8話 同僚



 頑丈な錠を掛けられた資料室へと踏み入った。思ったよりも小さな部屋で倒れている棚も四つしかない。窓もない地下室のため、壁に備え付けられているランプへと明かりを灯したが、部屋中のランプすべてを使っても薄暗い。

 そんな薄暗い部屋の床には紙や本が散乱しているが、倉庫のような広さを想像していた私からすればそう多い数ではない。……ちょっとばかり安堵した。これなら今日中に終わりそうだ。



「この資料室の目録は覚えていますので、すべて集めていただければ私が確認いたします」


「……覚えているのですか?」


「はい。……そういう趣味でございまして」



 そうか、趣味か。……世の中にはいろいろな趣味の人がいる。ゼアスは資料を読んだり保管や整理をしたりそれを記憶しておくのが趣味の書記官なのだ。趣味が仕事になっていて、大変楽しいのだろう。



「まずは資料をすべて集めるのを手伝っていただけますか?」


「ええ、分かりました」



 床は暗くて見えづらいが資料を踏まないように気を付けて集めるしかない。貴族の令嬢として生まれ育った私は、掃除や整頓をした経験がない。……貴族の掃除というのは、使用人にあれこれ命じることである。経験のない肉体労働にちょっとげんなりした。



『そう嫌そうな顔をするな。私はお前と仕事ができて楽しいぞ』


「……これが楽しいなんてウルベルト様も変わり者ですね」


『ははは』



 あちらこちらに散らばった紙を拾い集める。ウルベルトとゼアスは倒れた棚を協力して起こし、その下敷きになっていた本を救出していた。本来ならこういう力仕事を貴族がすることはないのだが、今回ばかりは仕方がない。

 棚を起こした後、ゼアスは資料を見ながら振り分け始めたので、私は彼に自分が抱えた紙の束を渡しに行く。まだ全部集めた訳ではないが、羊皮紙は嵩張ってそう数を持てるものではないからだ。



「ディオット嬢は本当にウルベルト様のお声が聞こえるのですね。羨ましく思います」



 残りを集めにいこうとする前にゼアスから小さな声で話しかけられた。彼は手元のランプで資料を照らしながら仕分けを続けていて、こちらを見てはいない。だが話しかけられているのにその場を去る気にはならず、足を止めて少しその雑談に応じることにした。もしかすると話しながらの方が作業が進むタイプなのかもしれないし。



「羨ましい、ですか」


「ええ。……幼いあの御方に文字を教えたのは、私でした。文字を覚えたあの方は初めに何と書いたと思いますか?」


「さあ……何を書かれたのでしょうか?」



 幼い子供だったウルベルトが文字を覚えて初めて書いた言葉。彼にとってはそれが初めての会話になるだろう。挨拶か、それとも文字を教えてくれた師への感謝か。そう考えていた私に、ゼアスは小さな、しかし同情が強くこもった声で答えた。



「“この声は聞こえないの?”と。……私はウルベルト様の声はないものだと思い込んでいました。しかし、あの御方自身には聞こえていて、誰にも届かずとも声を上げ続けていらっしゃるのだと気づかされましてね」



 私には普通に聞こえているあの声は、精霊以外に聞こえない。……なら、聞こえない声が存在することをどうやって証明すればいいのだろう。周囲からすれば精霊がウルベルトに対し何かしらの反応を見せても偶然だと思うかもしれない。

 だって、周囲の人間にはウルベルトが何を言っているか聞こえない。精霊がどんな言葉に反応したかも分からないのだ。文字を覚えるまでウルベルトの声は「ないもの」だったのかもしれない。



「この方の声を聞いて差し上げたいと思ったものです。……だから私は、ディオット嬢を羨ましく……そして貴女がいることを、ありがたく思うのですよ」



 資料から顔をあげ、ゼアスはまっすぐに私を見た。初対面の瞬間と同じように、柔らかく優しく青い目を細めて笑う顔を見て、彼が私に好意的に接してくれる理由がそこにあることを察する。


(……あるはずの声が届かない、か)


 ふと思う。もしかしてウルベルトが他人を罵っていた理由はそれなのかもしれない。聞いてほしいのに、誰も聞いてくれないから。何故聞こえないんだと、他人を罵るようになったというなら少しは理解できる。



『二人で何を話しているんだ。私をのけ者にするとは、まるで……いや、なんでもない。とにかく何を話している?』


「……ウルベルト様の子供の頃の話ですかね」



 私たちがこそこそと話しているのを気にしてウルベルトが近づいてきた。また悪態をつきそうになったのだろう、咳ばらいをして誤魔化している。

 幼少期の経験は大人になっても引きずるものだ。私とて、偽耳と呼ばれるようになったきっかけの茶会は忘れられないし、甘いものは好きなのに、あの日の茶会で出されていた「ジャムクッキー」だけは見るのも嫌なくらいである。……だから少しだけ、癖になるほど悪態をついてきたというウルベルトに同情した。



『私の話だと? ……子供の頃のみっともない話ではないだろうな?』


「……あの、ウルベルト様はなんと?」


「子供の頃の恥ずかしい話をされていないか気にしていらっしゃいますね」


「いえいえ、そのようなことはございませんよ、ウルベルト様。……ああでも……貴方様とこうしてお話ができるのは、嬉しいことです」


『そうか。……お前のおかげで、私は他人に自分の考えを伝えられるようになったからな。私を気味悪がる大人ばかりの中で、私に向き合ってくれたのはお前くらいだった。感謝している。……と、メルアンがいるなら伝えられると思ったんだが、頼めるか?』


「…………ええ、構いません。そういう言葉ならいくらでも」



 ウルベルトの言葉をゼアスに伝えた。こういう力の使い方は悪くない。ゼアスも軽く涙ぐんで、ハンカチで目元を押さえていた。部屋の空気も、私の心の内も、なんだかとても穏やかだ。


 その後資料をすべて集め終わり、残るはゼアスの確認作業だけとなったので、邪魔にならないようにと彼から離れた。ウルベルトもそんな私の元にやってくる。



『私はお前とも話がしたいんだがな』


「……今ならお話できますよ」



 ゼアスの作業の邪魔にならぬよう、声を潜めながら答えた。そんな私をウルベルトは意外そうに見た後、嬉しそうに破顔した。



『また嫌がられるかと思ったんだが、今日は機嫌がいいのか?』


「そうですね。……今日のウルベルト様の言葉は綺麗でしたから」



 人への感謝と好意の籠った言葉。それを紡ぐ声は魂に響く音。悪い気分になるはずもない。むしろ、ウルベルトが初めからこういう言葉ばかりを使っていれば、私は彼を嫌うことなどなかった。


(……苦手なはずよね。だって、あの悪態は……きっと、ウルベルト様の悲鳴だったんだもの)


 誰にも届かない声を上げ続けていたのだ。あの悪態に籠っていた感情は嫌味などではなく、ウルベルトの孤独を訴える悲鳴だったのだろう。……そんなものを聞けば苦しくなって当然だと思う。彼の声はとても強い力を持って、魂に響くのだから。



「ウルベルト様の声は、私にとってはとても強いものです。その声で悪態を吐かれるのは心底嫌ですし二度と聞きたくありませんが、それ以外なら構いません」


『今のところ、あれ以降お前に罵倒は聞かせていないはずだ。……一応、日常的にも努力はしているぞ?』


「……それは、いいことですね」



 つまり彼はもう、悲痛な叫びをあげる必要がなくなったのだろう。それはきっと私という耳があるからで、やたらと執着される理由もおおよそ理解できた。

 ウルベルトは私に恋をしている訳ではない。ただ、親に話を聞いてもらいたい子供の様に、普通に声を聞いて話せる相手を求めているだけ。ならば友人でも仕事の同僚でも構わないはずだ。だからこそ彼は私に無理矢理関係を迫らないと断言し、仕事を手伝わせるという方法を取ったのだと思う。


(仕事の同僚としてなら上手くやっていけるかもしれないわ。……頼もしくも、あるし)


 私は一人だと精霊の言葉にうなずくことしかできないが、ウルベルトと共にいれば話を聞いて交渉もできる。二つの事件を通してその確信を得たのだ。同僚として、共に精霊に対峙する者としてなら彼の存在は頼もしいことこの上ない。



『私の声は強く聞こえるのか。……まあ、酷い声だからな、そうも聞こえるか』


「? 酷い声、ですか?」


『ひび割れている上に擦れて、聞いているだけで不快になるだろう? 精霊たちも何故こんな声を好いているのか分からん』



 自分に聞こえる声と他人に聞こえる声は違うという。ウルベルトには精霊の声は聞こえないのに、自分の声が聞こえているようだから不思議だとは思っていたが、どうやら体内に響いて全く別の音として聞こえているらしい。……彼自身にはこの声が醜く聞こえるのか。



「ウルベルト様の声は綺麗ですよ」


『……なんだと?』


「高名な楽団の音色に耳を傾けている時に似た心地よさを感じます。貴方が美しい言葉を紡ぐなら、私はずっと聞いていたいと思うでしょう。……私にしか聞こえないなんて、もったいないですね。こんなに綺麗なのに」



 例えば美しい詩や、温かみのある優しい歌をこの声で紡がれれば聞き惚れる自信がある。それほどウルベルトの声は耳に心地よいのだ。精霊が彼の声を好み、頼んでいなくても願いを叶えようとするくらい好意的なのも理解できるくらいには、私にとっても好ましい。……ただ、そういう音だからこそ聞こえれば意識を向けざるを得ない。



「だからこそ私は貴方の声には耳を傾けてしまうので……もう悪い言葉は使わないでください。私は他人を罵る言葉が、とても嫌いなんですよ」



 言いたいことは伝えられたと思う。……それにしてもウルベルトの反応がない。隣の高い位置にある顔を見上げようとしたら、彼は何故かそっぽを向いていた。炎の明かりがちらちらと揺れながら照らし出す耳は、火の色を反射して赤く見える。



『……分かった。二度と使わない……お前へは愛を囁くと決めたからな』


「そういうのはもういいですから。貴方は私と話したいだけでしょう? 今までの貴方の言葉に、そういう感情がなかったのは理解していますから。もう無理に甘い言葉を使おうとしなくていいですよ」



 出会った時から感じていた大きな好意。意味が分からずそれを不気味にも思っていたが、最近ようやく理解ができた。

 彼は私に恋愛感情があるのではなく、自分の声を初めて聞いてくれる存在を特別に思い、逃がしたくないのだと。要するに彼は誰かと話がしたくて、寂しくて仕方がなかった。その孤独を埋められる存在が私だけなのだ。

 逃さないために初めは愛を囁き恋人、いやむしろ結婚しようと考えたのだろう。妻であれば一生傍にいるから。……別にそんなことをしなくても、この仕事に就けられた時点で離れられはしないのだから、今後は無理して想い人のように振舞う必要はない。



『いや、それは……たしかにそうだったんだが……』


「ですからもうやめにしましょう? その方が私も気楽です。これからも仕事仲間として一緒にお仕事を頑張りましょうね、ウルベルト様」



 おそらく今の私であれば彼の求婚も受け入れる。しかし私たちの特殊な能力を考えればこの仕事は死ぬまで続くはずだ。

 私はどうせ同僚として傍に居続けるので、その時点で彼が私に望むものは満たされる。そうであれば公爵であるウルベルトがわざわざ名誉に傷のある伯爵家の娘を娶るメリットはもうない。


(きっと私たちの関係の正解はこれなんだわ)


 私はおそらく、その時初めてウルベルトに笑いかけた。私たちはこれからもずっと良き同僚としてやっていけるだろう。一人では欠けてろくに使えない能力も、合わされば強力な武器になる。これほどまでに相性よく頼もしい相棒もいない。

 ウルベルトは突然態度が変わった私を困惑したように見下ろした後、そっと瞼を閉じながら頷いた。



『……気長にやろう』


「ええ。精霊の起こす事件はまだたくさんありそうですから」



 そうして二人で軽く雑談をしているうちにゼアスが資料の確認を終えてこちらにやってきたのだが、その表情はなんだか浮かない様子だ。



「お二人とも、お待たせいたしました。確認が終わったのですけれど……」


「どうなされたのですか?」


「ええ、実はですね……破損資料とは別に、紛失したものがあります。……どれも、精霊の生態に関する貴重な研究資料です」


『盗まれたと考えた方が良さそうだな。……何に使うつもりかは知らないが』


 

 風の精霊が閉じ込められる原因となった人間。それはどうやら盗人で、しかも盗んだのは金目の物ではなく知識である。……どうやらこの事件は、そう単純なものでもなさそうだ。


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