2.飯田茉侑子⑥

それじゃあ、お元気で!

 その日の17時半ごろ、スマホに未冬からの着信があった。私は少しの逡巡ののちにデスクを離れ、廊下の外、無人の会議室にこっそりと忍び込む。

 明かりを付けない会議室。壁にもたれて背を丸め、私は身を隠すようにして電話を受けた。


「……はい、茉侑子だけど」


 用件はわかりきったようなものだ。仕事の合間を見て送った、例の返信の件だろう。

 昨日から既読無視の状態になっていた未冬のメッセージに、やっと断りの連絡を入れたから……。


『よかった茉侑子、出てくれた……。今、時間は大丈夫なの?』


「まだ会社にいるけど、少しだけなら」


 すると電話口の向こうで、未冬は急に焦ったような早口になった。


『ごめんね、急に電話なんてしちゃって。すーくんが今日はお仕事で遅くなりそうって聞いたら、今しかないって思っちゃって。それでね、茉侑子、あのLINEのことなんだけど……『ごめん』って……もう会う気はないって、どういう意味なの?』


「どうも何も、そのままの意味だよ」


 会って謝りたい──それも、夫には無断で。そのような旨のメッセージに対し、私が返した内容はこうだ。

 今後、私は未冬と会って話す気はないので、ごめんなさい。プレゼントとバースデーメールは、本当にありがとう。大事にするよ。旦那さんと航くんと、末長くお幸せに。


『どうしてそんな……』


 せつなげな声に胸が痛んでしまうあたり、自分はまだ、この元恋人に罪悪感を抱いてしまっているようだった。

 私が沈黙していると、未冬は重たい声で言葉を重ねてくる。


『ほんとにごめんなさい。あたし、茉侑子にひどいことしちゃった。約束やぶって、せっかくのお誕生日を台無しにしちゃったんだもん……そう簡単に許してもらえるわけないよね』


 私の返信をそのように受け取ったか。──いいや、そう取られるような書き方をしたのは私だ。

 あえて理由も語らずに「もう会わない」と突き放す所業。“少しは未冬も傷を負えばいい”という、私の意地の悪い願望がもろに見えてる。

 これは青川に「気味が悪い」と評されてしまうわけだ。我ながら、性格のねじ曲がった嫌味な人間ですよ。


「気にさせといて悪いけど、もう会わないってのは私のただのわがままで、未冬に直接の原因はないよ。ていうかドタキャンのことなんて最初から気にしてない。体調が悪い人に無理してでも来いとは思わないから」


『ごめん。それ、嘘なの』


「うそ?」


『ほんとは、体調崩してなんかなかったの。こーくんを置いて東京に泊まるって思ったら、急に不安になってきちゃって……。そしたらすーくん、ママがいなくても航は大丈夫だよね、だなんて、ちょっと無神経なこと言ってくるから、むっとしちゃって……すーくんが行ってきてよって、当たっちゃったの。あたし、最低だよね。茉侑子のことも、すーくんのことも、気持ち考えないで振り回してた』


「……へえ、そっか。だとしても、べつにあんたを責めるつもりないって。一般論として、親が子どもを優先して責められる道理なんてどこにもないでしょ。私は子どもを産んだことも育てたこともないけど、その程度の良識ぐらいはあるってば。安心して。それじゃあ、お元気で」


 そうまくし立てて通話を終了しようとしたが、未冬に『待って、お願い!』と呼び止められてしまった。


『ねえ、本当にもう二度と会ってくれないの? 謝りたいの。会って謝りたいだけなの』


 子どもと離れられず、代わりに夫を派遣してきた女が、今度は夫の協力もなしにいったいどうするって言うんだろう。

 東京まで0歳の子を連れてくるつもり? それとも身軽な私が茨城に来いって話ですか。


 そろそろ戻らないと、定時を過ぎて私用で会議室を使っているのがバレるかもな──などと、情趣もない感想が浮かんだ。心が荒んできている。


 案の定、未冬は食い下がってきた。

 赤ちゃんを産んでみたいからと言って私の元から去った、まさしく張本人。

 かつてお付き合いしていた初恋の人と運命的な再会を果たし、めでたく結婚しました。念願の男の子を産みました。息子くんは天使です。夫とは円満です。SNSでもキラキラアピールしてます。昔は気の迷いで同性と付き合ったこともあるけど、別れたあとは仲良しに元通り。昔からの縁を大切にしつつ、地元でプチバズの美人ママやってます。

 ってな具合でしょうか? なんつーかさ、よくできた筋書きだよね。


「それでも多分、会ったらまた揺らいじゃうんだよね。あんた、私の弱点すぎるからさ。でも、いいかげん目が覚めた。まあ、他人に指摘されて初めて気がついてるっていう、情けない話なんだけどね」


 話しながら投げやりに笑った。電話の向こうで、『ねえ茉侑子、なにを言ってるの? 他人ってだれのこと?』と問う声が聞こえる。そりゃそうだ。こんな独りよがりな戯言、意味わからなくて当然。電話で垂れ流すべき内容じゃない。そう分かっていながらも、私の自嘲は止まらなかった。


「若くて綺麗で人懐こくて、そのくせ頭の切れる女子と知り合って、好き勝手なこと言われたんだよね。しかもズタズタにメンタル破壊しておきながらアフターフォローまで完備だよ。これもう意味わかんないでしょ。あ、ねえ知ってる? 今更青春こじらせてるエリート男がさ、あんたの夫に変な懐きかたしてんの。もし気になるなら、あんたからその男になにか言ってあげたら? 妻なんだしさ」


『まってよ、さっきからだれの話をしてるの……? ごめんね、ほんとにわかんなくて……。ねえお願い! 教えてよ茉侑子。あたしたち、どうしたら元どおりになれるの?』


 元どおり──きっと未冬が思い描いているのは、恋人になるよりも前の、無垢だったあの頃なんだろう。

 幼かったころの数々の思い出は、それはそれはまぶしいものだけれど。


「ごめん。私にとっての未冬は、どうしたって元彼女以外の何者でもなくなっちゃったんだ。私、あなたを過去の人にしておかないと、前に進めない気がする」


 言うだけ言って、私は通話終了のアイコンを叩いた。

 そのあと「以降の連絡はテキストでお願いします」と送信したが、それについて、未冬から何かが返って来ることはなかった。

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