5-2 まあなんとかできなかったんだけどさ

「よお、兄貴」


 なるほど、思ったよりも平和そうだ。と、安藤はそう楽観的に考えてみた。

 レイモンドの書斎。緊急事態だってのに変わらず、まったくもって相変わらず、レイモンドは書斎のデスクに座っていた。煙草を咥えながら、書類を斜め読みしながら座っていた。

 濁った海のような色の髪も、その青玉の瞳も、何もかもがいつも通りな、子供だらけの教会に住み着く、唯一の大人である。唯一残った大人である。

 そんな大人と対面するは、レイモンドの弟であるアルベルト。それと部外者として安藤。いつもと変わらぬ情景である。

 レイモンドはこちらに見向きもせず、言う。


「……やあ、アルベルト」


「せめてこっち見ろや馬鹿兄貴。オマエの脳みそ解体するぞ」


「口が悪い。貴様の脳みそこそもう正常ではないだろう。英雄信奉者め」


「兄貴も同じだろ。兄弟揃って、救えねえ人生を歩んできたじゃねえか。忘れたとは言わせねえぞ」


「忘れた」


「その喉燃やしてやろうか」


 いつも通りで日常茶飯事な悪口の応酬。つらつらと述べられる互いの悪口不平不満に貶し合い。安藤は呆れつつ、その動向をじっと観察する。指示を待つ。


「なんの用だ」


「……」


「くだらない言い争いをしに来たワケではないだろう、アルベルト」


「……そうだけど、オマエに言われるとやる気無くす」


「難しいお年頃だな」


 クスクス、レイモンドは笑った。意外だった。笑顔なんて見たことがなかったから、こんな堅物人間が笑うなんて、予想外も予想外だった。


「……じゃあ、聞くけどさ」


 アルベルトは髪を掻き上げて、不機嫌そうに口に出す。



「どこまでがオマエの想定内だ? なあ──ラファエル」



 レイモンドは、ラファエルは答えなかった。

 ただ、クスクス笑っていた。


「ラファエルの権能。それこそ忘れたとは言わせねえ。オマエは全部全部全部わかってたはずだろ。オレが英雄になれないことも、『蜘蛛糸の魔女』……シャーロットに縋り付くことも、セドリックが不完全な大人になることも、神崎義信が死ぬことも、神崎雨音が義信殺して真似をすることも、オマエがラファエルになってからのことは全部全部! ……知ってたはずだろう?」


 レイモンドは答えない。

 代わりと言わんばかりに、質問する。


「……根拠は」


「……」


「何を根拠に、私が全て知っていたと考えた」


「聞いてなかったのかよ、兄貴」


 アルベルトはますます不機嫌そうに。



「ラファエルの権能である未来予測がありゃ、全部わかんだろうが」



 ……ああ、そうか。

 レイモンド・フォーセットは、天使ラファエルの器だった。アルベルトが神の炎を使って全てを燃やすように、レイモンドにだって人間離れした力がないとおかしいじゃあないか!

 安藤はやっと気づく。気づいたからなんだとも言えるが、とりあえず会話内容を把握するのは大事だから。


「……なるほどなあ」


 レイモンドは書類を投げ捨てて、新しく煙草に火をつける。煙を吐き出して、アルベルトに笑いかけた。


「ようやっと気づいたか、ウリエル」


「……そーだよ、ラファエル。昔の資料漁ってるとき、ようやく気づいた。気づけた。ご丁寧に残してくれててどうもありがとうって感じだな」


 アルベルトはずっと不機嫌そうだ。舌打ちをして、レイモンドを睨んでいる。


「なあ、兄貴。どこまで知っていた? オレが天使の器になる意味ってあったか? 神崎義信をわざわざ死地に送り出したのは何故だ? 全部知ってたんなら、なんで」


「おいおい、そう急かさないでくれ。私の未来予測は、そこまで万能ではないんだよ、アルベルト」


「……はあ?」


 短くなった煙草を灰皿に押し付ける。大量の吸い殻の山がまた大きくなる。


「ルシファーのものとは違い、私の権能はとても不安定なのだよ。天気予報と同じだな。およそ何割の確率でこういったことが起きますよと、そういった不安定な未来が知れるだけだ。そもそも原理は守護天使たちの動きからこう言ったことが起きるだろうと予想するだけなのだから、当たり前と言えば当たり前だな」


「……でも、知ってたんだろ。全部、失敗するって」


「ああ、失敗する確率も知っていた。しかし、賭けないわけにはいかなかった。どれだけ成功確率が低くとも、それに賭けるしかなかったのだ。アルベルトを天使の器にしたのも、神崎義信を死地に送り出したことも、セドリックを教師にしたのも、全て、うまくいくかもしれなかったから、そうした」


「……」


「結果はご覧の有り様だがな」


 ギイッと椅子が軋む。レイモンドがカラカラ笑う。


「結局、うまくできなかった。みんなを救うことはできなかった」


「……あれは、兄貴のせいじゃ」


「私のせいだ。私が無駄な研究にかまけていたから、私があの子の父を殺してしまったから、私が救うと言ったのに、間に合わなかったから。だから、こうなったんだ」


 レイモンドは新しい煙草に火をつけようとして、途中でやめた。そのまま仕舞う。


「いつまで過去に縋り付くつもりだ、兄貴」


「いつまでも、ずっと。今度こそはと、もう死んでしまったみんなを救うまで、守れるまで、ずっとずっとずっと」


「……みんなはいない。死んだ。しょうがなかった。あの時説明をしなかった。あの子が矛先を間違えた。兄貴も神崎さんも誰も悪くなくて、ただ、あれは」


「私が悪い」


「……」


「守れなかった私が悪い。あの子の父親を殺した私が悪い。全て、私のせいだ」


「なんで、そこまで思い詰める。オレは、兄貴のことを責めたりは」


「ああ、責めてくれなかったな」


 レイモンドは変わらず、アルベルトに微笑みながら。


「責めてくれなかったから、こうなったんだよ。アルベルト。私の弟」


「……ひどい」


「ああ、私も大人気ないと思う」


「じゃあ、んなこと言うなよ……」


「私を責めても責めなくても、こうなっていたよ。セドリックはしっかりと私を拒絶してくれたが、結果はご覧の通りだからな」


「変わんねえじゃんか」


「ああ、変わらない。どこまでも、みんなが死んだところから、もう取り返しはつかない」


 なんの話かはわからなかった。

 それでも、アルベルトはひどく辛そうな顔をしていたから、安藤は口を挟めない。


「なあ、兄貴」


「なんだ、アルベルト」


「ここからどう巻き返すつもりだ」


「……」


「神崎雨音はもう英雄になれない。また作るか? 探すか。でもできねえよな。セドリックから聞いたぜ。もう歩けねえオマエは、英雄を作れない。誰も英雄にできない。そもそもこれまでの行いでお上さんから目ェつけられてるオマエに、突飛なことできねえだろ」


「そうだな。まったく、その通りだ」


「じゃ、どうするつもりだ?」


「どうするつもりもなにも、どうにかしてくれるだろう? アルベルト」


 ずっと微笑んだまま、レイモンドはいけしゃあしゃあとそう宣った。


「……どうにかしてくれるだろう? アルベルト」


「……オマエ!」


「どうにかしてくれる。間違え続けた私の間違いを、どうにかしてくれる。なあ、アルベルト。そうだろう? 神崎雨音を英雄にし、セドリックを教師とし、『蜘蛛糸の魔女』をシャーロットにした。間違えてない。間違えたことがない」


「オマエは、どこまで……!」


「どうにかしてくれよ、アルベルト」


 アルベルトは近づいて、レイモンドの胸ぐらを掴んだ。それでもレイモンドは笑っている。


「どこまで他力本願なんだよ! ラファエル!」


「……その名で呼ばないでくれよ。傷つくじゃないか」


「兄貴は、そんなやつじゃない! オレに責任を押し付けるようなやつじゃない!」


「すまないな、アルベルト。しかし、間違えていないじゃないか。私はもう駄目だから、アルベルトがやってくれ」


「……なんで」


 アルベルトはレイモンドと顔を突き合わせながら、問う。


「なんで、そんなこと言うんだよ」


「……」


「オレは、英雄になれなかった。兄貴を救えなかった。なんで、そんな期待を」


「……可愛い弟の成長を望むのは、そんなにおかしいことか?」


「……はは」


 掴んでいた手を離す。そのまま離れる。


「オレは、オレの兄貴であるレイモンドが好きだったぜ」


「……そうか」


「大嫌いだ、ラファエル。天使の器。レイモンド・フォーセット」


 アルベルトは安藤のところまで戻ってくる。

 袖を引っ張られた。

 ……ああ、なるほど。したかったことはできたのか。

 それじゃあ遠慮なくと、安藤はハンドガンをレイモンドに向けた。


「後のことは心配すんなよ、オレの馬鹿兄貴。レイモンド。オマエが信仰した完璧な弟クンが、全部全部願った通りに思った通りにやってやるからな」


「……アハハッ!」


 レイモンドは笑って。


「期待しているよ、私の可愛い弟。アルベルト」


 安藤は引き金を引いた。



 ……



 セドリック・ライトフットは死んだ。

 完膚なきまでに死んだ。四肢がもがれ頭が爆ぜた。そりゃあもう死んでいる。ゾンビだろうがなんだろうが死んでいる。死ぬに決まっている。

 あの金髪碧眼の大人子供は、最後の最後に恨み節のようなものを呟いて、あの神崎雨音をただのクソガキと罵って、死んだ。


「ひどいですね、先生」


 唯一残った胴体を突きながら、あまねはため息を吐く。死体は案外柔らかい。突いたところが戻らない。


「ほんと、ひどいです」


 ぐにゃぐにゃと死体が歪む。冷たい皮膚の感触は気味が悪い。

 あまねは立ち上がった。

 こんなことをしている場合ではないのだ。いつまでも一人にかまけていても世界はぶっ壊れてくれないんだから、チャチャっと皆殺しにするが吉。てわけで、殺す。みんな殺す。安藤陽葵は殺さない。殺そうとも思わない。みんな死んだ後、戦争に参加できなかった事実に殺されてしまえばいい。だから狙うはアルベルト、レイモンド、情報屋、シャーロット、皇五十鈴なとの悪魔使い。それから一般の皆々様。うん、いい感じ。


「よ、あまね」


「……なあに? 渚くん」


 桐生渚が声をかけてきた。灰色のパーカーに学ラン。ボサボサの黒髪に、濃い隈が残った瞳。疲れていそうで楽しそうな、そんな少年。怠惰の悪魔使いで、あまねの友人で、それから救えなかった人。神崎雨音の罪の象徴。

 神崎雨音は、人を救わねばならない。

 神崎義信は死を嫌う。死を厭う。死を忌諱する。だから、神崎雨音はそうしなければならなかった。無理やりにでも死にたがりなコイツを救わねばならなかった。じゃあぶっ殺してやるよというあまねの本心と、死にたがりだろうがなんだろうが死ぬなんてもってのほかであるという神崎雨音の考え方。揺らぎ出した頃の神崎雨音の思考はミックスジュースのような、複雑怪奇のようで実際のとこ単純単調なお味がする。

 つまり、つまらない。

 破壊願望と英雄思想。混じり合った成れの果て。それが神崎雨音である。人を殺せるのに、かつての師を思い死を恐れる、人を殺せない英雄。それこそが神崎雨音の正体で御身で汚ねえ本心だ。


「殺せて満足か?」


「……それなり?」


「なんで疑問形なんだよ。殺せて嬉しいってはしゃぎ回るとこだろうが」


「そんなこと言われてもなあ」


 だってまだ一人目だもの。足りない。こんなんじゃ全然足りない。まだ一人。まだまだたくさんいる。だから、殺す。壊す。それがあまねだ。生まれ持った願望だ。

 あまねは桐生の方を見ようともせずに、死体を足蹴にしながら言う。


「ね、渚くん」


「なんだ? あまね」



「その格好、薄寒いからやめてくれない?」



 桐生渚は。

 彼は、ゲラゲラ笑い出した。

 およそ桐生渚とは思えない声だった。蛙と蜥蜴と石ころとその辺の雑草を煮詰めた釜が沸騰した時のような音を、無理やり繋ぎ合わせたような声だった。つまり、人間離れしていた。人外だった。人じゃなかった。

 そもそも、死人に声も口もないんだけど。



「──ようやっとだな。……お久しゅうございます、我が主」



 ひとしきり笑って、笑って、笑い終わって、彼は恭しく膝をついて、そう言った。


「いつ頃気づかれたので?」


「そうだね、先生を殺そうかなあとぼんやり考えてたあたりから」


「おや、ほとんど最初からではないですか。仰ってくださればよかったものの」


「言って何になるってのさ」


「俺様が誠心誠意お仕えいたします」


「……ふうん」


 桐生渚のような彼はゲラゲラ笑う。久方ぶりの主人の帰還に歓喜する。堕ち切った英雄を歓迎する。どこまでも神に愛され人間に愛されない哀れな子供を歓待する。


「その格好、やめて」


「やめろと申されましても、此度の俺様の姿はもう固定してしまいましたので」


「命令だよ、やめて」


「ですから、もういじれない段階まで──」


「聞こえなかったのか」


 桐生渚モドキは口を閉じる。あまねは続ける。


「やめろと言ったんだ」


「……誠心誠意、尽くさせていただきますが、保証はできませぬ」


「皮でもなんでも剥げばいい。できねえなら僕がやってやろうか?」


「はは……冗談がお上手ですなあ」


「冗談だと思ってる?」


「……まさか!」


 彼はおどけながら。


「俺様はアナタサマの召使いでございます。まさかまさか、我が主の言の葉を冗談などとは」


「吐いた唾飲んじゃうタイプ? 気色悪いね」


「……申し訳ございません」


「何に謝ってんの? 僕、全然わかんない」


 あまねは舌打ちをした。彼は何も言わない。

 腹が立つ。


「君は僕の何?」


「……」


「君の口から言ってよ。服従しろよ。恭順しろよ。降伏して腹出して尻尾を振れ。そのみみっちいプライドを僕が丁寧にへし折ってやる」


「……恐ろしいお方だ」


 彼はクツクツと笑って、ますます頭を下げて。


「俺様は──大罪の魔王、憤怒の悪魔、サタン。──『誑かす者』」


「……それで?」


「……天音あまね様だけの、下僕でございますれば」



 ……



「キョーダイはうまくやってんのかねえ」


「知るか」


「五十鈴には聞いてねえもん」


「……名前で呼ぶな」


「分かってますよーだ、契約者殿」


 人気のない夜道を走るリムジンの中。

 いつものなんら変わりないやりとりである。

 皇五十鈴とルシファーの、なんの変哲もない、ここ七年ほどこびりついた会話。お約束と言い換えてもいい。冷や汗をダラダラ流す運転手など気にもとめず、極めて普遍的で暴力的な会話を続けていく。


「もっとスピード出せや! 殺されてえのか!」


 鳶色の髪をもつ美丈夫、ルシファーが運転席の座席を蹴り付ける。ヒエエと悲鳴が聞こえて、ぐん! と一気に加速した。皇がふらつき、隣に座っていたルシファーが受け止めた。


「オイ運転手! もっと安全に行け! 契約者殿が怪我しちまうだろ!」


 また座席を蹴る。運転手がまた情けねえ悲鳴をあげて、急に減速した。皇はふらつきを必死に抑え、ルシファーの頭をこずく。


「無茶言うな、阿呆」


「運転してる阿呆が悪いだろ。スピードの加減が分かってねえ」


「だとしても脅すな」


「……ヘイヘイ。分かった分かった!」


 ベーっと舌を出して不貞腐れるルシファーにため息を吐く。子供っぽい。ガキ臭い。

 しかし、ガキ臭かろうがなんだろうが、頼りになることは間違いない。

 皇五十鈴なんて、傲慢の悪魔使いやら皇財閥後継なんてたいそうな肩書きがなければ一介の女子中学生である。ちょっと頭が回るだけの、子供。大人に敵わない子供。

 このままでは祖父を殺せない。

 だから、悪魔を頼る。

 大丈夫だ。うまくいく。きっと、ルシファーが見た通りの結末が待っている。そうに違いない。そう思わないと全てが狂う。この七年間の行動全てが泡沫でまさに徒労になる。骨折り損なんてもんじゃない。取り返しがつかないのだ。

 狐ヶ崎恭介を契約させた意味がない。秋月佳奈を生かした意味がない。鳴海志保を巻き込んだ意味がない。兎内沙羅を放っておいた意味がない。桐生渚を死なせた意味がない。

 部下に命じて安藤陽葵を誘拐させた意味がない。部下に悪魔を使った一家心中を命じた意味がない。教皇の護衛を務めていたエクソシスト三十名を殺した意味が、神崎義信を殺した意味がない。

 なくなってしまう。

 だから、皇五十鈴は祖父を殺さねばならないんだ。


「……ンな思い詰めんなよ、五十鈴」


「だから、名前で」


「オレサマの契約者。傲慢の悪魔使い。皇財閥跡取り。主犯。ここまでの肩書き持っといて自信ねえってのは、傲慢もいいとこだろう? 殺してきた人間に失礼ってモンだ」


「……うるさい」


「傲慢な主人殿はただ一人の老人を殺すためにオレサマと契約し数えきれないほどの人間を殺した。それが事実で真相で真理だ。変えられねえうえにくだらねえ」


「知ってるさ……だから、私はあのクソジジイを殺さねば」


「だから、じゃねえよ?」


 ルシファーは心底楽しそうに。


「皇鈴助を殺すのに、オレサマは過剰戦力だ。たくさんの人を殺す必要もなかった。たとえバ金持ちでも、アンタが会いたいと言えば会える相手で、相手は弱っちい老人だ。ほっといても死ぬ。殺さなくても、いずれ死ぬ。復讐なんてしなくてもよかったんだ。あのまま野垂れ死んでりゃよかったんだ」


「……でも」


「でももクソもねえよ。アンタは殺さなくていい人間を殺して生きてきたんだ。それを忘れるな、皇五十鈴。……アンタのエゴで大量の人間が死んだことを、ゆめゆめ決してくれぐれも、死んでも忘れるな。なかったことにするな。殺人鬼」


 気分が悪い。

 皇五十鈴は、いつだって祖父を殺すために生きてきた。そのために殺してきた。そのためにルシファーと契約した。たくさんの人を犠牲にして、ただまっすぐ突き進んできたのに。


「今更、否定なんて……」


「否定なんてしてねえよ。ただ五十鈴はチョーゼツ我儘のクソッタレ傲慢ヤロウって言っただけじゃねえか」


 聞きたくない。

 皇五十鈴は不幸な子供を幸せにするために、祖父を殺すために生きてきた。みんなは幸せにできなかったけど、それでも最初の内は成功していたはずだ。ユースフ・スライマーンは生きてる内は幸せになれなかったから殺したし、桐生渚は死にたがっていたから死に場所を用意した。兎内沙羅はアスモデウスと永遠に結ばれるように地獄に堕とした。狐ヶ崎恭介、鳴海志保、秋月佳奈は想定外だったが、まだやり直せるはずだ。そのはずだ。世界をぶっ壊して、それで、みんなを苦しめていた元凶を殺し、仇をとって。

 みんな幸せにする。

 皇が幸せにする。

 そのために罪を重ねたんだから、そうしないといけない。


「ルシファー」


「なんだ? 五十鈴」


「うまくいくかな」


「いくに決まってんだろ! オレサマの契約者が弱音なんて吐くなよ!」



 ……



 秋月佳奈は夜の街を歩く。

 ギラギラ輝く人工的な金髪と、変質してしまった白色の瞳。スカジャンミニスカートとかいう不良娘の教科書のような格好で、ただひたすら、大人のものとなった夜を歩いていた。

 足取りは軽いっちゃ軽いし、重いっちゃ重かった。どっちつかずの中途半端だ。しかし事実、そうなのだからしょうがない。そうとしか説明できない。


「ぼくは何を願ったんだ?」


 失われた過去の記憶が、秋月の足取りを重くする。

 ネオンライトに照らされながら、大量の烏合の衆を横切って、秋月は晩御飯を見定めつつ、歩く。ひたすら歩く。晩御飯としてうってつけな肉を品定め。喰らいたい人間を探す。ただ探す。探し続ける。だって腹が減っているんだもの。何か食べたい。だから食べる。どこまでも単純なワイダニット。


「何を願った……」


 しかし、身が入らないのだ。

 楽しいはずのウィンドウショッピング。イマイチ集中できない。どうも思考が逸れる。今もうまそうな女を逃した直後だった。ため息を吐いてまた歩く。

 秋月佳奈に記憶はない。

 ただ、紛れもない、何をしたって紛れない空腹感だけを覚えている。

 秋月は覚えていない。ベルゼブブとの出会いも、皇との出会いも、何もかも。一片たりとも覚えていない。秋月を構成するのはいつだって飢餓感である。それ以上の情報はなかった。

 だから、願うならばその空腹をどうにかしてほしいとか、そんなところだと思っていたのだが、でも、ベルゼブブとの契約以前にもこの空腹はあったのだろうか? どちらかと言えば、代償でこうなったような気がする。お腹は空いていなかったはず。でも、なら、なんで。


「何を、何を願った!」


 立ち止まって叫んだ秋月を、大人が見てくる。鬱陶しかったので目を腐らせた。ドミノ倒しのように人間が倒れていって、ちょっとだけ愉快。

 周りは騒然とする。慌てて警官やらを呼び出す。叫ぶ女がいる。倒れた人間を救おうと近寄る男がいる。通報するもの、医者を呼びつけるもの、遠巻きに眺めるもの、スマホで撮影し始めるもの。


「……はは」


 ここで叫んだってどうにもならない。

 秋月はさっさと人間を喰らって帰るべきなのだ。あの傲慢なお姫様の元に、一刻も早く戻るべき。そうしなければならない。ほとんど帰巣本能のようなものだ。だから秋月は目玉が腐った人間に『牙』を向けようと口を開いて──


「願いましたか、佳奈さん」


 騒がしい人混みの中、烏合の衆の中から、声が聞こえた。

 慌てもしない。焦りもしない。いつも通りの微笑と文句を携えて、彼女はこちらに問いかける。


「願いましたか、佳奈さん」


「……面倒な」


 毒々しい黄色の髪と瞳。埃と蜘蛛の巣に塗れた修道服。カツンと靴を鳴らして、彼女は名乗る。おそらくは何千回も言ったであろう自己紹介文を、もう一度。


「海嫌いの吸血鬼に魔法扉を、嘆く天使の器に仲間意識を。救いの糸でも、処刑用の首吊り紐でも、望むものを与えましょう。それがわたし──『蜘蛛糸の魔女』」


『蜘蛛糸の魔女』は。

 シャーロット・ロックウェルは、秋月を一度殺したシスターは、魔女のエクソシストは、寸分違わぬ微笑をたたえて。


「佳奈さんは、蝿の王さえ喰らった人間は、わたしに何を望みますか?」



 ……



 御伽噺。

 むかしむかし、世界なんて終わってしまえと願った男の子がいました。いたからその子の血の繋がりなどない親が死に、先生が死に、英雄として祭り上げようとした愚かな男が死にました。その弟が犠牲になりました。戦争を好きにならざるをえなかった哀れな少女が苦しみました。死にたくて死にたくてしょうがない、どうしようもない男の子を残酷に生かしました。誰かに愛してもらいたかっただけの女の子を仲間に頼んで殺してもらい、自身の癇癪で魔王を祓いました。


 さて、ここで問題です。



 ──この男の子の正体は、一体なんでしょうか?



 ……



「できなかったねえ」


 天音は無感動に呟いた。何かに馬乗りになりながら、ひたすら腕を振り下ろしていた。


「ご主人様の命令だよ。君の主の指令で使命だ。守らなきゃなのに、できなかった」


 ビリリリリ! と何かが引き裂かれる。手を動かすたびに赤色が飛び出していく。天音が赤色に染まっていく。


「がっかり。がっかりだけど、それはそれでいいよ。元々、大した期待なんてしてなかったからね。うん、無茶な命令した僕が悪い。反省反省」


 天音は、自分が下敷きにしているもの──桐生渚の形をしたサタンの皮を剥ぎ取りながら、頬についた血を拭った。

 べちゃ! と剥ぎ取った皮を放り捨てる。偽物だからか、案外簡単に取れた。


「顔らへんは終わったし、もういいかなあ。面倒だもの。見逃してあげる。ほら、ありがとうは?」


 返事はない。とっくのとうに悲鳴すら消えていたもの。

 天音はため息を吐いて、立ち上がる。事切れた悪魔を足蹴にして、暗い暗い廊下の奥に笑いかけた。

 カツンと、足音が聞こえる。


「……あは」


 天音は笑う。赤色に染まったその顔を歪め、叫んで潰れた喉で、笑う。歓喜する。狂喜する。ただ待ち焦がれた対話の機会を、素直に純粋に喜んだ。


「随分とまあ、派手にやったわねえ」


 カツン、カツンと足音が一人分。可愛らしい女の子の声が聞こえる。ひたすら、近づいてくるのがわかる。


「こりゃ後始末が大変そう。いつか見た養護施設のように、そのまま取り壊しってわけにはいかないもの。まだ、使う。少なくとも、天使の器はそう言っている」


「……へえ」


 くるくると、天音は笑う。

 女の子が近づいてくる。見えるようになる。十三歳程度の、黒髪のおかっぱと顔の火傷が特徴的な、修道服が絶望的に似合わない、軍人気質の可哀想な女の子。

 天音は彼女に──安藤陽葵に、己のバディに、微笑んだ。


「ねえ、安藤さん」


「なあに? 神崎くん」


「全部、終わらせちゃおうよ」


 安藤は笑って。


「お断りしておくわ」

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