第1章 香港の雪豹

第1話

 新九龍にある新蒲崗サンポーコン地区には、香港返還前からの低層ビルと二十一世紀になってから建てられた現代的な高層ビルが入り交じり、雑然とした街並みを作り上げている。


 車が忙しなく行き交う通りに立つ、古びた六階建てのビル。三階にはこの辺りを仕切ってきた三合会系組織・新義安のとある派閥が事務所を構えていたが、その主がいなくなったのが昨年のこと。代わりに入ったのは14Kの新顔で、時代に取り残されたこのビルは、図らずも香港裏社会の勢力図の変化を象徴する場所となっていた。


 三階奥の応接室。革がくたびれたソファの背後に立ったまま商談を見守る祝黒蜂ジュ・ヘイフォンは、伊達眼鏡越しに向かいに座るこのオフィスの主を観察していた。細くて黒縁のフレームに、楕円形のレンズをはめ込んだ眼鏡。それを時折指で押し上げる痩せ身の男は、チャコールグレーのビジネススーツに藍色のネクタイを締めて、さながら中環セントラルで見かけるビジネスマンのような装いだ。


 黒蜂が着ている黒のそれと同じオーダーメイドのスーツだろうに、着こなしからしてまるで違う。そんな面白くない現実を突きつけてくる、見るからに上流階層のエリートといった人物。床や壁に染みが残った手狭な事務所より、中環に林立している超高層ビルの綺麗なオフィスの方がお似合いな人種だ。


「わざわざお越しいただき、申し訳ない。最近は本土から来た刑事がこの辺りを嗅ぎ回っているので、こちらから出向きたかったのですが……」


「三合会の方との取引では、こちらから出向くのが慣例ですから。どうかお気になさらず」


 相槌を打ったのは、黒蜂から見て左に座る、茶髪の女。クリーム色のスーツを着込んだ女は、名前を梁橙華リャン・チェンホァといって、こうした商談には必ず同伴する交渉事の責任者だ。


 相対する男は、名を呉兆嵐ゴー・ジウラムといって、年齢は黒蜂よりふた回りも高いが、見た目は高くても三十代といったところの二枚目だ。元々はニューヨーク生まれの華僑で、年の離れた兄と二人でウォール街で活躍していたとか、ロンドンの投資銀行に勤めていたとか、そんなかっこいい話ばかりを噂に聞く、つまるところがやり手のビジネスマンだ。


 この二人だけを切り抜けば、何とも穏やかで退屈な商談の場なのだが、呉の背後に控える大男がそうはさせない。無地の灰色シャツを分厚い胸板を浮き上がらせ、羽織るジャケットの下に忍ばせた左右のホルスターからは、トカレフが銃把を覗かせる。仏頂面をまっすぐにこちらへ向けてくる巨漢に、黒蜂は首を傾げつつ舌を出して挑発する。


「黒蜂、行儀良くして」


 橙華に窘められ、黒蜂は大人しくそれに従った。不快感を露に睨む巨漢を見咎めて、黒蜂の挑発を看破したのだ。


「すみません」


「いえ、お気になさらず。勇敢な護衛がいて羨ましい限りです」


 呉は涼しい笑顔で橙華の詫びを受け入れ、ついで黒蜂を称賛する。といっても、勇敢さなら呉の背後に立つ巨漢も負けてはいないことを、黒蜂はよく知っている。


 巨漢は三合会に二十年近く籍を置いている荒事専門の構成員だ。本名は知らないが、巷ではアーノルドと呼ばれる武闘派で、武勇伝の数々は黒蜂も少しくらいは聞いたことがある。


 そんな大男に睨まれながら、黒蜂は退屈そうにあくびをして見せると、それに気を遣ってか、呉はようやく本題を切り出してくれた。


ワンさんや梁さんもご存知の通り、今になって日本のヤクザがこの街に進出してきてましてね。先日もマーさんの秘書が襲われて、大怪我を負いました。それだけならまだしも、どうも連中は日本製の武器を持ち込んでいるようで、今の手持ちでは心許ないんですよ」


 これまた何とも黒社会の人間らしからぬ穏やかな笑みと落ち着いた調子で、男は用向きを話す。


「とはいえ、この辺りの古株の馬さんやスンさんは、余所者との争いで頼りにするには心許ない。ローさんは兄貴分とはいえ、借りを作ると後々面倒なので、個人的には避けたいのが正直なところです。王さんなら分かってくださるかと」


「そうでしょうね」


 橙華は相槌を打ち、落ち着いた語調で追随する。


「羅さんとは、王血幇うちも色々ありましたからね。あの人は1ドル借りたら1万ドル貸したかのような物言いで言い寄ってくる。はっきり言って相当下品な男ですよ」


「そうなんですよ! あの人に人手を出してもらって死人なんて出たら、後々何をさせられるか分かったもんじゃない。この稼業を始める時に頼る当てをもう少し考えるべきだったと、今でも後悔してます」


 話題の人物がよほど嫌いなのだろう。呉の物言いが若干テンションを上げた。蚊帳の外の黒蜂も言い分は理解できるだけに、兄弟関係への無神経さを咎めるよりも、こんな人間的な態度が出せる人物だったことへの意外性の方が優っていた。


「それで、ここからがご相談なんですが」


 呉は右に座るゲストに向き直ると、姿勢を正してから切り出した。


「銃を売っていただきたいんです。できれば人数分以上、それも拳銃だけではなく、機関銃のような連射ができるものや遠距離にも対応したライフルのようなものも含めて、全て日本の工場で作られた正規ルートのもので揃えていただきたい」


 めんどくさい相談事だと、黒蜂はそう素直に思った。


「人数分以上ということですが、具体的にどのくらい?」


 橙華が訊いた。


「できれば三倍は揃えたい。弾も相応に。向こう数年の分も見込んでのことです」


「ということは、概算で150挺ですか……」


「そうです。私としてはこれを機に、羅さんから自立していきたいと考えています。そのためには自分の身は自分で守れるということを、三合会のお歴々にも示しておかなければなりません」


 意外と気骨のあることを言う。ビジネスマン上がりとは思えない発言だ。


「もちろん、王血幇ワンシュエバンの皆さんにはご迷惑はおかけしません。必要な保証ならなんでもします」


「指詰めて血判押せって言ってもやるの?」


 黒蜂はそこでようやく口を開いた。挑発を込めた物言いに、向かいの大男が殺気立つが、構わず続ける。


「正規ルートの銃が欲しいって簡単に言うけど、あれ海外よそに持ち出すの結構大変なんだよ。日本は抜き打ちで公安の検査が入るからその対策もしとかなきゃいけないし、それにあんたらに渡した商品が日本製だってバレないようパーツ換えないといけないしさ。それだけの手間暇に見合う保証って、何してくれるの?」


 日本の銃規制が緩和されたのは昭和後期の1980年。以来アメリカ顔負けの銃社会となってこの方、法人が大量の銃を所有するのは珍しいことでもないのだが、規制がいつまでも緩い割に管理だけはきっちり厳格なのが日本の嫌なところだ。銃本体に割り当てられる製造番号で、どこのメーカーのもので誰がいつどこで買ったかまで追えるようになっているから、それが特定されないように小細工をしなければならない。


 それに公安委員会の抜き打ち検査で申告している銃と弾の数が少しでも合わなければ即指導。警備業や民間軍事事業などすぐさま業務停止命令を食らうことになる。150挺も揃えるとなると、そのどちらかの業種でそれだけの事業規模でなければ、審査は通らない。


 そうした諸々の配慮をしつつ銃と弾薬を揃えるなら、それを自分達に向けないという確約を得られなければ、いくら積まれても割に合わない。


「もし私が王血幇の皆さんに不義理を犯したら、その時はここを訪ねてください」


 そう言ってジャケットの外ポケットから取り出したのは、折りたたまれたメモ。橙華がそれを受け取って開くと、黒蜂も後ろから覗き込んだ。


「弟と妹の住所です。二人とも結婚し、子供は合わせて三人います」


「あんた自分が何してるか分かってんの?」


 裏社会の人間に身内の個人情報を明かす。つまりは売り渡したのと同義。煮るなり焼くなり好きにしろという意思表示。普通の神経をしている人間のやることではない。


「私は今回の商談に、それだけ賭けているということです」


 無意識のうちか身を乗り出して、呉は力強く言ってのけた。


「弟と妹にはこの事を話していません。そもそも二人は私のことを、まだカタギだと思っていますからね。ですから、逃げることはあり得ません。監視をつけてもらっても構いません。ですからどうか、お願いします」


 外道に片足を突っ込んでいるが、しかし覚悟の証と担保として見れば必要十分な提案。


「――香港ドルで800万、といったところかな」


 黒蜂と橙華が反応に困っていると、そこでようやくメインのゲストが口を開いた。


 右に座る女は、商談に訪ねた身としては相応しくない身形をしている。黒地のミリタリージャケットの下は藍色のシャツで、ボトムスは無地のカーゴパンツ。履いているのは軍人が履くような作戦靴だ。


 セミロングの黒い髪は艶やかで、それをシンプルにひとつ結んだ女の名は、王藍玫ワン・ランメイ西環サイワン全域を支配下に置き、香港で唯一三合会と対等に口を利くことのできる黒社会の新興勢力・王血幇を率いる首領であり、黒蜂と橙華の義理の親だ。


「それだけ払うなら保証としては十分だ。こんなものは要らない。買い物をするなら下品な真似はしないことだ」


 そう言って橙華からメモを取り上げると、それを握り潰してテーブルに放り投げた。


「それで、払えるのかな?」


「お支払いできますが、それほどの額を吹っかけるからには、武器の使用についてはこちらの自由裁量に任せていただけるんですよね?」


 価格交渉を目的とした剣呑な確認。それに藍玫は穏やかな調子で応じた。


「好きにしてくれて構わないさ。私を撃ちたければ撃ってくれて結構。ただその時は、黒蜂も同時に仕留めるよう算段をつけておいた方が賢明だ。でなければ私を殺すことができたとしても、君の人生はそこから二日と続かないからな」


 呉が視線を向けてくると、黒蜂は得意顔を見せてやった。呉は納得したように笑みを浮かべ、そして小さくため息を吐いた。


暴君龍タイラント・ルンを仕留めた香港の雪豹を相手に値下げ交渉なんて、さすがに弁えなさ過ぎですね。今のは聞かなかったことにしてください、申し訳ない」


「分かってくれたようで何よりだ」


 そう言ってから藍玫は黒蜂の方へ振り返った。茶色い瞳をした切れ長の鋭い目に、それがよく合う中性的な整った顔立ち。黒蜂も油断すると見惚れてしまうし、先日の運転免許取得の祝いの席で泥酔した時には、勢いで押し倒そうと試みたくらいには美しい人だと思っている。


「明日にでも日本へ行って、商品を揃えてこい。数は拳銃100挺に、短機関銃とセミオートのライフルを50挺で良いだろう。威力もある程度は欲しいだろうから、弾は45口径で統一して、3000発。急ぎ目だろうから本体は中古で揃えるが、それで構わないかな?」


「動きさえすれば問題ありません。拡張性も考慮いただかなくて結構。どうせそこまで使いこなせませんからね。機関銃とライフルは一人当たり一挺で、拳銃は護身用とバックアップで二挺。バランスも良さそうだ」


「理解が早くて助かる。羅の大馬鹿者とは大違いだな」


「さすがにあんなのと同類扱いは勘弁してくださいよ。王さんを怒らせて出禁にされるような人と一緒にされては困ります」


 その気持ちは分かりつつも、出張で帰る祖国のことを思い出して、黒蜂は重たい気分になった。

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