五 - 2 王禿と松鉄
けぶる灰が喉に流れ込んでくる。思わず咳き込み、我に返る。
荒野の向こう、灰が大きく舞い上がっていた。風が舞い上げるものとはまた違う。
白い煙の中、二つの黒い影がこちらへやってくるのが見える。
宿屋にいたあの二人組を思い出す。次いで、「近頃、歩いて荒野に出たきり戻らないものが増えている」ことについて船頭がささやきあっていたのも。
嫌な予感があった。
慌てて隣に声をかけ立ち上がった。そうするまでもなく要一の準備は済んでいた。
灰の向こうに大男と跳ねるようにして走る小男が見える。大きさから見て、やはり宿場にいた二人組だろう。先ごろよりも勢いを上げていように思えた。
急いで丘に登り、捻れた赤銅の木の枝を見る。一本だけ、太い腕が胸ぐらを掴むような格好をしているものがある。その指し示す先が次に向かうべき方角だった。背中の男達は見る間に迫ってくる。
「こっちだ。さっさとしろ」
振り返った瞬間、要一が木の根に足を引っ掛け、すっ転んだ。
何してやがる。叫びかけた声が喉の奥につかえる。
要一がいたはずの場所に、白瓜が倒れていた。
心臓が強く脈打った。思わず胸に当てた手は、そのまま首へと這いずり、ありもしない荒縄の跡を探り始める。
違う。逃げなければ。
強く首を振った。倒れた白瓜は消え、要一が転がっている。それを無理やり立たせ、頭の中、振り上げられる握りこぶしをくぐってかわす。そのまま駆け出そうとしたところで、丘の下、ひさしの陰から丸い塊が飛び出してきた。
しまった――。
目玉たちはとっくにまばたきで知らせていたのに、下らないことに気を取られて気付けなかった。咄嗟にかわそうとする俺の胸元へと、その塊が飛びついてくる。慌て振り払おうとする間もなく、爪の生えた毛深い腕が口元に押し付けられる。
「なあなあなあよ、ちょっくら聞きてえことがあるんだがよ」
鼻先で大きな口がまくし立てた。
胸元に両腕で抱えるほどの頭がしがみついている。胴は無く、まんじゅう型の頭部の下から手足が直接生えている。それらは若草色の毛で覆われ、獣じみた形状をしていた。
大きな瞳、縦に長い瞳孔。黒く低い鼻。開いた口は顔の大部分を占める。ざんばら髪も伸び散らかした髭も若草色で、頭頂部からはきのこ状の出来物が生えている。
「おいおいおい、
背中を見ると、後方から追いすがってきた大男が要一の腕を掴むところだった。
後ろの男には唇がなかった。荒く吸ったり吐いたりされる息で、剥き出しの歯に灰がこびりついている。鼻梁もなく、小さな穴が二つ空いているだけ。開かれたままの目玉には瞼の代わりに時折青い膜が下りる。
腰に布を一枚巻いているだけで、上には何もまとっていない。顔と言わず腕と言わず、体中隙間なく鱗状の分厚い皮膚が出っ張っており、松ぼっくりの親玉みたいな見た目をしている。それら漆黒の鱗は見るからに硬質で、鎧のように全身を守っていた。
松鉄は、ああ、う、などと唸りとも返事ともつかぬ声を上げ、禿頭の方を見つめ返す。
「とっととやれってんだ、とっととよ。こっちはこっちで話進めとくからよお」
俺の肩ごしに禿頭が喚く。
俺はどうすることもできなかった。なにせ、目の前で喚く巨大な口にはぞろりと牙が並んでいるのだ。顔面をそのままむしり取られてしまいそうな大顎を前にしては、禿頭を胸に抱えたまま、ただ成り行きに身を任せるほかなかった。
二人が何者なのかはわからない。だが、目的はおおよそ知れている。
鋭い牙や、大男の腰に下がる狒々の骨製と思しき大振りなだんびらもそうだが、言葉の抑揚や態度からも、暴力や血や死の臭いがする。
「ああん? おめえさんなんだその目は。いま俺たちのことを追い剥ぎかなんかだと思ったんじゃねえだろうなあ、おい。悪いがそいつは見当違いってもんだぜ。俺達ぁなんというか、あちこち旅をしながら、腕っぷし一つで生きてるだけだ。――なあ、松鉄」
頭の男がえへえへと笑う。
「しょうもない化け物を退治したり揉め事を治めたりして村の連中から銭やら飯やらを貰って暮らしてんのよ。傭兵、なんて言ったら大仰だがよ。――おい、松鉄よ、まだかあ」
大きな目玉で俺を睨みおろしながら頭男が言う。
「実は、骨喰で俺達みたいなのを馬鹿みたいな高値で雇ってくれるって噂を耳にしてな。ある偉い坊主と、全く肉体が変容してない人間を、ある場所まで護衛するって仕事らしいんだがな。いっちょ、そいつを請け負ってやろうって道中なのよ」
松鉄が大きく唸った。
「ところで聞きてえんだがよ、その格好なんだがな。おまえさんがた、旅の坊主ということで間違いないかね」
「……まあ、そんなところだ」
「まあ、そんなところ。まあ、そんなところかい」
頭男が大顎を軋ませて笑う。
「実はここのところ、坊主の格好をして銭をせびる輩ってのがいるようでな。〈変異〉を上手いこと隠しちまって、先の立派な立派なお坊様のふりをしてやがるのよ」
頭男の瞳が剣先のように鋭くなった。背後で灰を踏む音がする。
「俺達も二度ほど騙されちまってよお。以来、似たような奴らを見かける度に噛み潰しながら骨喰を目指してるってわけよ。――松鉄! とっととしやがれ! そんな餓鬼ひん剥くのにどれだけかかってんだ!」
腕に一際強く痺れが走った。明らかに俺達をその偽物だと疑っている。素性が分からないから黙っていたが、これならいっそ説明したほうがいい。
「待て! 俺達は――」
「いいや、もういい! もう面倒くせえ! 餓鬼の体なんか見なくったって分かる。お前の目玉は腐りきってる。お前みたいなのが立派な坊主であるはずがねえ」
頭男が食らいつくように言葉を被せる。
「本物! 本物なんだ! そいつは本物の〈変異〉のない体なんだ!」
可能な限りの声でまくし立てる。だが、頭男は聞こうともしない。
トラバサミの如き歯が、眼前で勢いよく開かれた。顔の筋肉が強張った。
だがそこで、背後から間延びした唸り声がした。大きな顎がゆっくりと閉ざされ、頭男が俺の左肩へと身を乗り出す。振り返ることはできなかった。少しでも動けば頭の半分がすぐにでも食いつぶされそうな予感があった。
「……ふんどしも脱げ。頭のそれもだ」
頭男の指示に、背後で動く気配がある。
「なんだこりゃあ」頭男が間の抜けた声を上げる。
どさくさに紛れてちらと目をやると、全裸でぼうと佇む要一が目に入った。
「こいつ髪がずるむけてやがる」
「ああ、そりゃあ心労が重なったせいだ」咄嗟に話を合わせる。なんでもないって顔を作るのが大変だった。「餓鬼には酷な旅だからな」
要一の頭には不自然に髪の毛が生えていない箇所が出来ていた。はげはおおよそ骨銭一枚くらいの大きさだろうか。ほっかむりをし始めたのはこれが理由だったらしい。
そんなこと全く知らなかった。俺の視線に気づくと、要一は俯き、首にまでかかる髪を何度も何度も撫でつけ、隠そうとする。
「――嗚呼、こりゃ、こりゃすごいぜ。話の通りだ。なあよ松鉄やっぱり俺の言った通りだろ。やっぱり俺の言った通りだぜやっぱりよお!」
松鉄が唸り声を漏らした。腕から痺れが消え去った。
「それじゃあ、あんたが本物の偉い坊主だったってわけかい」
頭男がころりと声音を改め、地べたに降りた。変わり身の早さに思わず苦笑する。
「まさか。俺はただの道案内だ。骨喰までのな」
「ははあそうかい。道理でね。坊主には見えねえし、護衛にしちゃ随分やせっぽちだと思ってたんだ」
舞い上がる灰に激しく咳き込みながら頭男が声を上げて笑った。
「いやいや、悪かったよ。いやほんとにさ、本当本当。それもこれもさっき話した通りでよ。少しばかし警戒しすぎちまったようだ」
「まあまあ、無事だったんだから、もう良しとしようじゃないか」
せめて確認してから牙を剥け、と怒鳴りつけてやりたいのをぐっと我慢する。
男は自らを
「それで、それでよう。無礼を重ねるのは承知の上だが、もしあんた方さえよけりゃあなんだが、骨喰までお供させてもらえないかね」
王禿が上目遣いに俺達を見る。
「そんでもってもし仕事っぷりが気に入ったら報酬には色を付けてくれるよう頼んでくれねえかなあ」
笑っているつもりなのか、歯を剥き出す王禿。上目遣いの禿げ頭を見下ろしながら、俺は頭をひねった。
こいつらをどう利用してやったもんか。
二人を上手く使えばより安全に骨喰まで辿り着くことができるのは間違いない。しかも、話の流れを考えりゃあ、金をせびられるようなこともない。二人共腕っぷしで飯を食ってるくらいだ。どちらも頼りにはなるだろう。
つい先ごろのことを考えると、腹の底から信用できる相手じゃあない。だが、それにしたって、同行を断っても特に良いことはない。こいつらの目的地が本当に骨喰なら、勝手に後ろから付いてくるだろうし、別の思惑があるんだとしたら、断った途端に襲いかかってくる可能性もなくはない。要一を連れた状態で振り切って逃げられるはずもない。それならいっそのこと……。
「ああ、そりゃありがたい。こちらこそよろしく頼む」
俺は頭を下げることにした。
どちらにしろ信用できないならいっそ、連れて行っちまった方が良い。そのほうが近くで観察できる。対応できるかどうかは置いておいて、おかしな動きにも気付けるはずだ。
「だけど、報酬に関しては約束できない。実は直接面識があるわけじゃないんだ。あっちで上人様に掛け合ってくれ」
そうかい、まあしょうがねえ、そいつで十分だ、と王禿が頷いた。
要一もぺこりと頭を下げた。
松鉄が要一に服を返し、王禿に歩み寄る。その胸元に王禿が飛びつき、ぽんと宙返りしてみせた。二人は肩を揺らして笑い合っている。
――そう。それから大事なのは、こいつらみたいなのが骨喰に集められてるってことだ。王禿の言う偉いお坊さまってのは六鶴とかいう坊主に間違いないだろう。この荒野さえ越えればもうあがりは近い。上手いこと恩を売れば、今度こそ報酬が貰えるかもしれない。
「よし、それじゃあ早速一つ提案があるんだが、その前に」王禿が頭を揺らしながら言った。「すまねえが、食い物と水を少しわけちゃあくれんかね」
「なんだと。宿場で食ってたじゃねえか」
いやいやあ、と王禿が目玉を転がす。
「あれはちとばかし尻を据えてただけでさあ。あんな高価な水も食料も手が出ませんて。さっきから喉が乾いちまって乾いちまって。なあ、松鉄よ」
松鉄が唸り声を上げる。腰に下げる幅広のだんびらが否応なく目に映る。
仕方なく、塩漬け肉を少しと俺の水筒を差し出した。
「いやあ、すまねえなあ」
と、王禿が水筒の水を浴びるように飲み、松鉄がぺろりと肉を食べてしまう。
殆ど空になった水筒が返されても、あのでかい牙を舌で舐められちゃ、こちらは何も言えなくなる。
さてさて、さっきの話だがね、とこちらの気など知らぬ様子で王禿が勝手に始める。
「あんた方は、このマラ公に似た枝が指す先に向かって真っ直ぐ荒野を抜けるつもりだろうけど、そいつはやめたほうがいい」
「なぜだ。それが一番近道じゃないか。途中には小さいが水場だってあったろう」
「その水場ってのはもう幾らか前に干上がっちまったぜ。それに、真っ直ぐ行った先には火葬どもの大きな巣があってな。今から向かうと丁度奴らが動き出す時間にカチ当たる。無理に通らないほうがいいだろう」
「前にはそんなもの無かったんだがな」
「そりゃあきっと随分前に通ったのか、もっと日が高い内に抜けたんだろうよ。遠回りにはなるがあっちの方からぐるりと回り込むのがいい」
松鉄が進路から大きく外れた方角を指さす。
「丁度、道中に廃村がある。灰に埋れちゃいるが石造りだから潰れちゃいねえ。そこで一夜を明かせば安全だ」
「……真っ直ぐ行くのはどうしても駄目かい」
「駄目だ駄目駄目。ああ、いや。どうしてもって言うなら止めやしねえがよ。回り込んだって半日ほどしか違わねえ。無理に危険を冒すこともないだろうよ」
少し苛立った様子で王禿が答える。
しばらく考えた末、その言葉に従うことにした。
こいつの言っていることが本当なのか確証はないが、意地を張って真っ直ぐ進んだ先が、水場もなく火葬だらけじゃあそれで終いだ。それならまだこいつらに賭けたほうがいい。
「よおし。そんじゃあ、連れてってやらあ」
鞠のように跳ねて先導する王禿を先頭に、俺達は歩き始めた。
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