2.住吉周真②
絶対に屈しない男
夫たるもの、妻の色仕掛けに屈さぬようにしなければと思う。
東京からの帰り道、僕はただ浮かれていたわけではないのだ。一人で運転しているうちに頭が冷え、冷静さを取り戻すことができた。ギリギリセーフ。まだ舞える。ちなみに千葉県に入るまでは高速に乗らず、一般道で帰ってきた。首都高くんとは……まだお友だちにはなれないみたいだ。
「……ただいま」
家族三人で暮らすアパートに戻り、そろりとドアを開けて中へ入った。
「すーくん、おかえりなさい」
廊下の奥から未冬さんが出てきて、優しく出迎えてくれる。
もう入浴を済ませたのだろうか。長い黒髪を下ろしていて、前開きの部屋着を着ていた。
玄関で靴を脱ごうとすると、僕の背中に妻の細い腕がまわってくる。
「み、未冬さ……ウワッ!」
そのまま抱き寄せられ、僕は未冬さんのやわらかな胸に顔を押し付ける形になった。
シャンプーの香りと体温に包まれ、危うく絆されてしまいそうになる。
が、しかし! しかしであります。
日本国民の皆さん、私はここで負けるわけにはいかない。妻という高い壁にも、屈するわけには参らないのであります。
「……こーくんは?」
未冬さんのふわふわおっぱ……体から顔を離し、僕は冷静に我が子の様子を訊ねた。彼女はくすっと笑ってうなずいた。
「うん、今は良い子でおねんねしてるよ」
すっとスマホを差し出される。そこには、すやすやと眠る愛息子・
ベビーモニターである。
一人寝に慣れてもらうため、つい先日、我が家では航の寝室を両親とは別にしたのだった。もっとも、未冬さんは航と別室になることを寂しがってしまい、初めは導入を若干渋っていたのだけれども。
「あっ!」
「えあッ!?」
いきなり未冬さんが声のボリュームを上げたためビクついてしまった。でも大丈夫、まだまだ舞えるはずである。
「すーくん、ピコモンストア行ってきたの?」
「あ、ああ……」
どうやら僕の提げていたショッパーが気になったらしい。未冬さんの指摘で、自分(成人男)がペカチュウカラーの目立つ持ち物を装備していたことを思い出した。なんだか少し照れくさい。
「すごくかわいい! こーくんにお土産買ってきてくれたの?」
「うん、まあ、それもそうなんだけど……」
お土産の話もしたいんだけれど、その前にまず、真面目な話をしておかねば。
覚悟を決め、僕はついに口を開いた。
「飯田さんのお金の件だけどさ、やっぱり夫婦で正式に返しに行こうよ。明日とはいかないかもしれないけど、段取り決めてさ……」
当たり前だけど、僕は飯田さんのお金には一円たりとも手を付けていない。
しかし、仮に僕一人で返しに行ったところで、飯田さんがまともな対応をしてくれるとも思えなかった。冷静な話し合いをする前に、また叩き出されて終わりだろう。悲しいが。
「ごめんね。すーくん、何も悪くないのに。ほんとに大変だったよね」
未冬さんが後頭部をゆるく撫でてくる。
つい体を預けてしまいたくなるが、まだ話は終わっていない。
僕は未冬さんの肩を掴み、少し身体を押し返した。
「いや、きっと僕が失礼をしてしまったのが原因なんだ。僕が悪かった。だから謝って、穏便にお返ししよう」
「すーくん……」
僕だって、何も思わないわけじゃない。
高校時代の飯田さんは大人びていて、なおかつ落ち着いた人だった記憶がある。いつも、「未冬、あんまり住吉くんを困らせちゃダメだよ」なんて言って。
未冬さんを優しく窘めつつ、僕自身にはフラットな感じで接してくれる。そんな人。
当たり障りない関係を築けていたと思っていた。
──でも、本当はずっと嫌われてたんだろうな。
遅れて行ったのもそうだけど、妻の代わりにノコノコ現れた僕が、そもそもの配慮に欠けていたのだ。
当然ながら、彼女が誕生日に会いたかったのは、未冬さんであって僕ではなかった。
「飯田さんは、未冬さんの大切な友達なんでしょ? それなら、今後のことも考えて……ね?」
本心としてはショックなのだ。そこまで飯田さんに嫌われるようなことをした覚えもなかったから、ただただ悲しい。
けれど職業柄、プライベートであっても金の問題は慎重に取り扱うべきだと思う。その相手が未冬さんの大切な友人なら、なおさら。
未冬さんは逡巡していたが、やがて静かに頷いた。
「うん、二人で謝らせてほしいって、茉侑子に連絡とってみるね」
その言葉を聞いて安堵した。これでやっと僕も緊張を解くことができる。
「ありがとう。でもね、これからは一人でなんでも決めようとしないで、僕に相談して。いい、わかった?」
「うん。わかったよ、すーくん」
そう答えながら、未冬さんは切なげに微笑む。僕の頬を撫でてくる手。
今日はやけに言動が素直だ。なんだか調子が狂ってしまう。
「あの、とりあえず家に上がらせて……」
返事の代わりに、細い指がジャケットの内側に滑り込んできた。
やわらかく、触れるか触れないかの強度で胸を撫でてくる指。こそばゆさに、肩にぐっと力が入ってしまう。
「み、未冬さ……」
その指が、不意に、一点をつんっと突いてきた。
「んっ」
びくりと反応してしまう体。
未冬さんの得意技なのだ。──確定急所の乳首当てゲーム。
彼女は僕の顔を覗き込んで、無邪気に笑いかけてきた。
「えへへ、また当たりだった?」
「もう、あんまりいたずらしないでよ……」
ふふっ、という笑い声のあと、今度は唇を塞がれた。
軽く触れるようなキスのあと、ちゅっと音を立てて、長めに吸い付かれる。脳が、甘く痺れていくような感覚に支配される。
「すーくん、ごはん食べてこられた?」
未冬さんと目が合って、思わず顔を背けてしまう。頬が熱い。
「えっと、帰りの道中、コ、コンビニで」
「そうだったの。お腹空いてない?」
「今は、あんまり……」
「そう? あとでおなか空いちゃったら、ちゃんと言ってね」
未冬さんにリビングへと導かれた。ジャケットを脱がされ、ネクタイを丁寧に抜き取られる。
「すーくん、シャワー浴びてきちゃう?」
ジャケットをハンガーに掛けながら、恥じらうように未冬さんが言う。
飯田さんの件の詳細とか、お土産のこととか──話したいことはまだ他にもあったはずなのに、完全に彼女のペースになってしまった。
「そ……そうさせてもらおうかな」
平静を装って答えつつも、内心穏やかでない。
このあと『する』のかと思うと、やはり胸が高鳴ってしまう。
もう航もいるし、そろそろ新婚とは言えなくなってきてるのに。
そうは思うけど、なにせ久しぶりの夫婦の時間なのだ。いつまで経っても、直前の空気感には慣れる気がしない。
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