そんなことはない。文承殿のことは敬っている」

「全く敬われている気にならないんだよ」

「言いがかりだ。文承殿、大人気ないぞ」

「だからその言い方だって」


 しかめ面で文承がぼやく。


「まあまあ。二人とも喧嘩をするでない。この子も驚いているではないか」


 二人のこの手のやり取りはいつものことである。泰慈先生が動じることなく取りなす。


「私はこのとおり足と腰がよろしくないのでな。代わりに薬を届けてやってほしいのじゃよ。文承が行ってくれればもしも他の病気があっても任せられるからの」


 泰慈先生はそう言うと、心配そうに見ている少女を安心させるように頷きかけた。


 少女は丁明玉ていめいぎょくという名で、曲関県の山間やまあいの村から単身でここにやってきていた。

 具合を悪くした明玉の母親は、腹痛から始まり、下痢、吐き気をもよおすようになった。いつも薬を分けてくれる老婆に薬をもらったが、それでも母親は良くはならず、今度は手足が痺れるようになり、起き上がるのもやっとになってしまったという。

 そこで明玉は母親の世話を隣家に頼み込んで、一人泰慈先生を訪ねてきたということだった。


 曲関県は、紫紅峰からさらに北西へ行った山間部にある。明玉の村は一山越えれば隣国の紫国という、曲関県でも一番端の小さな村だ。

 足腰の悪い泰慈先生が自身で行くには道は険しく遠い。また、明玉は言わなかったが、泰慈先生の見立てでは母親と同じ病を患っている。しかもここまでろくに食べも眠りもせず無理をして歩いてきたこともあり、ひどく体が弱っていた。そんな明玉に薬を持たせてそのまま帰すわけにもいかない。


 泣きそうな顔で見ている明玉にちらりと視線をやってバツが悪そうに頭を掻くと、文承が言う。


「薬を私が持っていくことにこれっぽっちも異論はありません。行くのは私だけで十分ですと言っているだけです」


 ふむ、と泰慈先生が髭を撫でる。


「そう言わずに一緒に行きなさい」

「急いで行く必要があるのですよね? 私一人で行った方が早いと思います」

「心高は私と違って足腰が丈夫です。足手纏いにはなりませんよ。それに心高はとても優秀です。連れていけばきっと役に立ちます」

「しかしですね」


 文承が反論しようとすると、泰慈先生は穏やかな目に少し懸念の色を浮かべた。


「今回は行った先で人手がいるのではないかと思っています。この子が言うには同じ症状の患者がまだ他にもいるということですからね。本当は私が向かうことができれば良いのですけど」


 泰慈先生の懸念は尤もなものだ。そう言われると反論の言葉はない。

 文承が眉を顰めたままの顔を改めて心高に向けると、理知的な琥珀色の瞳と目が合う。


 確かに目端めはしが利くので何をやらせてもそつがなく、役に立つだろうということはわかっている。


「それに後進の面倒を見るのも兄弟子の役目ですよ」


 やんわりとした口調だが、泰慈先生に引く様子はない。


 心高が紫紅峰に来てからというもの、麓の郷へ薬を持って行く時は泰慈先生は必ず文承に心高を連れて行かせる。

 それと同じと考えればいいのだろうが、しかし今回は遠方だ。文承は、遠方へ心高と二人だけで出かけるのは気が進まなかった。

 それにひきかえ心高はとおも年上の文承に嫌な顔をされても特に怯んだ様子もなく、平然と文承と泰慈先生のやり取りを見ている。そしてすでに腰帯に心高の持ち物である護身用の短剣を差し、身支度を始めていた。


 文承は十も下のこの妙に落ち着きのある後輩を苦々しく見る。


 しかしどう抵抗したところで、泰慈先生は心高を連れて行けという言いつけを取り下げるつもりはないようだ。

 文承は大きく溜息を吐くとがっくりと項垂うなだれた。



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