2話 精霊の声
(私にしか聞こえないってことは……彼の声は精霊と同じ音域なんだわ)
そんなことがあるのだろうかとも思ったが、しかしそうとしか考えられない。彼は「口無し公爵」と呼ばれる程に無口なはずだが、私にはよく喋っているように思える。しかも大変悪舌だ。もし他人にこれが聞こえているなら、こちらの方が噂となっているだろう。
『メルアン=ディオット。お前に出会えたことが何よりの幸運だ』
ウルベルトはそう言うと顔半分を隠していたマスクを外した。半分しか見えなかった端正な顔が完璧な顔になって出てきただけで背後の令嬢たちからため息が零れる。彼女たちはあの形の良い薄い唇からどんな言葉が吐き出されているか知らないからそういう反応ができるのだ。
(……何をそんなに喜んでいるの?)
あまりにも嬉しそうなその顔を眺めていると、彼は自然な動作で私の手を取りゆっくりと身を屈めた。一瞬何が起きたのか分からなかったが、途中で指先にキスをしようとしているのだと気づき、慌ててその手を引っ込めようとした。……しかしその瞬間に強く手を握られて逃げられなくなる。
『お前がそこまで恥じらうなら口づけはしない。だから逃げるな、私の意思を伝えたいだけだ』
周囲にはウルベルトが私の手に口づけたように見えただろう。実際には口づけるフリをしただけだが。離された手を慌てて引き、自分の手で握る。……本当に全く、何を考えているのやら。指先へのキスは敬愛を示す。そんなことをされる覚えはない。
『メルアン、お前を婚約者に選ぶ。受け入れてくれるか?』
「嫌です」
『……嫌なのか?』
予想外と言わんばかりに驚いた顔をされたが、驚いているのはこちらの方である。「お断りします」と言わなければならないところを思わず素で「嫌です」と返してしまったくらいには驚いた。
たしかにこれは彼の婚約者探しのパーティーなのだろうが、ウルベルトの妻となることに積極的な人間ばかりではない。現に私は無理やり送り出された。
私だって両親には安心してほしいし、彼の性格によっては私も前向きになったかもしれない。しかし実際にウルベルトを目にし、その声を聞いて無理だと判断した。……彼の口の悪さは到底受け入れられない。
「貴方のように口の悪い御方はお断りです。私にはすべて聞こえていましたから、自覚はおありでしょう?」
聞こえないからと言って好き放題に暴言を吐いて言い訳がない。それは陰口と同じだ。私がずっと、その場にいてもいなくても「偽耳」と罵られているのと何が違うというのか。
彼は誰にでもこういう言葉を使う。私はそれを聞くに堪えないと思ったから、彼の婚約者になる気はさらさらなかった。
そんな私の返答を聞いてもウルベルトは心底嬉しそうで、そんな彼が何を思っているのか全く理解できない。
『では、悪態を吐く代わりにこれからはお前への愛を囁くのはどうだ? それならいいだろう』
「いや……何も良くありませんが……?」
『そういう冷たい態度ですら好ましいな』
顔をしかめてしまった。出会ったばかりで、しかもどちらかといえば嫌いな部類の人間にこのようなことを言われても別に嬉しくはない。しかしそれにしても、嫌がる態度を全く隠してないのにこの人は何故嬉しそうな顔で笑っているのか。
(……しまった、話しすぎたわ。公爵の声は他の誰にも聞こえないんだった)
その声は私以外には聞こえず、背後にいる令嬢たちは私の声しか聞いていないので状況が分からないことだろう。私の姿は彼女たちからどう見えていることやら。
『言葉を一つ交わす度に、お前を特別愛おしく感じるんだが……』
「私以外に聞こえなくともそのような発言はやめてください! ……とにかく、婚約はお断りいたしました。それでは体調が悪いので、本日はこれにて失礼いたします」
先ほどの提案通り愛でも語りだしそうなウルベルトに対し思わず語気が強くなり、一呼吸置いて冷静になりながら暇を伝え一礼した。これでもう帰ってもいいはずだ。
そうして体を反転させると今度は視線が突き刺さった。一人だけ長々と挨拶をし、公爵は何も言っていないのに一人で話し、そして公爵から指先に敬愛の口づけを受けたのだ。……しかも「偽耳」と悪評のついた令嬢が。注目されないはずがない。
(……だから、嫌なのよ。人前に出るなんて)
今日のことがどのように噂されるか考えただけで嫌になる。彼女たちの鋭く突き刺さるような、もの言いたげな目から逃げるように、私はそのまま会場を出た。
家の馬車を見つけ、そこでおとなしく待っていた精霊に近づく。この精霊は馬によく似た形をしているが足が八本もあり、そしてとても足が速い。どう考えても物理的に不可能な距離を短時間で移動するので、おそらく何か特殊な道を使っているのだろう。貴族の家ではこの精霊に馬車を引かせるのが一般的だ。
『報酬は?』
「……これよ」
報酬を催促してくる馬に座席に用意しておいた籠を差し出す。彼は鼻先を籠へと近づけて、その中身を確認した。
『ふむ、卵か。ならば棲家だな』
この精霊は報酬によって運び先を決めることができる。初めて行く場所には人間が連れて行く必要があるけれど、その場所で今まで与えたことのない報酬を与えれば、次回からは同じ報酬を事前に渡すことで連れて行ってくれるようになるのだ。
我が家の場合は自宅に帰る時は茹でた卵を渡している。ちなみに王城へ行く時はミルクだ。どちらも年中手に入るので、行く頻度の高い場所にはこういうものを報酬として設定している。
「じゃあ、頼むわね」
『何を言ってるか知らないが早く乗れ。言っておくが、これはもう返さないぞ』
馬の形をした精霊は茹で卵をもぐもぐと口にしながら鼻を鳴らした。精霊とは常に一方的なコミュニケーションしか取れない。……彼らと同じ声でも持っていなければ、こちらの言葉は伝わらないのだ。
(……色々と驚きすぎて、まだ少し混乱しているのよね。……あの公爵様は、精霊と同じ声を持っているようだけれど……あの声なら精霊と会話ができるのでしょうね。私と違って)
まあそうだとしてももう関係はない。婚約ははっきりと断って、その気がないことは早々にパーティーを辞する態度でも伝えた。
彼の声が私にしか聞こえないとしても人間同士なのだから筆談でもなんでもすれば意思の疎通は可能だ。現に兄とは親しいようだし、コミュニケーションに問題はないのだろう。
むしろあの悪態が聞こえないだけ彼にいい印象を持っている好意的な令嬢を婚約者に選べばいい。
(私は修道院に行く準備をしないとね。まずは両親に話をしましょう。今日はもう遅いから、明日にでも)
馬の精霊が引く馬車は、大した時もかけずに家へと辿りつく。使用人たちとそれに交じる精霊たちに出迎えられ、ドレスを脱がされ、軽く体を拭いたら夜着に着替えてベッドへともぐりこんだ。
ひどく疲れていて、とにかく早く眠りたい。明日目を覚ましたら軽く湯あみをして、気合を入れなおしたら両親に話をしよう。
そう決めた途端すぐに深い眠りについた私は、翌日すっきりと目を覚ました。その後湯あみもして気分爽快、身なりを整えて両親への挨拶へと向かう。その途中でちょうど弟のオスカーに会った。彼は私を見ると明るい顔でにこりと笑う。
「ちょうどよかった。姉上、父上と母上が呼んでいますよ」
「……あら、おかしいわね。さっきまで気分が良かったのだけれど、急にめまいが……」
「姉上、その手はもう通じませんよ。僕は勉強の時間なので一緒にいてあげられませんけど、叱られたら慰めてあげますから」
姉想いの弟はどうやら私が叱られると思っているらしい。昨日の社交パーティーを早々に辞退してきたことが知られてしまったのかもしれない。しかし婚約する気がない以上、あの場に留まっても意味がないのだから致し方ないだろう。
(修道院に行くことを伝えるいい機会よ。私は誰とも結婚しないのだから)
そんな意気込みを胸に父の執務室に入った私は、この場に来たことをとても後悔した。
「ノクシオン公爵から朝一番に手紙が届いてね。君の意思を汲んで、急いで婚約する必要はないからまずは真剣に交際したいと。本当に喜ばしいな」
「ええ、良かったわ。恋人としてのお付き合いからだなんて、公爵はメルアンを大事にしようとしてくださっているのね」
とても機嫌よく、喜びを顔の全面にあらわにしている両親を前に、結婚せず修道院へ行きたいなどという言葉を口にすることはできなかった。……まさかウルベルトに先を越されるとは。
確かに婚約しない意思は伝えたし手紙に書かれている通りであるが、真剣交際するとは言っていない。挨拶に来る日程まで決めているらしい手紙を燃やしたい気持ちを堪えて、私はこぶしを握った。
(婚約は嫌だと言われたけど交際は嫌だと言われてないとでも言うつもりかしら。いいわ、直接お断りしてさしあげましょう)
私との結婚を願う貴族などウルベルトくらいのものかもしれないが、口が悪い上に自分勝手な公爵などお断りだ。私は陰口を叩くような人間を、心底嫌っている。そんな相手と結婚して毎日顔を合わせるなんて耐えられない。
(あれだけ人を悪く言えるのだから、普段からそういう人なのよ。性格も悪いはず。……そんな人に付き合い切れないわ)
私はまともな結婚ができないなら、ただ修道院に行き残りの人生を静かに過ごしたいのだ。優秀な弟もいるし、ディオット家のことは心配ない。ウルベルトを諦めさせたらもう二度と結婚の予定は立ちそうにないので、今度こそ修道院に行くことになるだろう。
(私が交際を断れば次はどう理由をつけるつもりかしらね)
私の気の強さを甘く見ないでほしい。必ずきっぱりと断ってみせる。……だが、相手を甘く見ていたのは私の方だった。
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