二話 女郎蜘蛛-10
※
覚えている中では一度、母と一人の少女と出かけたことがあった。
少女が自分の姉妹だと聞いてもあまり驚かなかった。母によく似ていたから。
三人で笑いあってキレイな店のお人形が使うみたいなカップに入った飲み物を飲んだりおとぎ話に出てくるようなお菓子を食べたりしながら笑い合った。
三人で食べたお菓子の甘い味は、夢みたいなささやかな幸せだった。
本当に夢だったのかもしれないと、ときどき思う。
※
「正確には俺が雨の日に会った女の子は八橋実花じゃなかったんだ」
そう言いながらことの成り行きを説明する。
「あの子は耳の下のところに火傷の痕があった。けれど、白雨さんから見せてもらった写真にはなかった」
もらった写真は髪を上げてあって肌が露出していた。雰囲気は近かったがそれで分かったのだ。
考えてみれば他にも引っかかるところはあった。
少女は一度も京一と出会ったことがある素振りをみせなかった。
つまり、繁華街で助けられた少女と雨の日に出会った少女は京一が勘違いしていただけで別人なのだ。繁華街で見た少女は暗がりでよく顔が見えず、光のある方向に出たときには見失っていた。
別人だと思えないほどによく似ていたが、と京一は思う。
「調べたところ、八橋実乃里にはもう一人娘がいました。……それがおそらく」
白雨がそう言った。
彪の自宅であるマンションで京一と白雨と彪は資料を読み漁って情報を確認していた。もう一人の娘の情報はみつからなかった。まるで意図的に消したように。
なんでもっと早く気づかなかったんだ、と京一は頭を抱える。
「八橋実花本人ばかりを見ていて周りはノーマークだったのですから、気づかなくても仕方がなかったことですよ」
その通りかもしれない。それでも。
白雨は慰めるように言うが京一は自分が腹立たしい。
「何にせよ、真相がある程度見えてきた以上ここで話していてもはじまりません」
彪が資料を仕舞いながらそう言う。
「そうですね」
白雨が言って暗くなってきた窓の外を眺める。
また、夜がやってくる。
三人はそのまま八橋実乃里の自宅であるというアパートに向かった。
実花に会えないならば母親に話を聞いた方が手っ取り早いと判断したからだ。幸い自宅の住所は分かっていた。
八橋実乃里は最初繁華街でホステスとして働いていたが、上野と付き合ってからは仕事らしい仕事をしていた記録がなかった。おそらく、上野か鎌形から渡された金で生活していたと考えられる。
女としての興味を失われたからか、長期間あまり金を渡されていない状態だったと思われる。アパートは人がギリギリ住めるくらいの古さで台風がきたりすれば今にも倒壊しそうだ。
それぐらい古ぼけた建物だった。
二階の角部屋が八橋実乃里の自宅だ。玄関には呼び鈴さえない。
彪がドアを叩く。
「八橋実乃里さん?いらっしゃいますか?」
ここしばらく八橋実乃里の姿を見たものは誰もいないという。
ツンとすえたような臭いがしたような気がした。嫌な予感が京一の頭をよぎる。
隣家には人が住んでいないということだ。
つまり、何が起こっていても誰も気づかない。
悠長なことをしている場合じゃないということは何となく全員が分かっていた。
「仕方ありません。ドアを破ります」
破るって道具もないのにどうやってと京一は一瞬思ったが。
次の瞬間、彪は力強い回し蹴りでドアを蹴破った。一撃でドアが吹き飛ぶ。
「貴方がたはここで待っていてください」
そう言って彪は中に入って行く。
「待ってくれ、俺も……」
続こうとして京一は凍りついた。
電気もついていない暗い部屋の中、てるてる坊主のように影が揺れている。
それは首に縄をかけた人の姿だ。
足が地面に張りついたようだ。京一は前に進めなかった。
「来るな」
彪はそれだけ言って土足のまま中に踏み入って行く。
しばらくして口に白いハンカチを当てて戻ってきた。
「亡くなっています。八橋実乃里です。詳しいことは調べなければ分かりませんが状況から見て自殺かと」
ハンカチを仕舞って死体を見たというのに平静そのものといった顔をしている。
「……そうですか」
白雨も静かな声で言う。
京一は声も出なかった。
そのとき、カサリと何かが擦れるような小さな音がした。
視線を下に向けるとビニール袋を手に下げた少女がこちらを見ている。
八橋美乃里の家から出てきたのを見ていたのだろう。
荷物を放り出すと逃げ出した。
「待て!」
階段を降りて彪が後を追う。
京一と白雨も後を追うが、追いつくと苛立たしそうな声で彪は言った。
「……見失いました」
どうやらあたりの道は入り組んでいるようだ。
逃げ出した少女は土地勘があるのだろう。
今のは実花だろうか。あるいは……。
一瞬の出来事で京一には分からなかった。
警察に通報して、八橋実花の捜索を依頼した。
待機している間に彪がどこかに連絡をして言った。
「上野たちが流していたドラッグの詳細が分かりました。黒い蝶の模様がついた錠剤型のもので通称『ブラックバタフライ』。高揚感を得るというよりは意識を混濁させるいわゆるレイプドラッグです」
京一は胸の内に鉛を流しこまれたような気分になる。
そんなものを手に入れようとする人間がいるということに吐き気がする。
「表の世界に流していた仲介者は『
「そんなわけない」
京一が噛みつくように言うと彪は冷たい怒りの視線を向けた。
「なんだその目は?」
「……っ」
一瞬いつもの口調が剥がれていた。
そこから覗くのは人間を何とも思っていない地獄の使者の顔だ。次の瞬間その表情はかき消え皮肉そうな笑みを浮かべて言った。
「事実を言っているだけです。それは貴方の個人的な願望でしょう」
「……あの子じゃない。やりたくてそんなことやっているわけないだろ」
「止めてください」
睨み合う二人を見て白雨が言う。
「落ち着いてください京一さん。煽る彪さんも問題ですが。今は言い争っている場合じゃないでしょう」
白雨に言われて京一は冷たい水を頭からかぶったような気持ちになった。
その通りだ。熱くなっていても仕方ない。
「少し冷静になってください。偏った見方で物事を判断してはいけませんよ」
白雨は遠くを見る目をした。
瞬くと一点を見つめるように視線が止まる。
「……もしかすると」
「何ですか?」
彪が聞き返すと白雨が言った。
「おそらくですが、京一さんが出会った少女の本名が分かりました」
「これは薬物に関わりがあった学生のリストです」
京一に携帯電話を取り出させるとリストの写真を表示する。
おそらく彪のマンションにいた間だろうがいつの間に撮っていたのか。
「八橋実乃里は幼い頃に里親に預けられています。八橋は実乃里が養子に入った家で元の姓は
白雨が言う通り、立羽の名がリストの中にあった。
「珍しい苗字なので覚えていたんです」
その時警察が到着した。
パトカーから降りた警察官はなぜか落ち着きなくどこかと連絡しあっている。
「どうかしたのですか?」
彪が面識がある警察官に声をかける。
「それが……近隣の繁華街で男が殺されそうだという通報があって。最初はイタズラ電話かと思われたのですが亡くなった女性とも関係があるらしくそちらに人員を割くかどうかの話をしていて……」
話を聞き終わらないうちに京一は走り出していた。
「京一さん」
「あの馬鹿」
白雨が叫ぶ声と彪の苛立たしい声が聞こえるが京一は立ち止まっていられない。
嫌な予感と焦燥感が拭えなかった。
京一は追いついた彪に首根っこを掴まれ、同じく追いかけてきた白雨と合流した。
悪い予感は的中したようで彪が確認したところ、通報者が言っていた場所は『bloom』の入っているビルの屋上だ。
京一、白雨、彪の順番で階段を駆け上がる。
屋上に続くドアを開け放つと床に這いつくばる男とそれを見下ろすように立っている少女がいた。
少女の手にはナイフが握られている。
二人は屋上の端ギリギリの位置にいる。
数歩でも動けば落下するだろう。
危うい。
「今回の足止めをする期限は日付が変わるまで。あと三十分です」
白雨が静かな声で告げる。
京一は一歩踏み出した。
名前を呼ぶ。
「
少女が振り向く。
「やっとみつけた」
君を、みつけた。
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