姫様、大海にて怪異と出会うの巻

あかいかかぽ

第1話

 まるで木箱に詰め込まれたような息苦しさをおぼえて、千姫せんひめは侍女の小春こはるに声をかけた。

「ねえ、まだ船旅は続くの」

 小春はこまったようすで千姫に微笑んだ。

「船で二十日と聞いておりますので、いましばらくご辛抱くださいな」

「……まだ十五日もあるのね。狭い船室に閉じ込められてなにもやることがないわ」

「なにかお持ちしましょうか。退屈を紛らわすもの、甘い菓子でもいかがです」

「そうねえ。護衛の者たちのようにお酒が飲めたらよかったのに」

 千姫は海を渡った大陸に嫁入りしようとしている。

二十日間の船旅のあとは馬車でさらに十日以上の陸路を進む。そのあいだに大陸の言葉と風習を覚えておくようにと、大陸からの使者に厳しく言われていた。だから退屈を感じている暇などないのだが、いまはその使者も作法の師匠も酒盛りの最中だ。

「あきれますわね、毎日朝から晩まで。国許の千姫のお父上が知ったらさぞ嘆かれることでしょうに」

 この船は五十人もの人間を乗せている。千姫の父が手配した警護の者と侍女たち、大陸の国から来た使者たち。ほかにも嫁入りの持参品や貢ぎ物などたくさんの文物を積んでいる。

「郡王さまってどんなかたなのかしらね。若いのかしら、美男子なのかしら」

「きっと素敵なかたに決まってますわ。こんなに大きな船をご用意くださるのですもの。姫様のこと、首を長くして待っておられますよ。さ、姫様のお好きな焼き饅頭をご用意しました。お召し上がりくださいな」

 千姫は焼き饅頭を手に取った。

 いくら小春に問おうが知りたい答えが返ってくるわけはないのだ。

 郡王の人となりを聞きたければ使者に訊ねればよい。

 もとより、どんな人物であろうと親が決めた婚姻に文句はない。姫君に生まれ落ちたときから、政略結婚しかありえないのだから。

「少々気分が悪いわ。甲板で風に吹かれてこようかしら」

「一人では危のうございます、わたくしも──」

「小春はいいわ。残りの焼き饅頭でも食べていてちょうだい」

 小春を置いて千姫は甲板に向かった。

 酒に酔った兵士とすれ違う。彼らは国と国の狭間で自由を謳歌しているように見える。少しだけうらやましいと千姫は思った。

 出港してから順調な船旅だ。シケることもうねることもなく、大きな鏡のような海原がひろがっている。

「あら」

 船五隻分ほど離れた水面が波立った。魚が跳ねたのだろうか。

「魚にしては大きいような……」

 千姫は好奇心に誘われて身を乗り出した。

「海豚や鯨は鱗がなくてすべすべしていると聞いたことがあるわ。見てみたいこと」

 また水面が跳ねた。今度は尾びれが海面上に現れた。

「もっとこちらに来ないかしら。近くで見てみたいわ」

 願いが叶ったわけでもないだろうが、それは黒い影となって徐々に近づいてきた。千姫が乗った船の下をくぐる。

「あら」

 千姫は右舷から左舷に急いだ。すると黒い影はまるでからかうように今度は逆向きに泳ぐ。そのあとは船の周囲をぐるぐると泳ぎ出す。

 まるで千姫が見ているとわかっているようだった。

「あなたはいいわね。自由で!」

 千姫は魚に向かって叫んだ。叫んでからはっと胸をおさえる。自分でも気づいていなかった渇望がうずいた。

 果てのない海を自由に泳ぐ大魚。自分とは正反対の存在だ。

 ふいに黒い影が消えた。海の底深くに潜ってしまったようだった。

 見渡す限りの大海原に、今度は一人取り残されたような心細さを感じた。

「そうだ、焼き饅頭を食べないかしら」

 袖に隠しておいた紙包みを取り出す。紙の中から焼き饅頭を出したところで、小さな水音がした。

 音のしたほうを見ると、男と目が合った。

「え……?!」

 海の中に男がいて、こちらをじっと見ている。銀髪で青い目をした異人が胸の高さまで海につかっている。

「あなた、なぜ海の中に。あ、言葉はわかるかしら。ニーハオ? あなたの船はどうしたの。わかったわ、沈没したのね。いますぐ助けを呼ぶわ」

 男は首を左右に振った。

「助けてほしくないの?」

 男は手を差しのべた。だが千姫の手が届く距離ではない。

 助けを求めてではなく、千姫の手の中にあるものを求めているのだと気づいて、千姫は思わず頬がほころんだ。男に焼き饅頭を放る。

 男は片手で受取り、すぐに頬張った。気に入ったようで華やかな笑みを浮かべる。

「もっとあるわよ。食べたい?」

 男が頷いたので「ちょっと待っていて。取りに行ってくるから」と言って船室に向かう。小春に頼めば草団子とくるみ餅を出してくれるはずだ。

 だが船室に小春はいなかった。侍女や兵の控える船尾のほうにいるのだろうか。奥から声が聞こえた。

「千姫様もお気の毒に」

 小春の声だ。

「身分の高いかたの宿命とはいえ、私だったら嫌ですね。顔も知らない異国に嫁ぐなんて」

「郡王にはすでに正妻がいるという噂よ。両手に余る子供に、孫まで」

「あら、ずいぶんとお爺さんなのね」 

 三人の侍女が集まって噂話に花を咲かせている。

「誰も本当のことを教えてさしあげないのね」

「悲嘆に暮れた花嫁道中なんてうんざりですもの」

「ところで私たちはどうなるのでしょう。いつか帰れますわよね」

 一人が含み笑いをした。

「頃合いになったら文が届く手筈になっています。国許の親が重病だからすぐに帰国するようにという内容です。そうしたら千姫様に暇をいただき郡主領を出て行きましょう」

「まあ、千姫様を置き去りにして?」

「私たちはせめて姫様の分まで楽しくいきましょう」

 侍女たちの会話は密やかに続く。特に思うところはない。藩主の娘として生まれたときから運命づけられていたことだ。自分が輿入れするのは藩のため父のため民のため。けして自分自身のためではない。嫁ぎ先が海外だったのは予想していなかったが、それだってたいした違いはない。ただ役目を果たすだけ。

 顔を知らない相手に、言葉の通じない相手に嫁ぐのがなんだというのか。同じ人間ではないか。なんとかなる、と千姫は信じている。

「嫌な相手だからって庶人のように簡単に離縁できるわけじゃないものね。別れたかったら死ぬしかないんだから」

「人身御供と一緒ね」

 侍女の楽しみを邪魔しないよう、そっとその場を離れた千姫は、残っていた菓子を摘まんで甲板に戻ったが、男の姿はすでになかった。

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