④【似てない兄妹:妹の避難所】【初心者マーク】


【似てない兄妹:妹の避難所】


 『──なお、運航再開見込みについても今後の天候次第ではまた変更が生じる場合がございます』


 滑舌の良いまろやかな声が壁の向こう側で広がっていく。

 天上からの案内に特に変化がなければアナウンスを耳にした人々の反応も変わらない。


 しょうがないなぁ。

 やんなっちゃうね。


 数人の苦笑が水道の音とともにで流れていくのが聞こえる。


 だってこんな雪、無理に飛ぶ方があぶないじゃない。

 天気予報って当てにならないことも多くて困っちゃう。


 人生の歴を滲ませた彼女たちの大らかな笑い声は水道の音が止まるなり遠のいてしまった。


 そう、だってこんなの、突然の大雪だもの。

 ね。ほんと、参っちゃう。


 最後に聞こえた彼女たちの会話につられ、扉の内側に籠ったままの少女の顔がゆっくりと持ち上がる。

 この場所に籠って何分が経ったのだろう。きっと思うほどに時間は経過していないはずだ。

 身体に染み込んだ体感時間を思い返し、香凜は再び両膝の上に顔を伏せた。背負ったリュックにつけられたアルファベット形のキーチャームが彼女の動きに呼応して宙にぶら下がっていく。


 隣の個室からは豪快な水洗音が届いてくる。これでもう幾度目か。

 大抵の人間であればこの場所に長く留まることを望まない。しかし香凜にしてみれば外の世界とやんわり隔離されたこの場所が落ち着くのだ。

 少し前まではこの場所にそんな感情を抱くことすらなかったのに。

 結局、迷った末に逃げ込むのはいつも同じ場所だった。たくさんの人がいる空間が怖くて、どうしてもここを選んでしまう。

 個室の中で、香凜はすっかり変わってしまった自分の常識に嫌気がさした。


「ほんと、参っちゃう……」


 つい先ほど聞いたばかりの他人の言葉をぽつりと繰り返し、香凜は弱弱しく口角を持ち上げる。丸めた身体に閉じ込められた嘲笑はほかでもなく自分に向けたものだった。

 突然の大雪に足止めされた今の状況。それがまるでここ一年半の自分の人生を凝縮しているように思えたからだ。

 突如として大地が割れ、目の前に業火が渦巻き突風に煽られ大量の雨に呼吸すらも奪われる。

 彼女に降りかかったいじめはあっけなく彼女の日常を壊していった。


 香凜にとって、いじめは天災にほかならなかった。

 無力な存在に容赦なく襲い掛かる脅威の数々。それは彼女の心を麻痺させるには十分すぎるほどの威力だった。もはや何もかもを奪われ、何を失くしたのかすら自覚することができない。

 そのうちに収まると周囲が見過ごすうちにいじめは深刻化し、今や二進も三進もいかなくなって身動きが取れない。大雪に行く手を阻まれた今もそれは同じこと。

 気づかぬうちに溢れ出た涙を拳で拭き、香凜は細い息を吐き出す。鏡こそないが、きっと目元は真っ赤になっていることだろう。


 いじめのきっかけなど分からなかった。ただある日を境に、仲良しだった二人に無視されるようになった。それがいじめの始まりだったことだけは覚えている。

 はじめのころはそれこそ無視をされるだけで悪口を直接言われることも、クラスメイトの前で無茶ぶりをされることもなかった。一部のクラスメイトが同情して声をかけてくれたこともある。

 けれど一か月、二か月と時が過ぎるうちにいじめの範囲は広がっていき、教師に隠れて香凜との会話禁止令が学年中に施行されるまでにエスカレートしてしまった。

 気にかけてくれた同級生たちも学年を牛耳るリーダーグループに逆らうことはできずに見て見ぬふりをするばかり。


 たいして生徒数の多い学校でもない。安易な裏切りは自らの命を差し出すことと同義なのだ。

 それが分かっているからこそ香凜は誰も責めることができなかった。リーダーグループが悪いと言い聞かせてはいる。が、さっきトイレに来る前に人にぶつかってしまったように、鈍くさい自分が気づかぬうちに悪いことをしたのかもしれない。こうなってしまうともう思考は堂々巡りを続けるのみだ。

 教師や両親に相談をすればいいと頭では理解しているものの、その後の報復が怖くて何かを訴える勇気もない。ましてや両親になんて、恥ずかしくて言えるはずもない。ただでさえ優秀な兄と比較して自分は劣っているのに、これ以上彼らを失望させることなどしたくはないのも本音だった。


 ちっぽけなプライドが邪魔をして、香凜はブラックホールに吸い込まれたまま出口を探す術もなくただ耐える日々を過ごしていた。

 何度か、兄の汐音に相談しようかと思ったこともある。しかし留学を目指す兄にも余計な心配をかけたくなくて、結局は何も言えなかった。自分と違って彼は中高共に人気者の青春を過ごしてきた人間。そんな相手に自分はいじめられていると告白するなどなおさら惨めに感じる。

 それに、地元ではちょっとした有名人である兄に頼ってしまえば同級生たちの神経を逆撫でしそうでリスクが高すぎる。

 いつまでも人気者の兄に守られるだけではきっと駄目なのだ。

 そう。駄目なのだ。

 再び顔を上げた香凜は鼻をすすりつつ、目尻に残っていた涙を袖で拭う。

 ずっとこの場所にいても駄目なことはとっくに分かっている。

 でも──。


「どこに行けばいいの、お兄ちゃん……」


 最初と最後に頭に浮かぶのはどうしても兄の顔だった。

 香凜のか細い声が空気に溶け込むと、その直後にどたどたと騒々しい足音が同じ空間に入り込んできた。どうやら二人、駆け込んでいたようだ。

 顔を洗っているのか、バシャバシャと水の音がうるさくてはっきりと会話を聞き取ることはできない──が。


「──男の人?」


 その声がどこか兄に似て聞こえ、香凜はきょとんと首を傾げた。

 でもここは女性用トイレ。男の人の声が聞こえるなど、気のせいだろうか。



【初心者マーク】


 やうやう白く染めゆく頭髪の頂。

 男は、見事に降雪した自らの姿を鏡越しにぼうっと見つめ、肩に残っていた雪を払った。しかしそれは雪ではなくどこかで服についたであろう埃だった。それもそうだ。空港に入る前から雪が降っていたとはいえ、暖房の効いた室内にいればとっくにその氷の結晶は溶けている。体についたはずの白は消えているはず。

 ただ一箇所、この頭髪を除いては。

 鏡の中の自分をまじまじと観察し、神田林かんだばやしはすっかり色を失いつつある髪を指でそっと撫でた。若い頃に猫毛で悩んだその柔らかな髪質は変わらぬまま、自慢だった立派な髪色だけは劇的な変化を迎えている。もうほぼ白髪だ。


 ──まだ残る髪が多いだけ恵まれたものでしょう


 行きつけの屋台の女店主に言われた複雑な賛辞を思い出しつつ神田林は少し寂し気な眼差しで自らを見やる。

 思えば長年勤めた会社を二年前に定年退職したあの日以降、自分のことをこうもしっかり観察する機会はなかった。日々の身嗜みのために鏡をのぞくことはあれど最低限の清潔感のみを気にかけ、あまり自分の顔を見ることをしていなかった。

 凛々しいスーツに身を包んで家を出たあの日の自分とは違い、鏡に映るのは自分によく似た元気のない高齢の男だ。それが自分なのだと、数秒は気づけないかもしれない。


 だが神田林はそんな変化も無理はないと納得できる節もあった。

 退職後は特段の趣味もなくぼんやりとした日々を送り、毎朝目が覚める理由が欲しいというだけで近所のスーパーでパート勤めを始めただけの二年間。

 それなりに規則正しく、多大なストレスもない状態で日々を暮らせてはいるものの、そこに現役時のような活力があるかと問われれば首を捻ることだろう。

 少子高齢化が叫ばれて久しい世の中ではやれシルバー市場だ、年金だ、医療費だ、と上げては下げられる社会の波に窒息してしまいそうなのだ。金蔓にされるくらいならまだいい方で、市場に協力したい気持ちがあっていてもそれほどまでに落とせる金があるわけでもなく。


 どこか宙ぶらりんな自らの立場に活力など見出す暇があるはずもない。むしろ会社という組織を離れてから自分の役割意義が刻一刻と薄れる一方だ。

 退職前も決して優秀な社員というわけではなかった。けれど、ハウスメーカーの営業として毎日を生きる定義があったことがどれだけ恵まれたことだったか。

 屋台の女店主いわく恵まれているらしい寂しい頭髪にため息を吐き、神田林は手にしていたハンカチを肩にかけた鞄に戻す。と、鞄のポケットに見えた手書きのメモが彼の意識を独占した。


「絶対に行くべき、大阪の観光名所……」


 旅行初心者の神田林のためにと屋台の女店主が書いてくれたメモをぼそりと読み上げ、やれやれと肩を落とす。


「やっぱり俺に旅行は向かないなぁ」


 空港内を轟かす運航状況のアナウンスが遠くに聞こえ、神田林はメモから目を逸らして鞄のチャックを閉めた。

 すると、神田林のため息が聞こえたのか、彼の隣に並んだカーキのダウンジャケットを着た男が同情するように声をかけてくる。


「旅行、大阪に行かれる予定なんですか」

「──えっ? あー、はい、そうなんです。一応……まだ悩んでいるのですが」


 まさか声をかけられるとは思わず油断していた神田林は慌てて笑顔を取り繕って返事をした。まだ、営業時代の名残が身体のどこかにあるようだ。自らの瞬発力に神田林は僅かに安堵する。


「大変ですよね。私も、予定が狂ってしまって戸惑っているところです」

「貴方もどこかへ旅行ですか」

「いえ、私は帰る方なのですが……この状況では、せっかくの決意も薄れてしまうと言いますか。ほら、自由を満喫した後って、覚悟がいるものじゃないですか」

「ははは。ということは、待っている人がおられるのですか」

「まぁ……そんなとこです」


 神田林の推察に男は情けなさそうにくしゃりと笑ってみせる。

 神田林よりも一回りくらい年下の容貌をした彼はどうやらこちらで一人の時間を過ごしたらしい。

 家で待っているであろう人が俗にいう恐妻というものなのかは分からないが、どのみち、彼もまた決意が鈍っているらしい。彼の表情にどこか親近感が湧く。


「でも、まぁ、結局のところ空港までは来てしまったことですし、覚悟を決めろということでしょうかね。出鼻は挫かれましたが」

「そういうこと……なんでしょうかねぇ……?」


 男は口元では笑みを浮かべたまま、眉尻を下げて困ったように首を捻った。


「きっとそういうことでしょう」


 やはりまだ営業時代のスキルは身体に刻み込まれている。

 思ってもいないことをさも本音のように爽やかに口にし、神田林は男を元気づけるように笑いかけた。

 神田林の力強い言葉に男は「そうかもしれませんね」とこくりと頷きを返してくれる。彼のどこか吹っ切れたようなその表情に神田林の胸がぐるりと動く。なんとなく懐かしい感覚を思い出したのだ。だがそれが何だったのか、久しく感情を数えていない彼にはなかなか答えが掴めない。

 そうこうしているうちに、二人の背後で勢いよく個室の扉が開く。あまりの勢いに思わず二人は同時に後ろを振り返った。と、ずっと閉まっていた扉が開いたかと思えば、中から出てきたダークグレーのコートの男は手も洗わずに外へと出ていってしまった。


「私たち、邪魔でしたかね」

「いや……そもそもこちらのことなど気にもしていなかったような」


 神田林の問いに男は空いているほかの手洗い台を見やって首を傾げる。


「ほら、手、洗わない人もいますから」

「それは……ちょっと私は無理ですね」


 営業時代、何よりも清潔感を大事にしていた神田林にしてみれば信じられないような習慣だった。これまでそのような習慣を持つ人に出会わなかったのは偶然か。

 思わぬ未知の価値観との遭遇に神田林は目を丸める。

 ここは男性用トイレ。用を済ませた後は、誰もがきちんと手を洗うものだと思いたかった。


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