第3話 悪い事なんかしていないのに

「アル!! お願い目を覚まして、アルフレートっ!!」


 栗色の髪の女性が、横たわるアルフレートの手を握り、輝く宝石の様な涙を零して懇願している。


 彼女の名はアマリア・エッセンベルン。可愛くはあるが平凡な顔をした、ありふれた設定のヒロインである。


 傷付いた男性を案じる一見美しい絵姿に思えるこの光景だが、実際は登園初日から脚を滑らせて谷底に落ちた男を、悪役のヒルデが御者と共に必死の思いで助け出し、寿命を削ってまでも聖なる力で癒してやった挙句、ヒロインの元へと丁重に返品された状態である。


 ヒルデは二人の様子をこっそりと物陰から見守っており、アルフレートが復活するのを今か今かと待ちわびていた。


——私のせいで馬車を止めたのは確かなわけだし、これで目を覚まさなかったら谷に突き落とした殺人犯扱いされかねないわっ! 悪役令嬢の私にとって攻略対象達とむやみに関わる事は危険だわ。

 イコール断罪、即ち死よっ!


「う……うーん。あれ? アマリア。ここはどこ? 俺は誰?」

「まあ!! アルっ!! 気が付いたのね!? 無事でよかったわっ!」


——『俺は誰?』と言っているのに無事かどうかは分からないわよ?


 ヒルデは心の中で突っ込みを入れながらも、アルフレートが復活した事にホッと胸を撫でおろした。

 とりあえず目を覚ましたわけだから、もともと少しおかしい彼の頭がもう少し位異常を来したところでヒルデのせいにはされないだろう。


 アルフレートはアマリアとヒルデの共通の幼馴染であるという設定のキャラクターである。ゲームのストーリー上でヒルデが魔女と化した後、彼は涙ながらにヒルデの説得を試みたものの、既に人の心を失ったヒルデに通じる事は無かった……という、悲劇のストーリーを語る上では重要なキャラクターだと言えるだろう。

 お人好しではあるが、天然キャラ色が強すぎて、実際会ってみるとかなりの残念キャラであった為、初対面でのヒルデは顎が外れそうな程にショックを受けたものだった。


「まさか君が助けてくれたのかい!? なんてことだ、アマリア。君は俺の天使なのかい!?」


 アルフレートが感激し、アマリアをここぞとばかりに抱きしめている様子に、ヒルデは苦笑いを浮かべて視線を外した。


——全く、ご都合主義な思考にはあっぱれだわ。精々ヒロインと仲良くやっていなさいな。


「なあ、お前さん。あれで良かったのか?」


 ヒルデと共に物陰に隠れながら、御者の男が言葉を放った。嫌にガラの悪い様子と、部外者は立ち入り禁止である学園に、こうして御者が足を踏み入れている事実は妙である。

 不思議に思って御者の男を見つめると、男はフードをはらりと後ろへと押しやってその顔を露わにした。


 長く緩やかな黄金の髪にエメラルドグリーンの瞳。一見女性かと見間違う程に整ったその顔は、昨夜聖なる力を授けた神らしき男だった。


「どうして貴方がここに居るの!?」

「おっと、声がでかいって」


 素っ頓狂な声を上げたヒルデの口を慌てて塞ぎ、彼は困った様に片眉を下げた。

 ふわりと微かに煙草の匂いが漂う。ここは乙女ゲームの世界だ。喫煙するキャラクターは敬遠されるため存在しない。ヒルデもまた煙草の匂いを不快に思い、込み上げる吐き気にピタリと動きを止めた。


「……煙草臭いわ。放してよっ」

「おっと、すまねぇな。煙草の匂いが嫌いか?」

「好きな人なんて居ないでしょ」


 ぷいと顔を背けたヒルデを解放し、男は少し寂しげに見つめた。


「で? お前さん、このままアマリアに手柄を持っていかれていいのか?」

「手柄って何の事かしら?」


不思議そうに眉を寄せたヒルデに、男は困った様にため息を吐いた。


「アルフレートを助けた手柄の事だよ。寿命まで縮めて助けてやったってのに、アマリアに全部いいところを横取りされた様なもんじゃねぇか」

「あんなの手柄でも何でも無いわ。私は出来る限り攻略対象ともヒロインとも関わり合いになりたくないのよ」

「……ふーん」


 再びヒルデはアルフレートとアマリアの方へと視線を向けた。すると、二人がいちゃついている所に黒髪の男が現れて、アマリアが慌ててアルフレートから離れた。


「一体何があった? 登園途中で事故に遭った生徒が居ると聞いてきたのだが」


 黒髪の男がつまらなそうに言葉を吐いた。彼の名はベルーノ・グラルヴァイン。彼の父は王に仕える近衛騎士団の団長であり、ベルーノ自身も剣の道に明るく、既に近衛騎士団に所属しており、学園内では王子を守る騎士として任命されている。王子が国王に就任した暁には、彼もまた近衛騎士団の団長となることだろう。


 当然ながら、彼もこの乙女ゲーム世界の攻略対象の一人である。


 ヒロインであるアマリアとはこの学園に入学して今が初対面となるわけだが、ベルーノはそのお堅い性格から第一印象がすこぶる悪い。


「聞いてくださいっ!」


アマリアが涙声でベルーノに訴えかけた。


「エルメンヒルデ・ハインフェルトさんのせいなんです! ここに居る彼が事故に遭ったというのに、知らん顔してこんなところに放置して、自分はさっさとどこかに行ってしまったんですものっ!」

「何だと!? あの悪女め!」

「アルが可哀想! エルメンヒルデさんの具合が悪いから馬車を止めたのに、谷に転落したアルを放っておくだなんて!」

「それでは人殺しではないか!!」

「ヒルデを悪く言わないでよ、俺がイケメン過ぎるのが罪なんだから」

「アルったら、優しいのねっ!」

「お前は一度医務室に行った方が良さそうだが」


——色々会話が噛み合ってない気がするけれど、最期のベルーノの台詞には同意するわ……。


 ヒルデは苦笑いを浮かべ、深いため息を吐いた。

 悪者にならないようにと努力したところで、この世界でのヒルデの役回りは悪役なのだから、立ち位置が変わらないのは仕方の無い事なのだろう。兎に角今は聖なる力をアマリアから横取り出来ただけでも良かったと思うべきだと、ヒルデはそう考えて自分を慰めた。

 本来であればこのハイリガークリスタル学園に入学し、切磋琢磨した上で、優秀な成績を収めた後で聖なる力をアマリアが授かるのだ。それをヒルデは入学前に横取りしたというわけであり、ゲームが始まる前に最強武器をヒロインから奪ったようなものなのである。

 とはいえ、寿命が縮むというおまけつきであるわけだが。


「悪女めが、登園初日からやらかしてくれるな。やはり注視しなければならぬ。何故そのような者が殿下の婚約者なのだろうか」


 ベルーノの言葉にヒルデはズキリと心が痛み、身体が震えた。自分の意図しない所で敵視されるのは、気丈に振舞おうとも心に傷がつく。ヒルデは大雑把な様で、繊細な心の持ち主なのだ。


「ふーむ……キャラクター補正ってのは強力だなぁ。なんでか知らんが、お前さん、悪者扱いじゃねぇか」


 ヒルデの直ぐ隣で、男が低い声で同情するかのように言った。ヒルデは俯き、「仕方ないわ。悪役なんだもの」と呟くように答えたものの、自分が独りぼっちでいなかった事に救われる思いだった。もしもたった一人で自分の陰口を聞いていたのなら、誰一人真実を知る者も居ない孤独に耐えきれなかったかもしれない。


「……貴方が居てくれて助かったわ。有難う」


素直に口にしたヒルデの言葉を聞き、男はきょとんとした顔を向けた。


「ん? 何が有難うなんだ? 俺様、何もしてねぇんだが」

「私の側に居てくれたじゃない。ひとりぼっちは辛いもの。だから、有難う」


男はなにやら感激した様に口元を綻ばせ、輝く瞳でヒルデを見つめた。


「お前さん、お礼を言ってくれるんだな」

「どうして? 神様には誰もお礼を言わないの?」

「ああ、言わねぇな。願いは叶えて貰えて当たりまえ。叶えて貰えなけりゃ邪神扱いで滅されるのがオチさ」


ゲームの世界に登場する『神』という存在は、人間にとって『善』か『悪』かの基準で判断される。

 ヒルデは男の存在を不憫に思った。彼もまた、ゲームのストーリーに振り回されるキャラクターの一人なのだから。


「神様も大変なのね」

「ああ、めちゃんこ大変だ。転職したいくらいだぜ」


ヒルデはぷっと噴き出すと、男を見上げた。


「貴方、良い人ね。私はとっても感謝してるわ。貴方が居てくれて本当に良かったもの。そうだ、名前を教えてくれないかしら? 何て呼んだらいいのか困るでしょう?」

「名前か……」

「神様にだって名前はあるんでしょう?」

「ああ、あるにはあるが」


男は整った唇を横に引き、嬉しそうに微笑みを浮かべた。


「俺様は銀……いや、えーと」


 コホン、と咳払いをすると「ジルヴァ・メイデンハイアーだ」と言い直し、すっと長身を屈めた。屈託のない笑みを浮かべ「ジルと呼んでくれたらいい」と言って、ヒルデを覗き込む様にエメラルドグリーンの瞳でじっと見つめた。


 整った顔が嫌に近く、ヒルデは恥ずかしくなり思わず顔を背けた。


「ん? 大丈夫か? 顔が赤いぜ?」

「べ、別に何でも無いわ! 名前、教えてくれて有難う、ジル」


 ジルは照れた様に口元を綻ばせ、項を掻いた。


「おう。なんだかそう呼ばれると嬉しくはあるが、こそばゆいな」

「貴方がそう呼べって言ったんじゃない。そ、それより、ジルはどうしてここに居るの? 神様なんだから、忙しいんじゃないかしら。色んな人の願いを叶えなきゃいけないのだろうし!」


ヒルデも少し照れて、わざとらしく話題を変えた。思えば男性を愛称で呼んだのは初めての事だった。


「別に忙しくなんかねぇさ。ただ、お前さんに聖なる力を授けたはいいが、その後どうなったか気になってな。面白そうだから様子を見に来ただけだ」


 ジルは何を思ったのか、更に顔をヒルデに近づけて、ヒルデの額にかかった銀髪を指でそっと掻き分けた。


「うーん、お前さん、どっかで会ったことあるか?」

「なによ、あるわけないでしょう!? 昨日が初めてよ! 気安く触らないでく……」


ヒルデが文句を言おうとすると、温かく大きな両手で彼は優しくヒルデの頭を包み込む様に撫でた。

 ジルの両手の温もりが伝わる。エメラルドグリーンの瞳で真っ直ぐと見つめるその視線に釘付けになりながらも、ヒルデは震える唇のせいでまともに言葉を発する事が出来なくなった。


「あわ……あわわわわわ!!」


男性に全く免疫のないヒルデはガクリと脚の力が抜け、茹でタコの様に顔を真っ赤にし、その場に座り込んでしまった。


「ん? どうしたんだ?」

「な……! あ……い……っ!?(何を、貴方一体っ!?)」

「お前さん、頭撫でたくらいで腰抜かしてんのか? おかしな女だなぁ」

「煩いわねっ! だって、私はっ……!!」


「そこに居るのは誰だっ!!」


 大きな声を上げたヒルデの存在に気づいてベルーノが叫び、剣を抜いた。ヒルデは慌てて両手で口を塞いだが、ジルは笑みを浮かべながら唇に押し当てた長い指で投げキッスをし、片目を閉じて見せた。嫌に色気があるものの、ヒルデの反応を面白がっている魂胆が見え見えである。


——馬鹿な事やってないで隠れなさいよっ!!


「エルメンヒルデ・ハインフェルト!! 貴様、そこで一体何をしているっ!!」


 ベルーノが座り込んでいるヒルデの前へと立ち、剣先を突き付けた。ヒルデは慌てて土下座をし、「な、何もしてないわっ!! ちょっと通りすがっただけの通行人Aよっ!!」と、必死に叫んだ。

 ジルはいつの間にか姿を消しており、ヒルデは悔しさで歯をぎりぎりと鳴らした。


——ジルの奴っ! 自分だけさっさと逃げるだなんて、狡いわっ!! 神様なら助けてくれたっていいじゃないっ!


「貴様の奇行は目に余る。殿下に報告が必要だな」


ベルーノはそう言うと、ヒルデの腕を乱暴に掴んだ。


「痛いわ! 何もしていないったらっ!」

「黙れ、ただで済むと思うなよ! 大人しく従え!」

「分かったから、強く引っ張らないで!」


 何を言ったところでベルーノはヒルデの言葉を聞き入れる気などないと諦めて、大人しく従う事にした。

 アルフレートとアマリアの二人は、ベルーノに連行されるヒルデの様子を黙って見送るだけで、その冷たい対応にヒルデの心は一層傷ついた。


——なによ。私、悪い事なんかしていないのに……。本当、悪役になんかなるもんじゃないわ。


 ベルーノに連行されながら、ヒルデは悲しくなって俯いた。

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