第7話 水辺の少女
「ねえ、円。五十メートル、競争しない?」
そう声をかけてくるのは、親友にして空手部のエース、ショートカットの似合う
「摩利は本当に競争好きだねー」
「なっはっは、アスリートの性(さが)ってやつ?」
「別に良いけど、罰ゲームは?」
「んー、帰りにアイス奢りでどう?」
「よし、乗った!」
円たちはプールに移動して、準備運動を始める。円は五番コースの水上に立つ、スクール水着の女子生徒の姿を視つけた。そういえば、去年もいたような気がする。
円は幼い頃から幽霊などのこの世ならざる者を視てきた。いわゆる霊感体質とか言うやつだろう。関わってもろくなことがないので、スルーすることにしている。ある人から貰ったブレスレットを着けていたら浄霊も出来るのだが、プールに入るときは外さないといけない。だから、今日も無視だ。
「摩利、一番と二番コースで競争しよう」
「オーケー、負けないよ!」
摩利が答えたタイミングで、体育教師が号令をかける。
「はーい、みんな準備運動終わったら、各コースに並んでね。今日は五十メートルのタイムを計りまーす!」
「おっと、タイムリーだね」
「よし、正式な勝負!アイスは私のものだ!」
円と摩利は第一コースと第二コースに並んだ。号令がかかり、水に飛びほ込んだ。クロールで泳いでいる最中に、水底に潜む大きな爬虫類のような存在を視てしまった。
「ガボッ!」
息継ぎに失敗し、円は失速した。摩利がターンして、残り二十五メートル。円は遅れを取り戻そうとしたが、タッチの差で敗北した。
「にひひ、円。放課後にアイス、よろしくね」
「あー、はいはい。もう、嫌なモノを視ちゃったよ」
プールサイドに移動して円と摩利は並んで座った。
「嫌なモノって?」
「何か爬虫類みたいな、変なモノが水底にいたのよ」
摩利は円が霊感体質なのを知ってるので、正直に話すことが出来る。
「え、それって河童(かっぱ)なんじゃない?」
「いや、それはないでしょ。山奥に流れる川ならともかく、こんな学校のプールに河童なんて」
「でも、
「うーん、それはともかく。第五コースの水面には幽霊がいるしね」
「え、マジで!?うーん、何も見えないけど?」
「それはあんたが視えない人だからでしょ」
しかし、円の目にはハッキリ視えている。少し古いタイプのスクール水着を着た、お下げの女子生徒の姿が。
放課後、円は摩利と一緒に教室を出た。
「じゃあ、私はいつもの図書室だから」
「ほいほーい。じゃあ部活終わるまで待っててね!」
空手部の摩利は廊下を小走りで駆けてゆく。円は図書室に行こうとしたが、気が変わってクラブ棟に向かった。オカルト研究会の黒いプレートの前でしばし、悩んだが、意を決して扉をノックする。
「はーい、入っても良いよー」
このやる気のない返事はおそらく彼女だろう。扉を開くと三年生の
「おー、誰かと思ったら平良さんだっけ?何か用?」
さっきのやる気のない返事は彼女だった。返事をしようとしたところで、背後から声が掛かる。
「あれー?円ちゃん!どうしてここにいるのー?」
ちびっこいツインテールの一年生は、
「おー、雲類鷲ちゃん、ちぃーす!」
「お疲れ様です、先輩方!」
「おーす。それで、平良さんは何の用かな?」
会長の勅使河原が問いかける。
「あ、えーとですね。プールにまつわる噂とかないかなと思いまして」
「おー、平良さん!オカ研に興味あったりするー?」
だらしなく座ってた栗花落が、座り直して笑みを浮かべる。
「いや、そういうわけじゃ・・・」
「まあ、とりあえず座ってくれる?お茶でも入れるよ」
勅使河原がカセットコンロの前に移動して薬缶を手にした。
「あ、いえ、すぐに失礼しますので!」
「まあまあ、いいから!とりあえず座ってちょ。茶菓子は煎餅でいいかな?」
「さあ、入って入って円ちゃん!」
「ちょ、仁美ー!?」
結局、なし崩しにパイプ椅子に座らされ、湯気を上げる湯飲みと煎餅が目の前に置かれた。もうこうなると、円も諦めざるを得ない。
「えっと、今日来たのはですね、プールに関する七不思議なんてあったりするかなーって思いまして」
円は簡潔に用向きを伝えた。
「プールっていえば、噂話の宝庫だよー。夜に水面に立つ女子生徒の霊とか」
「後は泳いでいると足を引っ張られて、溺れてしまうって話もあったな」
勅使河原の話に円は反応する。
「それって、爬虫類みたいなモノに足を引っ張られたという話ですか?」
「んん?いや、具体的な姿は聞いたことないな」
「でも、会長。そんな河童みたいなモノがプールの底に潜んでるって、記事にしたら面白そうっすよー」
栗花落は面白そうに口角を上げている。
「記事?」
「ああ、オカ研では毎月、会誌を出してるんだが、いつもネタに困っててな。その河童の話、今月号の特集にしよう!」
「い、いやいや!爬虫類みたいなってのは、私の見間違いで!」
「よーし、早速取材だ!」
「会長、防水カメラも持って行くっすかー?」
「ああ、音声録音機も持っていこう!」
円はしまったと思ったが、時すでに遅し。オカ研の連中をやる気にさせてしまった。妖魔は人間の空想や負の感情が溜まると生まれる化け物だ。爬虫類みたいな、という円の言葉でオカ研の連中はほぼ同じような姿を連想しただろう。それは妖魔の存在感を強化してしまう。
(失敗したなー)
下駄箱で待っていると部活を終えた摩利が姿を見せた。
「やっほー、アイスー!」
「誰がアイスよ!」
円は摩利に凸ピンを食らわせた。
「あ痛!ちょっとした冗談じゃんか。あれ?今日は仁美ちゃん、いないの?」
「オカ研が現地取材に行ってるから、遅くなると思うよ」
「え、ひょっとして円が視た河童?」
「あー、どんどんイメージが固まっていってる!」
円は頭を抱えた。
「でも、まだ被害が出てないから大丈夫じゃないの?」
「被害が出てからじゃ遅いのよ!あー、やっぱり気になるから、行くよ、摩利!」
「えー!?、アイスはー?」
「後回しに決まってるでしょ!ほら、行くわよ!」
ぶつぶつ愚痴る摩利を連れて円はプールに向かって歩きだした。
プールに到着すると、オカ研はすでにプールサイドで撮影会をしていた。
「呆れた。柵を乗り越えて無断で入り込んでるよ!」
「円、あっちの柵は低いから乗り越えられるよ」
「うー、先生に無断でこんなことしたくないけど」
二人も柵を乗り越えてプールの中に入り込んだ。
「ちょっと!止めてください!刺激したら、本当に出てきますよ!」
円は小さな声で怒鳴るという器用な真似をしてしまった。
「んー?あー、平良ちゃんじゃん!やっぱりオカ研の活動に興味あり?」
栗花落にはすでにちゃん付けで呼ばれていた。
「円ちゃんに八月朔日先輩!オカ研の見学?」
仁美が能天気なことを言った時だった。静かだった水面から浮かび上がったモノがいた。それは正に河童と言って差し支えない姿をしていた。
しばし、静寂が訪れ、直ぐに悲鳴が上がった。
「ひゃあー!か、河童!ウソっしょー!?」
「て、撤退だ!栗花落!雲類鷲!」
勅使河原が女子二人の身体を抱えて待避行動に移った。意外と力持ちだった。
「急いでください!追って来ますよ!」
実際には河童は水面から顔を出しただけで、全く動こうとしていないが、そんなことを考えている余裕はなかった。
身体を抱えられながらも、栗花落は河童の姿をデジカメに納めていた。
「そんなことしてる暇ないから!」
円はカメラを奪って摩利と二人で栗花落の身体を柵の外から引きずり出す。
「仁美も急いで!勅使河原先輩も!」
戦略的撤退は成功して、全員が無事に校門を潜ることに成功した。
オカ研の二人と別れると、円は摩利と仁美を連れて商店街に入ってゆく。
「あー、でもびっくりしたね。まさか本当に河童が出るとは思わなかったよ」
「八月朔日先輩も視ましたか?妖魔って久しぶりに視ましたよ!」
摩利と仁美が言葉を交わす。
そう、視えない体質の二人が、いや、オカ研の連中まで目撃したのが問題点なのだ。普通は幽霊と同じで妖魔も見えないはずなのだ。それが視えたということは、相手は存在値の高い上級妖魔だということだ。
商店街の半分はシャッター街になっているが、普段なら無いはずの店が視えることがある。
「やっぱり、今日は視えた」
たかなし雑貨店。霊が視える体質、あるいは偶然に霊らしきモノを視た者しか辿り着けない店だ。その看板にはこう書かれている。
『見えるはずのないモノを視たことはありませんか?誰にも言えない悩みを解決します』
「さ、摩利、仁美。手を繋いで」
手を繋いだ瞬間、二人にも店が視えるようになる。
「ふわあ。何回か経験してるけど、本当に不思議だねー」
感嘆の声を上げる仁美を引っ張って、円は扉を開いた。ドアチャイムが鳴って、カウンターの向こうの女性が顔を上げた。
「おー、円ちゃん、摩利ちゃん、仁美ちゃん!久しぶりだねー!」
長い髪をポニーテールにまとめ、派手な柄のポンチョを着こんだ、二十代半ばくらいの美女が笑顔で迎えてくれる。
「お久しぶりです、とわさん」
「ふうん。何時にも増して深刻な案件を持って来たね。まあ、座りなよ。今コーヒーを入れるから」
「はい、ありがとうございます」
駄菓子からCDやDVD、衣服やパワーストーン、剣や防具など雑多な店内に脚を踏み入れ、カウンター席に座る。出てきたコーヒーを飲んで三人でほっこりする。
「で、今日はどんな案件かな?」
とわは口角を上げて楽しげに尋ねてくる。
「実は・・・」
円が事の顛末を話して聞かせると、とわは唸りながら天を仰いだ。
「一般人にも視えた。そりゃ間違いなく上級妖魔だね。恐らく泳いでいる生徒たちの生命エネルギーを、少しづつ頂いてるんだろう」
「後、水面に立っている女子生徒の霊も視えたんですけど」
「ん?それは河童の被害に遭って亡くなった生徒かな?」
「いえ、そこまでは分からないですけど、かなり昔の霊に視えました」
とわは顎に手を当てて考え込む。
「ふむ。どちらにせよ放っては置けないか。円ちゃん、明日の放課後もそのプールに入っててくれるかな?」
「うーん、非合法で気が引けるけど、犠牲者が出てからでは遅いですもんね」
「そういうこと。じゃあよろしく頼むよ」
とわに見送られ三人は店を出た。
「あっ、円さん!?それに八月朔日さんと雲類鷲さんだっけ?」
声をかけてきたのは同じマンションに住む同級生、
「今、シャッターから急に現れたように見えたんだけど?」
タイミング悪く見られてしまったらしい。
「あー、気のせいだよ!私たちはそこの路地から出てきただけだから!」
視えない人に正直に話しても、訝しがられるだけだ。
「そうかな?まあ、そうだよね。目の錯覚かな?」
「うん、そうそう。それじゃ摩利、また明日ね」
「うー、アイスー」
摩利は名残惜しそうだったが、今日のところは仕方ない。
「じゃあ、行こっか」
円は何も無かった風を装って、先に立って歩きだした。
エレベーターが三階に着いて、仁美が降りた。そのまま上の階まで上昇する。五階に着くと神酒が降りる。
「それじゃあ、円さん。また妹がお邪魔してると思うけど」
「うん。あまり遅くならないように注意をしておくよ」
「よろしく。それじゃあ」
扉が閉まると、円は角に立つ女性の霊に向けて手をかざした。
「大いなる光よ。悪しき者を照らしたまえ」
円が呪文を唱えると手の平から光が流れだし、霊の身体を包んで透明になってゆく。完全に浄霊されて、円は息を吐く。
「幽霊には効くんだけどな」
エレベーターが八階に到着し、円は自宅の前で鍵を取り出した。物騒なので平良家は必ず施錠するようにしている。
玄関の扉を開くと見慣れた靴がある。まずは自室にカバンを置いてリビングに顔を出した。
「あ、お帰りなさい、円お姉ちゃん」
神酒の妹の
「お帰りー」
弟の
「今日も宿題頑張ってるねー。偉い偉い」
円は美甘の頭を優しく撫でた。
「お姉ちゃん、僕には?」
「ハイハイ、頑張ってるね、我が弟よ」
円は環の頭をガシガシと撫でた。
「痛た!痛いよ、お姉ちゃん!」
環が恨みがましい目で見上げる。
「さてと、今日は私も宿題まだなんだよね。一緒にやっていいかな?」
「勿論です!」
美甘の同意を取り付けて、円は自室にカバンを置き、私服に着替えて再びリビングに向かった。
三人でしばらく宿題に取り組んでいると、
「そういえば、円お姉ちゃんの高校でもプール開きしましたか?」
「んー?うん、今日からね」
「小学校でも今日からだったんですけど、ちょっと事故があったんです」
「事故?」
穏やかじゃないワードに円は反応した。
「友達の一人が溺れたんです。すぐに先生に助けられたんですけど、その溺れた子は誰かに足を引っ張られたって言ってるんです」
円はすっかり手が止まり、美甘に向き直った。
「足を引っ張られたって、誰に?」
「その子が言うには爬虫類みたいなモノに足を引っ張られたって」
何だろう、また
翌日、円が教室で授業を受けていると、校内放送で一年生の担任教師が召集された。何か事件の匂いがした円は窓の外を覗き、プールに教師たちが集まり何やら騒然としていた。
(まさかとは思うけど、事故が起きた?)
円はプールから目を離せなかった。
休み時間になると、円は階段を駆け下りた。一年生の教室が並ぶ一階に辿り着くと、背後から声をかけられた。
「円ちゃん!」
振り向くと仁美と、同じクラスの
「仁美!プールで騒ぎになってたけど、何があったの?」
「妖魔ですよ、円先輩」
四月一日は何だか顔をしかめている。
「クラスの友達がね、プールの中で誰かに足を引っ張られて溺れかけたんだよ!」
「円先輩も昨日、そのことに気づいたんでしょう?」
四月一日は何だか怒ったような顔で、円を問いただしてくる。
「あ、うん。だから昨日とわさんに依頼したんだけど」
「何で昨日の段階で俺に言ってくれなかったんですか!そうすれば、今日の事故は起こらなかったのに!」
四月一日はとわと同じ夢想士だ。ランクはBでとわには劣るが、確かに彼に話していたら、今日の事故は起こらなかったかもしれない。
「で、でも相手は一般人にも視える上級妖魔だよ?四月一日くんに退治出来るの?」
「そんなの・・・やってみないと分からないじゃないですか!」
「落ち着いて!放課後にとわさんが来てくれるから!」
「ポンチョが来るのを待つ必要はないですよ!放課後までに俺が退治します!」
四月一日は背を向けると、その場を立ち去った。
「ど、どうしよう、円ちゃん!」
仁美が円に抱きついて震えている。
「・・・とにかく、四月一日くんが無茶をしないことを祈るしかないよ」
円は仁美の頭を撫でながら、自分にもそう言い聞かせた。
こんな時は時間が過ぎるのが遅く感じる。円は授業を受けながら上の空でプールの方向ばかり見ていた。
ようやく放課後になって、摩利と仁美と合流してプールに向けて歩きだしたが、プールには教師たちが立って見張りをしているようだ。水難事故が起きたのだから、こうなることは容易に予想出来たはずなのに、円も考えが甘かった。
「プールには近づけそうにないね。じゃあ私は部活に行ってくるよ」
摩利は仕方ないと肩を竦めて行ってしまった。入れ替わりにオカ研の二人がやって来た。
「まさか、事故が起きるとは思ってなかった」
「河童って意外と狂暴なんだねー。今日はせっかくキュウリを持って来たのに」
勅使河原は憤懣やる方ない様子だが、栗花落は相変わらずマイペースだった。
「残念ですけど、今日は調査は出来ませんよ。被害に遭った生徒も少し水を飲んだだけで済みましたけど、事故が起こったんですから」
円は少し突き放した物言いになってしまった。本当に危険な存在がいるのに、面白半分で来られると迷惑だ。
「いや、分かってる。取材はもう終わってるし、証拠写真もあるしな」
勅使河原がポケットから数枚の写真を取り出した。円は受けとると、まじまじと眺めた。どれも手プレが酷くて何が写ってるのか分からない。
「こんなピンぼけ写真で記事を書くつもりですか?」
「いや、これなんか割りとハッキリ河童が写ってるだろ?」
勅使河原はそう言うが、水飛沫の中に緑色のモノが写ってるだけにした見えない。
「七不思議も結構ですけど、あまり踏み込むと火傷しますよ」
円は写真を返してため息をついた。
「まあまあ、良い記事かくしー。出来上がったら平良ちゃんにも見せてあげんねー」
栗花落は横ピースを決めて得意気に宣言した。
「そうだ、仁美。四月一日くんは?何か退治するって息巻いてなかった?」
「あー、そういえばあれ以来見てないね」
「まさか・・・でも、ひょっとして」
円は嫌な予感がしてプールに出来るだけ近づいた。すると、薄い膜のようなものが張られていることに気づいた。
「おい、お前たち。近づくんじゃない。用がないならさっさと帰りなさい」
見張りをしていた教師に注意され、仕方なくその場を離れた。
「結界が張ってある。多分四月一日くんだわ!先生たちの見張りを掻い潜ってプールのほうに入ったみたい」
それを聞いて仁美は目を見開いた。
「本当!?ど、どうしよう、円ちゃん!」
「仁美は部活に行きなさい。なるべく事実とは違う記事にして、河童の存在値を低くして!」
「はうう、出来るかなあ?」
「出来るかな?じゃなくて、やるの!ほら、早く行って!」
「う、うん」
仁美は迷いながらも校舎に戻って行った。
(さて、どうやってプール内部に入り込むかだけど)
円はプール横の運動部の部室棟に向かった。ここからなら教師たちからは死角になるが、円の運動能力では高い柵に手も届かない。手に握っていた紫水晶を見つめて考えを巡らせていると、
「やあ、円ちゃん」
「わあっ!」
大声が出てしまい、円は慌てて両手で口を塞いだ。振り向くとそこには小鳥遊永遠の姿があった。とわは紫水晶を探知して影移動が出来る。
「と、とわさん!四月一日くんが、ひょっとしたら河童に襲われたかもしれません!」
「んー?少年か。正義感が強いのは好感が持てるけど、自分の実力を過信するのが短所だねー」
とわは手を差し出した。
「教師たちが監視してるから、空間転移するよ。さ、円ちゃん。手を握って」
「は、はい!」
円がとわの手を握ると、一瞬、無重力の感覚を味わい、気付いたらプールサイドにいた。
「ふむ。すでに結界が張ってあるな。少年の仕事か。ここでどんな騒ぎが起きても外には気付かれる心配はない」
とわはチラリと第五コースの水面に立つ女子生徒の霊に視線を送る。
「その昔、妖魔の犠牲になった子かな?成仏させてやるには、妖魔を退治しないとね」
とわは赤い石をプールの中に投げ込んだ。人差し指と中指を唇に当て、呪文を唱え始めた。そして最後に、
「急急如律令(きゅうきゅうじょりつりょう)!」
呪術が発動する一文を唱えた。
すると、プールの水がボコボコと煮え始めた。やがて、水面に波紋が生じ、爬虫類のような化け物が水飛沫を上げて、水面から顔を出した。
「貴様!水をお湯に変えたな!?」
もう完全に河童の姿を手に入れた妖魔が、ギョロリととわと円を見据える。
「出たな、妖魔!退治させてもらうよ!」
とわは刀を抜いた。
「食らえっ!」
河童は口から勢い良く水を放出した。とわはそれを刀で払うと、水面を歩いて妖魔に近づいてゆく。
「バカめ、掛かったな!」
プールの水が生き物のように動いて、とわの身体を拘束する。
「とわさん!」
円は咄嗟に足を踏み出した。その足首に生き物のような水が絡み付く。
「わあっ!」
そのまま、プールの中に引きずり込まれ、水中に没した。息が苦しくなり、やがて意識を失った。
気がつくと、そこは深い川の底のような場所だった。だが、不思議なことに呼吸が出来る。そして、近くに四月一日が倒れているのに気がついた。
「四月一日くん!大丈夫?しっかりして!」
ペチペチと頬っぺたを叩くと、四月一日は目を覚ました。
「ううーん、円先輩?何故ここに?」
「君が無茶をしてないか心配だったのよ!大丈夫?どこも怪我してない?」
「だ、大丈夫です。それより、その・・・」
四月一日の顔が赤い。ふと気付くと上のシャツが水に濡れてブラが透けていた。しかも四月一日を抱き締めている形になっていた。
「おおーっと!き、気にしないでね、四月一日くん。これは、ちょっとした事故みたいなものだから!」
「は、はい!」
ゴホゴホと噎せる四月一日の背中をさすっていると、
「おお、やっと目を覚ましたか、円ちゃん、少年」
そこに、刀を手にしたとわがやって来た。
「とわさん!ここはどこなんですか?」
「あの河童もどきの結界だろうね。上級妖魔になると自分の結界を持っている。そこに引きずり込まれたようだ」
「おい、ポンチョ!あいつは俺の得物だぞ!横取りするな!」
四月一日は憤慨して怒鳴るが、とわの鋭い視線にい竦められる。
「河童もどきの結界にまんまと引きずり込まれておいて、まだ勝てるつもりなのかい?」
とわは口角を上げて四月一日を見下ろした。
「引きずり込まれたのは、お前も一緒だろ!?」
「あたしは君を助けるために、あえて結界に入ったんだ。ついでに第五コースに囚われてる子を助ける目的もある」
とわは刀を肩に乗せ、さっさと立ち上がるようにと手で示した。
「ちっ、ちょっと油断しただけだ。次は俺の雷撃でぶっ倒してやる」
「倒せたら良いが、あの河童は上級妖魔だ。倒すならああいう小物を片付けてくれ」
とわが指差す先には、鋭い牙を持った魚が浮遊しながら集まってくる。
「円先輩!俺の後ろに隠れてください!」
四月一日はそう言うと、錫杖を手にして密集してくる魚群に攻撃を開始した。
「雷撃!」
錫杖の先から稲妻が迸り、次々と焼き魚を生産してゆく。
「んー、良い匂いだ。熱燗で一杯やりたくなるな」
とわはのんびりと歩きながら、近寄ってくる魚を斬り捨ててゆく。
そうして歩いてゆくと、岩で作られた玉座に座り、スクール水着の少女にお酌をさせているずんぐりした河童を発見した。
「ああ?なんだお前らか。女どもは俺に酌をしろ!そこの男はさっさと魚に食われろ!」
ふんぞり返った河童は偉そうに言い放った。四月一日が錫杖を手に前に出た。
「ふざけるな、この河童野郎!俺が退治してやる!」
「ふんっ、小僧っ子が!」
河童は立ち上がりこちらに近づいてくる。四月一日は錫杖を振るって稲妻を撃ち込む。
「ふんっ!」
河童は頭の皿から大量の水を吹き出し、稲妻を散らしてしまう。
「ちっ、この野郎!」
四月一日は水流に包まれて前に進めない。そこに河童が突進して両手で張り手を繰り出す。まともに食らった四月一日は大きく後ろに飛ばされた。
「四月一日くん!」
円は四月一日の元に駆けつけるが、すでに気を失っていた。
「わっはっは!ここは俺様の世界だ!女は奴隷、男は殺す!」
「それはどうかな?」
とわは右手の指先にに赤い石を挟み、前方に掲げていた。
「ふん、女っ!俺様に勝てるつもりか!」
「当然だ。急急如律令!」
赤い石から巨大な炎の渦が生み出された。河童は頭の皿から大量の水を吹き出すが、あっという間に蒸発し、その身体が炎に包まれた。
「ギャー、熱い熱い!や、止めてくれー!」
「残念ながらお前は一人殺している。判決は死刑だ!」
とわは一瞬で距離を詰めると、河童の首を跳ねた。転がった首に刀を突き刺しトドメを刺す。
円は立ち上がり、河童に酒の酌をしていた、スクール水着の少女に近寄った。そして、その顔に手を触れた。
「もう良いんだよ。あなたは自由になったの。もう成仏して良いんだよ」
「・・・もう、良いの?」
「うん、もう良いの」
円は少女を抱き締めた。なるべく温もりが伝わるように。やがて手応えが無くなってゆき、円の両手の中は空になっていた。
「良くやった、円ちゃん。君は夢想士の素質があるな。修行してみないかい?」
刀を鞘に納めたとわが尋ねてくるが、円は静かに首を振った。
「いえ、私は自分の周りにいる人たちと平和な日常を送りたいと思ってます」
「そうか。まあそれが一番だが、これからも勧誘は続けるよ」
とわは親指を立ててウインクを決める。
「さあ、少年を連れて戻るとするか。もうすぐこの結界は崩壊する」
とわは円と、気を失っている四月一日の手を握り、空間を転移した。
あれ以来、プールの第五コースの幽霊は視えなくなった。ちゃんと成仏したようで何よりだ。一泳ぎしてプールサイドで休憩していると、
「ちょっと、聞いてんの円?」
頬を膨らませた摩利が詰め寄ってくる。
「えっと、なんだっけ?」
「だから、アイスよアイス!結局奢ってもらってないじゃん!」
「ああ、忘れても良いのにまだ覚えてたんだ」
「当たり前でしょ!?正当な競争で私が勝ったんだから!」
「もう、分かったわよ。今日の放課後に奢るわよ」
「よっし、武士に二言はないね!?」
「いや、私、武士じゃないし」
そんな風に駄弁りながら、今日も学校生活を満喫する円だった。
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