そして、たまらなく愛しい 【完】

大石エリ

前編

「高校を卒業するまででいい。もっと俺になにかさせて。あなたのためになにかさせて。ありがとうって言わせて。……そして、たまにでいいから頭を撫でて下さい」


その最上の告白に私は困り果てて、曖昧に笑ってごまかした。

目の前の綺麗な男は、悲痛をこらえるような顔で、真剣な瞳ですがっていた。


高校卒業の一年と一ヵ月前。

二月の雪の降っている日だった。



―――――…

――…


終わりはなんてあっけないものなんだろう。

あの時の真剣だった彼はどこにいったのか。

私はあの日の彼を思い出す事がもうできなかった。


印象に残らなかったわけじゃない、ただ時間が経ってしまったんだ。

あのときと同じ、相変わらず見た目は最上級に綺麗な男を心虚ろにじっと眺めた。


「今までありがとう。卒業だからもう会えなくなるけど元気でいて。……そして、もしどこかで偶然会った時は笑って下さい」


何のドラマだ。


このセリフだけを聞いたら。

お互い胸に着けている造花の花だけを見たら。

なにか悲しい別れなのかと思うじゃないか。


でも、今目の前にいる彼は、あの時と違ってにこやかに笑いながら、澄み切った瞳で私を見つめていた。

“そして”という接続詞が好きで、よく使っている男の子。

普通の高校生は、そんな固い接続詞を会話の中で使わないんだよ。とか馬鹿な事を考えながら、最後になるかもしれない彼の顔をじっと見つめた。


私の視線に気づいたのかふわっと笑ってくれる。

その律儀で忠実なところが好きだ。

あの時、彼が高校卒業まで……と言ったから、今日ですっぱり綺麗に終わりなんだろう。


一年ほど前はあんなに私の事を好きだと示してくれていたけど、最近はそんな事もなくなって義務のように一緒にいてくれた。


彼からしたらここで恩返しがやっと終了で、高校卒業と同時に終わる事が出来て、もはやせいせいしているのかもしれなかった。

律儀で、人にしてもらった事はちゃんと返さないといけないと、その信念の柱を心の真ん中にずっしり立てているような人だった。



私はこの人ほど心が綺麗で、優しい人間を見たことがなかったから。

あっさり別れを告げられたこの瞬間、自分の中の彼の綺麗なイメージがほんの少しだけ欠けた気がした。

そんな自分に随分勝手なもんだと呆れた。


十分優しくしてもらったから、一生の別れを告げられることに文句も何もない。

じんじんと音を立てて傷む胸は、笑顔と一緒に消えたような気がする。




――彼と仲良くなったのは、高校2年の秋だった。


同じクラスだったけど話した事は数えるほどしかなかったし、クラスでも騒がれた存在の彼との接点なんて作りようもなかった。


それに私は中学の時から付き合っている他校の彼氏もいるし、わざわざ女の子に反感を買ってまで彼に近寄る必要がなかった。


城山万里しろやまばんりくん。


ふわふわの栗色の髪、少し垂れ目で、透き通ったような肌。

背の高いすらっとした体型に、控えめな甘い香りがよく似合う。

毎日女の子から声を掛けられては、笑顔で受け答えをしているモテる人。


ずっとそんな印象だった。



その日は台風が来ていて、お昼からは叩きつけるような雨が降っていた。

朝降ってなかったのにやっぱ降ってきた、最悪だぁ。

私は天気予報を見てビニール傘を持っていたから大丈夫だけど、周りには持っていない人も何人かいるようだった。


放課後になって、靴箱に行くと、城山くんが外を見ながらじっと突っ立っていた。

何人か女の子に声をかけられている。


「万里くんっ。傘ないの? 私の傘で一緒に帰る?」

「あぁ、ありがとう。でも人待ってるからいいんだ。ごめんね」

「そっかぁ……。じゃあまた明日ね、ばいばいっ」


私は自分のビニール傘をぶらぶらとしながら、その様子をじっと見つめた。

彼はそのやりとりを何回か繰り返しながら、絶望しきった顔で外を眺めている。



本当に人と待ち合わせなんてしてるんだろうか。

それにしては、校舎の方を全然見ないし、どしゃぶりの外ばかりを見ている。


女の子と一緒に傘に入るのが嫌なのかな。

よく分かんないけど、モテ男はそういう事がうっとうしいのかも。



でも、彼が教室で今日は五時からバイトだって言っていたのを耳に挟んでいた。

今は四時。

そのままクラスメイトを放って通り過ぎる事ができなくて、つい声をかけてしまった。


「城山くん」

「え? ああ、えっと、西野さん? どうしたの?」

「これ。私折り畳みも持ってるからどうぞ」


ずいっと安物のビニール傘を差し出すと、城山君は困った顔で私と傘を交互に眺めた。

名前もうろ覚えでしか認識されてないのに、声をかけない方が良かったかなと少し後悔したけど、もう引き返すのもめんどくさかった。


「え。でも、いいの、……かな?」


やっぱり。

傘は受け取るんだね。

彼は好意に甘える事じゃなくて、なぜか女の子と帰るのが嫌だったらしい。


「大丈夫。私折り畳みもあるし」


本当はないけども。

なんで自分がこんなおせっかいを焼くのかは分からなかったけど、雨に絶望したような彼が捨てられた子犬のように可哀想に見えたからかもしれない。


でも、今からは私が雨に絶望しなきゃいけないんだけど、それは後から考えよう、私は家に帰るだけで用事も何も無いし。うん。


「ありがとう。このお礼はまたするね」


爽やかな笑みを携えてホッとしたような顔をする城山君に、にこっと笑って手を振る。

彼は長い脚で大きな一歩を踏み出して帰って行った。

それを後ろから見送りながら、はぁっとため息をついた。



その後、三十分くらいそこで途方に暮れていたけど、たまたま通りがかった先生が学校の傘を貸してくれてやっと帰ることができた。

次の日、城山くんは、晴れだったにも関わらず綺麗に拭かれたビニール傘を、私の席まで持ってきてくれた。


「これ。ありがとう。昨日は本当に助かった」


「うん。いいよ」と軽い返事を返すと、彼は嬉しそうに笑ってから自分の席に戻って行った。

こっそり渡しに来たところを見ると、昨日誘ってきた女の子たちがいる手前気まずかったのかもしれない。

彼の生きにくさが可愛らしくて、笑いそうになった。


女たらしだと思ってたけど、本当は違うのかもしれない。

割といい人なのかもしれない。



でも、私のおせっかい作戦は、最悪の形でバラされた。

昨日傘を貸してくれた数学の先生が、三限の授業で堂々とバラしてくれたのだ。


「おい、西野~。お前今日傘返しに来いよ~。お前ら台風の日くらいちゃんと天気予報見てこい。もう次からは貸さないぞ~」


私には軽くそう告げて、後はみんなに向けて小言を発した。

先生は私の他にもたくさんの人に傘を貸したのかもしれなかった。



私はしばらく両手で顔を覆った。

先生が次の話題に移ったのを確認して、ようやく顔から手を離す。

気まずいながら、城山くんをチラッと見ると、じっと私を見ていた。


あーあ、バレちゃった。

私かっこわる……。

彼の顔を見た瞬間、恥ずかしさのあまり、ぷいっと顔を逸らしたけど、彼の視線はしばらく私に向けられていた。


休み時間になると、人が多いのも気にせずに、すぐに私の席まで彼はやってきた。

傘を返すときはあれほど息を潜めてこっそり来ていたのに。

席を立とうとする私を逃がすまいとするかのようなスピードだった。


困ったようにヘラヘラと笑った私に、彼は眉を下げて立ちつくした。


「ごめん。気付かなくてごめんね」


ああ。そんな顔をしてほしかったわけじゃないのに。

厚意でした事だったけど、逆に気を遣わせてしまった。


「謝らなくていいよ。ただ私がしたくてした事だから」

「……そんな優しさ気付けないよ」


しゅんとしてしまった彼に、優しく笑いかけた。


「気付かないようにしたかったんだから。気付かなくていいんだよ」

「どうして?」

「え、どうしてって……。気を遣わせるだろうし。私は昨日急いでなかったから全く問題無し」


はっきりそう言うと、信じられないものでも見るように、私をじっと見てきた。


「人としてすごく上の位置にいるんだね。見習いたい」


彼はどこを間違ったのか、ただドライな私を尊敬したみたいだった。


私は次の美術の時間に驚く事になった。


「いたっ」


彫刻刀を使って版画をしていると、彫刻刀が勢い余って指を傷付けてしまった。

人差し指からすっと血が出て、思わず声をあげてしまう。

隣の席の女の子が「大丈夫?」と声をかけてくれる。


「先生っ。西野さんが怪我しました!」


女の子が美術の先生に声をかけてくれて、先生は慣れたように私の傷を見て、手を水で流してきなさいと言ってくれた。


さっきも二人手を切っていたから、彫刻刀を使う授業では珍しくないんだろう。

私はのんきに席を立って、教室から出て行こうとすると、出口に近い城山くんが私をじっと見ていた。


教室から一番近くの水道で手を流していると、隣に気配を感じて振り返る。


「え? どうしたの? 城山くんも指切った?」


そこには城山くんがいた。

今までほとんど喋った事もなかったのに、今日はよく話す日だなぁ。

そんなくらいにしか感じてなかった。


「手大丈夫?」

「あ、うん。私は大丈夫だよ。ちょっと切っただけ」

「これ。ばんそうこう持ってたから。つけてた方がいいよ。それか保健室まで行く?それなら付いて行くけど」


今まで友達でさえなかったのに急に変わった対応に首を傾げると、城山くんが困ったように眉を下げて笑った。


「迷惑だったらやめておくよ」


そう言って、ばんそうこうを私に手渡して教室へと歩いて行くもんだから、その後ろ姿につい声をかけてしまう。


「あの、ありがとう。ばんそうこう、すごく嬉しい」


城山くんはまた後ろに振り返って、私を視界に入れて、綻ぶように笑って見せた。

元が綺麗すぎて冷たくさえ見えてしまう彼が笑うと、まさに花が咲くように見えるほど素敵だった。




ただ、傘を貸しただけ。



それだけなのに、彼はその後ずっと私に一緒にいるようになった。

ずっと、と言っても、彼が近寄ってきた時だけ一緒にいるんだけど。



だいたいが人の少ない時や放課後ばかり。

その理由は、彼と一緒に帰った女の子がその後いじめられた事にあるらしい。


だから、あの時かたくなに傘に入ろうとしなかったんだ。

だから、あの時ばんそうこうを教室で渡さなかったんだ。

彼を思い出すと、色んな気づかいに溢れていて、その律儀で優しすぎるところはいいなと思った。

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