いつかの食卓
杏たま
第1話 いつかの食卓
——美味い。賢吾のご飯食べてたら、パワハラとかどうでもよくなちゃうな。
俺の作った料理なんかでどうでも良くしていいわけがなかった。しかるべきところに申し出て、きちんと対処してもらうべきだった。
そうしていたら、悠平はきっと死ななかった。もし職を失ったとしても、俺は喜んであいつのことを養ったのに。
知らず知らずのうちに上司の支配から逃れられなくなっていた悠平。お人好しで優しくて、他人の失敗までかぶってしまうような、救いようのないバカだった。
「また作りすぎたな……」
鍋の中で、すき煮がくつくつと音を立てている。
本当は二人で鍋を囲んですき焼きをしたかった。けれど悠平にはいつも、時間がなかった。
——ごめんね。一緒に鍋、つつけなくて。
忙しなくジャケットを羽織りながら苦笑を浮かべる悠平に、何度文句を言っただろう。何度、「行くな、お前の上司はおかしい」と訴えただろう。だけど彼はいつも「この件が終わったらきちんと相談するから」と言って——……次の日の明け方、会社の屋上から飛び降りた。
あの日一緒に食べられなかった料理を、無意識のうちに作ってしまう。
鼻腔を満たす甘い出汁の香り。肉が煮える命の匂い。
白ネギ、春菊、しらたき、麩、そして、香ばしい焼き豆腐。それぞれの場所に収まって、食欲をそそる香りを立ち上らせながら、食されるのを待っている。
匂いはわかる。だけど、食べたいという気持ちは湧いてこない。
悠平が死んでから、いつもこの調子だ。空腹も感じない。呆然と虚空を眺めるうちに数時間が経っていて、作りかけていたはずの料理が焼け焦げる。その繰り返しだ。
「……勿体無い」
野菜を、肉を噛み締めながら生産者への感謝まで口にするような優しい男が。どうしてあんな、クソみたいな上司のせいで死ななきゃいけなかったんだろう。
怒りはとっくに過ぎ去った。今はただ、腹の奥で蠢く復讐心をどう飼い慣らしていくかだ。
あのあと俺は、密かに録音しておいた悠平の音声や、彼が深夜の呼び出しを受けて外出する時間を記録したメモを手に弁護士のもとを訪れ、悠平の会社にも、上司にも、社会的制裁を加えることに成功した。
一瞬ネットで炎上し、株価も暴落した。だが今も先方からの謝罪はない。当然だが慰謝料もない。たかだか同性パートナーという俺の立場は、紙幣の一枚よりも薄く軽いものだと、先方から値踏まれた結果だろう。
すき煮を詰めたタッパーを手に、お隣のドアを叩く。
この家には年老いた老人と、幼い男の子が住んでいる。いかにも体の弱そうな老人と5、6歳らしい少年が、どう生計を立てているのかはわからない。ただ俺が知っているのは、いつも向こうから笑顔で挨拶をしてくれる人だということだけ。
「ああ……こんばんは」
「こんばんは。あの、またご飯を作りすぎたので、よければ食べてもらえませんか?」
俺のノックで顔を出した老人は、落ち窪んだ目をしょぼしょぼと細めて、うすい唇をゆっくりと笑みの形にした。そしてぺこぺこと頭を下げる。
「ありがとう……いつも、本当にありがとうね」
「いえ、こちらこそ。もらってくださっていつもありがとうございます」
「……あのね、お礼と言ってはなんだけど、お話ししたいことがあるから、今日は一緒に食べていかないかい?」
老人が珍しく俺を引き留めた。どうすべきか迷っていると、奥から小さな足音が聞こえてくる。この老人の孫らしき少年、幸人くんだ。
「お兄ちゃん、どうぞ! ぼくが考えたすごいこと、きいてほしいんだ」
「すごいこと? ははっ、なんだろう。じゃあ、お邪魔しようかな」
枯れ枝のように細い手足をしていた幸人くんだったけれど、俺が食事を差し入れるようになってからは、年齢相応にふっくらし始めている。誰かの糧になれるのは嬉しい。今の俺には、彼の成長だけが唯一の希望だった。
「おいしい! おにいちゃんのごはん、ほんとうにおいしいね」
熱い肉を、よく煮えた野菜を、丸い頬をほんのり紅色に染めながらはふはふ頬張る幸人くんは微笑ましい。老人が土鍋で炊いた白飯は粒が立っていて甘味があり、俺の作ったすき煮とよく合った。
ひとときののどかな団欒のあと、俺は少年に問いかけた。
「ところで、すごいことって、なに?」
「あのね、おじいちゃんね、びょうきでもうしにそうなの」
「えっ?」
幸人くんの笑顔を前に、俺は凍りつく。老人は、なおも穏やかな笑みをたたえ、愛おしげに幸人くんを見つめて頷いていた。
「おじいちゃんが死ぬまえにね、おにいちゃんのねがいをかなえてあげたらどうかなぁっておもったの」
「俺の……願い?」
「……殺して欲しい人間がいるんでしょう? 幸人を育ててくださったお礼に、私が殺して差し上げます」
老人がしわがれた優しい声でそう言った。
落ち窪んだ瞳に宿る強い光に気づいた俺は、なぜだかとても、安堵していた。
了
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いつかの食卓 杏たま @antamarion
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