第20話 読書だけでは得られない感情

 アイリスがモリアスに背を向け一路屋敷に向かっていると、薔薇園の横手から誰かが駆け来る音が近づいてきた。

 誰だろうか、と厳しい顔のまま音のする方を見やったアイリスは、薔薇のアーチの向こうから飛び出してきたハイデンの姿を見て思わず目を丸くした。彼の表情が、今まで見たことがないほど切羽詰まったものであったからだ。


「どうしたの、ハイデン。そんなに慌てて……」

「どうしたもこうしたも、」


 怒ったように言い返してきたハイデンは途中で言葉をとぎらせると、アイリスの両肩に手を置き彼女の頭から足先まで忙しなく見回した。


「何かされたのか?」

「何もされてないわよ。何も……」


 ぎゅ、と左腕を右手で抱きしめながら、アイリスは暗い声で答えた。特に何かをされたわけではないのは本当だ。ただ、先程のモリアスは──まるでアイリスが知る彼とは別人だった。


(ううん。きっと、彼は元々ああいう人だったのね。これまでの私が物事の表層しか見てこなかっただけで、きっと彼の本当の感情は、最初からああだったんだわ…………)


 声もなくまつ毛を伏せるアイリス。そんな彼女の肩に触れるハイデンの両手に微かに力が加わって、アイリスは無気力ながらゆるゆると顔を上げた。


「……何?」

「遠視の術が阻まれたから、何かあったのかと思った」


 不機嫌そうな顔でぶっきらぼうに言うハイデンを、アイリスは訝しみながらじっとひた見つめた。怒っているような口調とは相反して、もどかしそうにまごつく手指。ひょっとして、とアイリスは半信半疑で唇を動かした。


「モリアスが歌を歌って、あなたの魔術を跳ね除けたの。……それを案じて、わざわざここまで走って来てくれたの?」

「別に好きでお前を案じたわけじゃない。ただ……一応、俺は契約でお前を守ることを約束しているから…………」


 しどろもどろになりながら、何故か余計に怒ったような顔を作るハイデン。そんな彼の不器用で素直すぎる感情表現に、アイリスは思わず声を立てて吹き出し笑ってしまった。


「ふふ」


 笑った瞬間、ぼろっと両目から熱い雫がこぼれ落ちた。心底驚いた顔で硬直するハイデンの前で、アイリスはぼろぼろと両の瞳から大粒の涙をこぼし続けていた。


「あれ。私、どうしたのかしら、」


 呟いた声が震えている。拭ってもぬぐっても、涙は遅れて溢れて来て、アイリスは困ったように笑いながらハイデンに言い訳をしはじめた。


「違うのよ、私、ただあなたに心配してくれてありがとうって、言いたかっただけなのに、」


 薔薇園のレンガ道に、涙の跡が黒いシミを幾つもいくつも作っていく。ともすればしゃくりあげそうな自分にアイリス自身も驚きながら、それでも彼女は笑顔だけは絶やさなかった。


「走って来てくれて嬉しくて、来てくれて安心できて、だからありがとうって言いたくて──」


 言い訳を続けていたアイリスの視界が唐突に翳った。

 額に彼の胸板の感触。いつの間にか後頭部に添えられていたハイデンの手が、アイリスの頭を彼の胸元へ招いたのだった。


「もういい。何も喋るな」


 淡白で、荒っぽくて、ぶっきらぼうな言葉。けれど、後頭部を一撫でしていく手指の感触は真逆なくらい優しくて──アイリスの涙は余計に溢れて止まらなくなってしまう。


「本当に何もなかったのよ。ただ少し、話し合っていただけで」

「それは、何もなかった奴が言うセリフじゃないな。これだから、世間知らずの聖女サマは」


 挑発しているかのような言葉なのに、ハイデンの声はいつもより柔らかい響きでアイリスの耳に届いた。


「お前が嘘をつくのが下手なことくらい、俺にももうわかっている」


 とん、とん、と。落ち着くリズムでアイリスの背中をさすりながら、ハイデンは嘲るのではなく受け止めるための微笑を浮かべた。


「助けが間に合わず、すまなかった」

「そんなこと……! そんなことないわ。だってハイデン、こうして走って来てくれたじゃない」

「何か恐ろしいことがあったんだろう。その場に駆けつけられなかったのは確かだからな」


 真摯に詫びてくれるハイデンの、穏やかな心音を聴きながら。アイリスは必死にしゃくり声を殺し、ただただ首を横に振り続けた。


(ううん、やっぱりそんなことない。だって私、あなたが息を切らして走って来てくれたことが本当に嬉しかった。あなたが助けに来てくれたんだとわかったあの瞬間、私はすごく救われたんだから…………)


 薔薇の香りと優しい風、そしてハイデンのぬくもりに包まれて。アイリスはようやく自分がモリアスとの会話に傷ついていたのだと自覚した。

 アイリスは本当にモリアスを大切な友人だと思っていた。だからこそ悲しかったのだ。彼の中で自分は対等ではなかったということが。優しさと信じて疑わなかった彼の感情は、恐らく優しさではなかったのだという真実が──


 それからアイリスは、涙ながらにモリアスとの会話をハイデンに報告した。泣くほどのことではないだろうと笑われるかとも思ったが、彼はアイリスを責めることも笑うこともせず、ただ静かに耳を傾け頷気ながら聞いてくれた。


「なるほどな。……まあ、あいつがその手のタイプだということはなんとなくわかっていたから納得だな」

「その手のタイプって?」


 問い返したアイリスの声はもう揺れてはいない。話を聞いてもらうことでアイリスの感情の波もすっかり落ち着いたようだった。ハイデンは涙でぼろぼろに崩れたアイリスの化粧を指さし笑いながら、端的に答える。


「盲信と妄執、支配欲の塊のような男ってことだ」


 アイリスは化粧崩れをした顔を両手で包み赤面しながら、ハイデンの言葉を口の中で転がした。

 盲信と妄執──まだアイリスの中のモリアスは優しい笑顔のイメージが強く、その言葉にピンときてはいないが、きっと当たらずとも遠からずなのだろうと思い直す。あの時モリアスに触れられて嫌だったのは、自分を思い通りに動かそうとする支配欲が透けて見えたからなのかもしれない。


「お前を心酔している風だったから立てた作戦だったが……負担をかけて悪かったな」

「そんな! 私こそ、途中で話を中断してしまって、ごめんなさい…………」


 本当であればアイリスはモリアスの警戒心を解くために努力をしなければならなかった。それが喧嘩のようになってしまい、自分の不注意のせいでモリアスが屋敷にくることになったというのに、作戦さえも失敗させてしまったのだ。アイリスは今、何もかも上手く出来ない自分にひどく落胆し気落ちをしてしまっていた。


「お前は……以外と泣き虫なんだな」


 そんなアイリスにふっと笑って、ハイデンは先ほどより乱暴に彼女の金髪を手でかき混ぜた。


「別に構わない。あいつの本性が確かになっただけで大きな収穫だ。そう落ち込むな」

「ちょっと! 髪の毛! せっかくアンが綺麗にしてくれてるんだからやめてよね! あと、以外とって何よ、以外とって!」


 ハイデンの手を払いのけて、アイリスはぷぅっと頬を膨らませ怒りを露わにする。そんな彼女の幼子のような膨れっ面に、ハイデンは可笑しそうに声を立てて笑った。


「悪い、悪い。愛されて当たり前の聖女サマだとばかり思っていたら、思いの外逆境の中でも喰らい付いてくる気骨のある奴だったからな。つい、そうやって泣いている姿を見るまで、お前がか弱い女だってことを忘れてしまいそうになる」


 弾けるように笑いながら話すハイデンの前で、アイリスはぽかんと口を開け呆けた顔を晒していた。

 自分だけは一生見ることが出来ないのだろうと思っていた、あの、少年のような無邪気な笑顔が、今、アイリスの目の前にある──


「清らかで綺麗なフリをしているお前はいけすかないが……そうやって怒ったり泣いたり感情を出しているお前は悪くない。そっちの方が、ずっといい」

「……変な人。そんなこと言う人、はじめてよ」


 無邪気な微笑みに胸が締め付けられるように痛んで、アイリスは彼の視線から逃げるように顔を俯けた。


(ハイデンは知らないでしょうけど、あなたと出会う前は怒ったり悲しんだり、滅多にしない私だったのよ)


 アイリスが聖女だから、魔族ではないから。

 ハイデンと分かりあうことなんてできないのだ、愛されることなんてできないのだと泣いたあの日を思い出し、感慨深い思いでアイリスは痛む胸に手を添えた。共に歩む道を諦めなかったから、今日彼の笑顔と出会えたのだ。


(きっと、あなたに出会ったから。私はただの女の子として、こんなに感情を出せるようになったのよ…………)


 チクチクするような、むずむずするような。針で刺された時のように、不思議に熱を持つ胸の痛み。その痛みの正体ばかりは読書だけでは得られないものであると、アイリスはまだ知らないのであった──






 それから一時間後。

 アンの手により再び化粧とヘアメイクを施されたアイリスとハイデンは、教会へ戻ると言うモリアスを見送るために屋敷の正面玄関に並んで立っていた。


「本日は突然訪問してしまって、申し訳ありませんでした。ですが、アイリスの元気そうな姿を見れて本当に安心しました」

「あ…………」


 一礼をするなり二人に背を向け去っていくモリアスに、アイリスは反射的に手を伸ばしていた。


「モリアス、待って…………っ」


堪かねて、アイリスはハイデンの横から駆け出しモリアスの背を追い縋った。道の途中で振り返ったモリアスに、アイリスはしばし瞳を揺らすばかりだったが、やがて深々と頭を下げて謝罪をした。彼が自分にとって大切な、家族であり幼馴染であり〝友人〟であることは変わらないのだ。


「さっきは…………ごめんなさい。でも私も、モリアスなことを大切に思ってるの。それは本当だから…………」

「──わかっているよ、アイリス」


 肩を落ち込ませるアイリスの手を、ふわりとモリアスの両手が包み込む。重なる手と手の間に、チャリ、と小さな金属音と共に固いものが滑り込んできて、アイリスは薄荷色の瞳を瞬かせた。


「モリアス、これは……?」

「お詫びの品……にするつもりはなかったんだけど」


 そっと手のひらを開いてみると、そこにはアイリスの瞳と同じ色の宝石がはめられたペンダントが一つ収まっていた。精巧な造りの美しい金細工で、陽光の下、宝石も金のチェーンもきらきらと眩しく輝いている。


「きみに似合うと思って見繕っていたものなんだ。でも、渡す勇気がないまま、きみはこうして伯爵夫人になってしまった…………」

「モリアス…………」

「けど、もしよかったらそのペンダントを持っていて欲しいんだ。それには僕の力も込められている。聖女のきみには不要なものかもしれないけど、お守りだと思って、もしよかったら側に置いてやってほしい……」


 悲しげな海色の瞳を見ると、申し訳なさが勝ってしまうアイリスだった。アイリスは彼の好意と自分の立場にしばし悩んでいたが、やがてペンダントを握りしめると、モリアスにいつも通りの笑みを向けた。


「ありがとう、モリアス。あなたの気持ち、とても嬉しいわ。私の答えは変わらないけど、このお守りはきっと大切にするわね」

「本当に嬉しいよ。ありがとう、アイリス。きっとそのペンダントがきみを悪いものから守ってくれるはずだ」


 最後の挨拶を済ませ、モリアスは笑顔のままで馬車に乗り込んだ。

 手を振るアイリスの姿が遠ざかり、すっかり見えなくなった頃。モリアスは懐からもう一つのペンダントを取り出し満足そうに微笑んだ。アイリスに渡したものと全く同じ意匠の、海色の宝石をはめたペンダントを──


「そう。きっと、きみを悪いものから守ってみせるからね──アイリス」


 モリアスが宝石の表面を一撫ですると、ぼんやりと輝き始めた宝石越し、笑顔で屋敷に戻るアイリスの姿が映し出されたのであった──

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