雨と彫師のルサンチマン

シガレット

第1話 雨中の街で

 墨色の空がどこまでも広がっている。

 遠くで雷の音が聞こえた。いやにけたたましく響いたその雷鳴で、雄介は今日の深夜、豪雨になるとニュースで見たのを思い出した。

 六月中旬の午後九時。

 じっとりと肌にまとわりつくような湿気が満ちる中、雄介はタトゥーショップ『レベッカ・タトゥー・スタジオ』を出る。鍵を閉めて、ドアを一度引っ張って戸締りを確認し、夜の空を見上げた。

 雨がぽつぽつと降り始める。傘を持っていないし、本降りになる前に早く帰った方がいいだろう。

 雄介の働く店があるのは、静岡市の中心街だ。東に行くとJR静岡駅があり、北に行くと静岡鉄道の新静岡駅がある。そこから少し西側に行けば駿府城公園があり、南に行けば静岡市美術館やパルコ、ホテルなどが立ち並んでいる。

 人通りはそれほど多くなかった。サラリーマンが静岡駅方面に足早に向かい、相合傘をしたカップルが反対の呉服町の方に向かって歩いていく。

 雄介は自宅のある新静岡駅方面に向かおうとするが、その足は一歩で止まった。まるで足元から強固な根っこが生えて地面に根差してしまったかのように、その場から動くことができなかった。

 店の看板を、じっと眺める女がいた。百八十センチを優に超える体躯と、黒のショートウルフが目を引く。切れ長の瞳はどこか厭世的えんせいてきな雰囲気を漂わせている。瑞々みずみずしいリンゴのような艶めきを持った唇をきゅっと真一文字に引き結んでいた。

 鎖骨の下には山脈のように隆々としたものが、黒のロングカーディガンに隠れることなく、ちらと見えた。Tシャツの裾からは細く引き締まったお腹が大胆に露になっている。長ズボンに隠された足は長くしなやかに伸び、それらは雄介の視線を捉えて離させなかった。

 だが、雄介の視線は彼女の肢体したいではなく、頬に自然と向かった。砂漠に流れる川のように、水滴が一筋通った跡がある。ボストンバッグを持った右手は固く握り締められていた。

 女は雄介の存在に気付き、黒く透き通る瞳を向けた。鋭い眼差しで見下ろされ、雄介は背筋がぞくりと震える。

「この店の人?」

 女は野良猫のように警戒心の濃い双眸を向け、看板を指差した。『レベッカ・タトゥー・スタジオ』と英語で書かれた看板には、肌に様々なデザインの刺青しせいが刻まれた凛々しい女性の絵が描かれている。

「はい、そうですよ」

「この絵を描いたのって、あんた?」

「はい、そうですよ」

 雄介がボットのようにそう事務的に対応すると、女はクスリと笑った。

「上手いね」

「ありがとうございます」

「バカかっこいい」

「そうですか」

 そんな当たり障りのない会話をしていると、次第に雨脚が強くなってくる。髪はシャワーを浴びたように濡れ、服が水を吸って重くなる。雨に打たれる趣味はないので、早く話を切り上げて帰りたい。

「もし予約がしたければ、ホームページからお願いします。もしくは電話から」

「ねえ」

 女は雄介の言葉を遮る。細めた瞳はどこか悲しそうだった。

「タトゥー入れたらさ、人生変わる?」

 女は看板の女性のイラストを指差して、問うた。涙は雨水と混じり合い、その境は完全に失せた。

 雄介は黙考する。刺青を彫る理由は、人それぞれだ。愛を形として刻みたい人、アクセサリーを付けるようにファッションとして入れる人、そして、自分を変えたいと思って戒めとして彫る人など……。

「……それは、あなた次第だと思います」

 雄介はそう返答する他なかった。心根の部分は、刺青を入れたところで変わるわけではない。結局は、本人次第だ。

「もういいですか? というか、あなたも早く帰った方がいいですよ。今日、すごい雨が来るみたいだし」

「でも、あたし、帰る家ないんだよね。ホテルもどこも満室でさ。バカ高いところしか空いてないみたいなのよ」

 豪雨のニュースはみな知っているのか、帰宅が困難な人は、こぞってホテルを取ったのだろう。

「そうですか。そりゃ大変ですね」

「ねえ」

 雄介がそう言って立ち去ろうとすると、女は真剣な顔付きで呼びかける。

「一晩だけ、あんたっ、泊めてよ」

 強くなる雨音の中で、その要求は確かに雄介の耳に届いた。

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