Guest1 笑わない小さなお客様 ⑤
――翌日の午前十一時。田崎様親子はチェックアウトの時刻を迎えられた。
「オーナーさん、この度は娘のことでご迷惑をおかけしてしまってすみませんでした」
京香さんがしきりにわたしに頭を下げている。本当は陸さんにもお詫びしたかったんだろうけれど、陸さんは残念ながら今日は公休日だ。
「いえ、迷惑だなんてとんでもない! こちらこそ、ご宿泊中に美優ちゃんの笑顔を取り戻すことができなくて残念です。それでですね、京香さん。もしよろしければ、これどうぞ」
「……はい。『さくら祭り』……?」
京香さんはわたしが手渡した、今朝刷り上がったばかりのチラシをまじまじと眺める。
「ええ。次の日曜日に開催するので、よかったらお二人で遊びにいらして下さい。美優ちゃんのお誕生日は過ぎてしまいましたけど、当ホテルよりとびきりのサプライズがございますので」
「え……? ええ、ありがとうございます。ぜひ参ります。じゃあ、私たちはこれで。コンシェルジュの高良さんにもよろしくお伝え下さい」
「はい。彼にも伝えます。では田崎様、またのお越しをお待ちしております!」
わたしに
「――オーナー、何だか元気がございませんねぇ。美優さまのことで気を落とされているのですか?」
「ああ、大森さん……」
意気消沈ぎみのわたしに声をかけてくれたのは、支配人の大森さんだった。父が亡くなった今、ここで最も父と年齢の近い彼はわたしのお父さん代わりだ。精神的な父の代わりは陸さんだけれど。
「そんなことないですよ。確かに、お泊まりになっている間にあのお客様の笑顔を取り戻すことはできませんでしたけど、まだチャンスは残ってます。『さくら祭り』の日は、みんなで協力して彼女に笑顔になてもらいましょう!」
「そうですね。頑張りましょう」
無理に気を張って笑顔を作ったわたしに、彼も笑顔で応えてくれた。
* * * *
今日はあの後、オフィスに引きこもって仕事をしていた。宿泊名簿の入力といったホテルの仕事はもちろんだけれど、ほとんど原稿の執筆だ。
夜八時の時点でとりあえず、田崎様親子をモデルにした親子連れをお見送りするところまでは書けた。第一章のクライマックスは『さくら祭り』での作戦
「――よう、春陽ちゃん。頼まれたとおり、あの工房でテディベア、注文してきた。次の日曜にギリギリ間に合いそうだ。これが注文書の控えと領収書な」
「陸さん、ありがとう。ご苦労さま」
今日は仕事がお休みだったはずの陸さんが、いつの間にかオフィスに入って来ていた。とはいえ、彼はここに頻繁に出入りしていることにはもう慣れっこなので、わたしは別に驚かない。
「テディベアの代金は経費で落としとくね。控えは陸さんが持ってて。当日受け取りに行ってほしいから」
「分かった。……あのさ、春陽ちゃん」
「ん? なに?」
彼はわたしに何か言いかけたけれど、わたしが首を傾げると「……いや、何でも」とまたはぐらかす。
――『高良さんって絶対、オーナーのことが好きなんだよ』
ふと、昨日の夕方志穂さんから言われたことが頭をよぎった。もし本当にそうだとしたら、陸さんのこの態度も腑に落ちるのだけれど……。
「……ねえ、陸さん。陸さんはどうしていつもわたしにそんなに優しいの?」
「俺は……あんたのお父さんが愛したこのホテルが好きだから。そしてこのホテルを一生懸命、自分なりに守ろうとしてるあんたのことも尊敬してる。その小さな体で小説を書きながら、二足のわらじでオーナーの仕事も頑張ってる春陽ちゃんのこと、すごく立派だと思ってる。俺は実家の、親父のやり方が気に食わなくてここに就職したから。自分の親を尊敬できるって当たり前のことじゃないと思うんだ」
「……そっか。でも、わたしが尊敬してるのはお父さんだけだよ。お母さんのことはまだ許せない」
わたしの母は、わたしが高校二年生になる少し前に父と離婚した。陸さんがこのホテルに就職する前の話だ。他に好きな男の人ができたかららしいと父は言っていたけれど、本当の理由はまだ分かっていない。
父はそれ以来、ホテルの経営を続けながら男手ひとつでわたしを大学に進ませてくれたけれど、無理が祟って半年前に帰らぬ人となってしまった。
父の葬儀にも顔を出さなかった母を、わたしはまだ許していない。もし再会することがあったら、いくらでも言いたいことはある。
今回、京香さんたち親子に感情移入しすぎたのは多分、あの元ご夫婦と自分の両親を重ね合わせていたせいもあると思うし、自覚もしている。
「――わたしのことはともかく、美優ちゃんがお父さんやお母さんのことを恨んでないといいけど」
美優ちゃんがまた笑えるようになるには、やっぱり父親である駿さんの力が不可欠だとわたしは思っている。
「大丈夫だよ。そうならないために、俺たちが頑張るんだろ?」
「うん」
どうか、あの親子三人が和解するためにも、この作戦がうまくいきますように……。
* * * *
――『さくら祭り』当日は朝からよく晴れて、ポカポカと暖かい日になった。
わたしはホテルのバックヤードへ、スタッフのみなさんに挨拶をするために下りていく。と、そこには何やら大きな段ボール箱が置かれていて、大きなクマの頭が覗いている。これって、テディベアの着ぐるみ?
「みなさん、おはようございます。――この着ぐるみ、何ですか?」
「おはようございます、オーナー。これはですね、当ホテルで大きなイベントごとが行われるときに登場する、テディベアの着ぐるみでございますよ。ほら、クリスマスの時などに館内を練り歩いておりましたでしょう?」
答えてくれたのは大森さんだった。ちなみに、この場に陸さんはいない。彼は朝イチで、高円寺まで完成したテディベアを受け取りにバイクを飛ばしているはずだ。
「ああ、あの子か。あれっていつも誰が中に入ってるんですか?」
「クリスマスの時に入っていたのは私と、途中で高良君が交代で。ですが、オーナーのお父さまが入っておられたこともございましたよ」
「えっ、高良さんやお父さんも……」
テディベア好きだった父ならまだ分かるけれど、陸さんまで着ぐるみに入ったことがあるなんて想像がつかない。でも、お客様を喜ばせる仕事に誇りを持っている彼ならきっと、喜んでやるだろうな。
「本日の『さくら祭り』では、ぜひともオーナーにこれを着て頂きたく用意致しました」
「え……、わたしが着るんですか? でもわたし、着ぐるみに入ったことなんか一度もないですよ」
大学時代の友人は、テーマパークで着ぐるみに入るバイトをしたことがあると言っていたけれど。その時の感想を「まるでサウナだ」と言っていたことが記憶に残っている。要するに、中はとんでもなく暑いのだと。
汗でメイクはグチャグチャになるし、脱いだ後はものすごい汗だくになるから女性はあまりやりたがらない仕事らしい。
「それに、わたしはお客様たちにご挨拶もしなきゃいけないし……」
「ああ、さようでございますねぇ。残念ですが、他のスタッフで入ることに致します」
「ごめんなさい、大森さん。よろしくお願いしますね」
しゅんと肩を落とす大森さんに、わたしは申し訳なく思って頭を下げる。そこに、外からバイクのエンジン音が聞こえてきた。
「――ただいま戻りました」
しばらくして、通用口のドアからライダージャケット姿の陸さんが、紙袋を二つ抱えて入ってきた。
(……あれ、二つ? どういうこと?)
わたしは首を傾げてから、「おかえりなさい」と彼を笑顔で出迎えた。
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