過去が追いかけてくる
理人さんを会社に送り出して、クラブに向かう。自室に置いてある洋服などはそんなに多くはない。
けれど、なんとなくすべてを理人さんの家に持っていく気にはなれなくて、毎回こうして取りに来たり、置きに来たりする。一回純さんにもお礼言わなきゃいけないと思っているのに、まだこの早い時間じゃ彼は見当たらない。
しんとしたクラブに鍵を開けて入る。
自室で服を整理して詰め込んで、何もないコンクリートの部屋でしばらくぼーっとした。
ここ。引き払おうかな。そんな考えが頭をよぎる。
理人さんの家だけで暮らしてもいいかもしれないと、甘い考えが頭を支配する。それはもうちょっとしてから考えよう。
とりあえずじめじめした空間から出ようと外の扉を開くと、寒い風が吹く。荷物を肩に掛けて、歩こうとすると、ぐいっと肩を引っ張られた。
「彩芽。久しぶりだなぁ」
見なくても分かった。男の声にぞっと寒気がした。思わず振り返ると、懐かしい顔。
今までターゲットにした男の中で一番厄介で、一番ぼろぼろに傷つけられた人。この人のせいで体は痣だらけになった。
姿を消した後もここを突き止めて、たまにクラブに顔を出しては私を探していたらしい。ストーカーのようになっていた。
純さんに気をつけろって言われてたのに。
だけど。
今になって思う。
乱暴なこの人に傷だらけにされた事ばかり恨んでいたけど、お金はくれたんだ。二百万も。
乱暴だったけど私のことは好きでいてくれた。それは執着だったのかもしれないけど、それでもこの人なりには真剣だったと思う。もっと最低なのは私だ。
利用して、嫌になって、金だけもらって逃げた。最低な女。
ようやく自覚したせいで、私は被害者じゃなくなった。この男だって私よりもよっぽど被害者なんだ。そう思うと、振り払って逃げる事もできなくて、肩を掴まれたまま呆然と立ち止まった。
男が不思議そうに一瞬首を傾げる。逃げないのをどうやら不審がっているらしい。
「彩芽。久しぶりに会えたなぁ。まだ男から金搾ってんのか?」
口の悪い人。
元々口が悪かった。不動産の仕事をしていて、かなりワンマンな社長のようだけど、それでも仕事においてはかなり優秀で、儲けている金額だって半端じゃなかった。
だけど、この男はとてつもなくケチで、私が要求した三百万をチビチビと二十万ずつ渡し続けて、結局二百万の段階で私が挫折した。SM好きなのか、ただの乱暴者か分からないが、この男にボロボロにされて、初めてお金を稼ぐって難しいって思った事を覚えている。
「いきなりいなくなってごめんなさい。頂いた二百万はすぐ返します。銀行から下ろせばお金はあるんで」
「俺が二百万ごときでお前を追いかけまわしていると思ってんのか? 馬鹿にすんなよ」
「……ごめんなさい」
怖い。
純粋にこの男が怖い。ガタイも大きくて、力じゃ到底敵わない。簡単にひねりつぶされそうで、私はきっと今とてもビクビクした顔をしているんだろう。
「逃げられっぱなしじゃ気が済まないんだよ。俺が呼びだしたら今後すぐに来い。絶対だからな」
「……………」
「返事はねぇのか? ん?」
舐めまわすような視線を避けるように俯いた。手が小刻みに震えているのは寒さのせいじゃないことなんかとっくに知っている。
「……はい」
「携帯の着信拒否解除しとけよ」
「はい」
「ん。いい子だな」
一瞬優しく男が笑う。そうだった。この人も出会ったときはとても優しかったんだ。本当に優しくて、世界が広くて、大人だった。この人をこんな風にしたのは私か……。
私が騙したからいけないんだね。
男が去っていくのを見つめて、姿が消えてから踵を返した。理人さんの家に飛び込むと、暖房もついていないのに暖かかった。リビングに入ってふかふかのソファに寝転ぶ。
持ってきた鞄を床にどすんと置いて、足を抱えて転がった。
涙が溢れだす。次から次へと溢れた涙は、そのうちこめかみを通って髪の中へと消えて行った。
ここは温かすぎる。
優しい雰囲気で満ちていて、置いているものすべてに温度が通っているような気がする。理人さんの優しい匂い。
なんで私はこの人と普通に幸せになれないんだろう。やっぱり生まれながらに不幸な人はずっとずっと不幸なんだろうか。
一瞬幸せを味わったって結局は不幸に戻らないといけないのか。あんまりじゃないか。
幸せと不幸と半分半分でいいじゃないか。
どうして、こんなに生きていくのが苦しいんだろう。今までしてきた最低な行為の報いを今受けている。分かっている。だけど苦しい。
涙が零れる。静かに声も出さずに泣きながら、理人さんを想った。
理人さんが帰ってくる頃にはそれなりに気持ちの整理がついていた。笑っておかえりと言えるくらいには持ち直していた。
「ただいま」と何とも言えない嬉しそうな笑みを私によこしてくる。手間をかけて作ったロールキャベツを温めなおして、炊き立てのご飯とサラダを用意した。
理人さんと一緒に食べる。
彼は私の風邪の事をすごく心配していたけど、すっかり熱も下がったというと、まだ薬だけは飲んでおいてねと釘をさして、書斎へと入って行った。
仕事をするのだろう。
食事の片づけをして、お風呂に入って出てくると、理人さんがベッドに座っていた。
「もうお仕事いいの?」
「うん、今日はもう終わり。学会も終わったからね、これからはそんなに忙しくないかも」
「そっか。お風呂入ってくる? そしたらお話しよ」
彼は嬉しそうに頷いた。お風呂に送り出して、私は髪を乾かす。ベッドに座って彼が読んでいる難しそうな経済の本をパラパラと読む。
理解ができない。
本に影が差して顔をあげると、理人さんが覗き込んでいた。
お風呂から出てきたらしい。
「そういうの読むの?」
「ううん、読まないよ。知ってるでしょ」
ふふっと笑われて、ムッとする。そんな私の頬をなだめるように撫でてきた。「そんなの読まなくていいよ」と優しい声が帰ってきて、なんて言っていいか分からずに俯く。
私はこうして優しくされたときに、どういう反応をすればいいのかいつも分からない。照れてムッとした顔をしてしまう。
「そうだ。ずっと言おうと思ってたんだけど、彩芽今はずっと家にいるでしょ」
「うん」
「仕事もやめちゃって、家にいてくれるけど、なにかしたい仕事とかないですか? もしなにかあるなら協力するし、僕は社交的じゃないからそこまでコネも持ってないけど、それでも知り合いに当たって探す事もできますから」
ぽかんとする。
彼がいきなり言いだした言葉にパチパチと瞬きしていると、理人さんが返事を待っているのかじっと顔を見つめてくる。
「え、あ、働いた方がいい?」
「あ、いやそういう事じゃなくて、なにか夢とかそういうのがあるなら応援したいなと思っただけで」
「んー、……特にない、かな」
「そうですか。あ、それか大学に行きたいとかでもいいですよ。専門学校とかでも」
「理人さんは働いてたり、大学を出ている方がやっぱりいいの? 恭子さんみたいに優秀で自慢できるような彼女がいいの?」
じっと見つめると、虚を突かれたような顔をした。間違った事を言ったのだろうか。理人さんはいい家に生まれ育ったんだから、相手の女性に求めるものだってあるだろう。せめて大学くらいは出ているのが常識なのかもしれない。
「誤解させてごめん。そういうつもりじゃなくて、ただなにか手助けがしたかっただけで。そんな事を彩芽が望んでないなら忘れてくれていいです。ただ、家にずっといるのも窮屈かなって思ったもので」
「……うん。窮屈じゃないからもう言わないでいい」
むすっとしながら言ったのに、彼は機嫌を悪くするどころか、ぱぁっと花が咲くかのように明るい笑顔を見せた。
「……なんでそんなに嬉しそうなの」
「いや、僕はできれば彩芽にずっと家にいてほしいと思ってたので。でも、今日仕事の合間に、今も家にいるんだよなと思うととても可哀想な気がしてきて」
「……そんな事思わなくていいからちゃんと仕事して」
「はい」
理人さんがかしこまって頷く。
「でも、私のこと考えてくれてありがとう」
むすっとした顔をしていたのに、思わず笑い声が漏れて、彼も一緒になって笑った。
「彩芽、いつも家の事を色々としてくれてありがとう」
「ん?」
「ご飯ももちろんそうだけど、お風呂のタイル一つも最近はとてもピカピカで、いつだってベッドのシーツは洗い立てで、多分僕がまだまだ気付いていないところも彩芽は綺麗にしてくれるんだと思うけど。君のおかげで家が大好きになりました。ありがとう」
ぐっと涙が混み上がってきた。
理人さんのことが好きで、好きでたまらなくて胸が苦しい。
家事や掃除などを苦に思った事なんて一度もなかった。彼が根付く場所にいられるだけでとても幸福。
だからそんな言葉はもったいない。
心の中は温かい気持ちで溢れているのに、素直じゃない私はまたムッとした顔をしながら照れ隠しをする。
「理人さんはすっごくいい旦那さんになるね」
「そんな事ないですよ。彩芽に出会うまではものすごくつまらない男だったので。あ、今も彩芽にとってはそうかもしれないけど」
「ううんそんなことない。すごく素敵だよ」
「ありがとう。さっきの話ですけど、僕は彩芽が高卒だって気にしないし、例えば中卒であったって、犯罪者になったって、きっと好きです」
犯罪者。私はカテゴリー分けするときっと、犯罪者になるんだろう。
「そんなのウソだよ。世界中が敵になっても僕だけは味方ってやつ? 私そういう綺麗ごと信じないタイプなんだ」
「……そうですか。でも本当の気持ちです」
理人さんがほんの少し悲しそうな顔をする。
言いすぎたかと思ったけど、それでももう言い改める事はできなかった。
理人さんが好きなのは、嘘の私だ。可哀想な生い立ちの被害者である私が好きなんだ。本当の私は被害者なんかじゃない。
だけど、また魔が差す。こんな風な優しい台詞を吐く理人さんに、本当の事を告げたらどうなるだろうかと。
彼なら許してくれるんじゃないかとそんな風に誘惑される。
優しさが取り柄な彼は、本当は包容力もあって、意志がしっかりしていて、そして思っていた以上にもっと優しい人だった。
だけど、言えるわけがない。
三百万を返してごめんなさいと懺悔はできても、彼はきっともう私を好きのままではいてくれないだろう。赦してくれても好きではいてくれないだろう。
未来が怖い。だから、私は自分を追い詰めるように次の話題を探した。
「ねね、恭子さんとの話聞かせてよ」
なるべく明るい声を意識した。
「え? 恭子?」
理人さんが訝しげに聞き返してくる。
それにうんうんと何度か頷いても、何となく気まずげな理人さんは顔がひきつっている。
「私、恋人の過去の話とか割と知りたいタイプで」
「そうなんですか?」
「うん。どういう恋愛してきたのかなって知りたくなっちゃう」
嘘だ。本当はこれっぽっちも知りたくない。
理人さんがどうやって恭子さんを愛してきたのかなんて欠片たりとも知りたくなんてない。
こんなにやさしい男があの気の強そうな美人をどうやって愛したのだろうとか、どんな風に抱いたのだろうかとか、こうしてベッドに寝そべりながら仕事の話でもしたのだろうか。
そんなことを想像するだけで胸が軋む。
だけど、今は自分を追い詰めていないと冷静でいられなかった。舞い上がって期待してしまう自分をいじめてしまいたかった。
「なら、いいですけど、でもそんな素敵な話はないですよ。元々僕と恭子は親に決められた婚約者っていうのは話しましたよね」
「うん」
「随分幼い時から決められてたんですけど、僕が大学に行っている時のパーティーで初めて出会いました」
「パーティー?」
「あぁ、うちの創業五十周年とかいう大きなパーティーで、そこに当時同じく大学生だった恭子が来てたんです」
「ふうん」
「そこで親に紹介されて、将来結婚する人だって言われたっていきなり受け入れられるわけもなくてね。恭子も複雑そうな顔をしてました」
「……うん」
私とは違う世界。
とてもきらびやかだけど、その中ではやっぱりみんな苦労しているんだ。
「適齢期になればお見合いして何度か食事して結婚という予定でしたが、僕は嫌だったから。まぁ若かったんです。初対面のパーティーで恭子にデートを申し込みました」
「え?」
「いきなり結婚なんて嫌だから普通に恋愛してみませんかって言ったんだ。そしたら恭子がデートを受け入れてくれて、だんだんと付き合うようになった感じです。僕は自分に自信が持てなかったから、強くて自信のある恭子に惹かれて。恋愛として好きだったかは今になって思えばよく分かりません。人間的魅力を感じたんです」
胸にぐさっと鋭利なものが刺さる。そんな事聞きたくない。
だけど、私が笑顔を貼り付けて頷くものだから、理人さんは気付かない。気付かないでいてくれていいんだけど、だけど本当は聞きたくないんだ。
私って本当にうっとうしい女。
「……やっぱりこんな話やめよっか?」
「え?」
「彩芽、辛そうな顔してるから。ごめんね」
理人さんが心配そうに見つめてくる。それから目を逸らすようにして、ベッドにうつぶせに顔を埋めた。
「うん。そこまででいいや」
ぽつりと何でもなさそうにを心掛けて呟いた声は、思ったよりも沈んで聞こえた。一瞬シンとした空気が流れる。気まずい。
顔を上げてにこっと笑って、「やきもち妬いちゃった」って軽く言えばいい。そう言えば「ごめんね」って理人さんは謝って抱きしめてくれる。
だけど、顔を上げることはできなかった。
「彩芽、恭子には悪いけど、僕は彩芽以上に好きになった人はいません。前後不覚になるほど誰かに夢中になった事もないんです。僕は仕事が大事で、昔は勉強が大事で、それと両立できるくらい、いや、それより後回しで女性と付き合ってました。意識してそうしたというよりは、恋人よりもそっちの方が自分の中で大事でした。それが当たり前で自分はそういう理性的な人間なんだと思ってました」
理人さんの言葉。
きっと落ち込んだ私を慰めようと必死で喋ってくれている。
「でも彩芽といると自分が分からなくなります。自分はこんなにも少しの事で浮かれたり、頭がいっぱいになったり、我慢のない人間だったのかとか思って落ち込むときもあります。でも、こんなにも人を好きになれた事が嬉しいです」
「…………」
「世界で一番愛してます。君だけです。僕にとってこんなに気持ちが動くのは、きっと一生のうちで君だけです」
ぶわっと涙が溢れた。
彼のそばは温かくて、陽だまりのようにぽかぽかする。
「理人さん、ごめんね」
「ん?」
「好きになってごめん」
思いが溢れた。
肩を震わせて泣く私を理人さんがゆっくり抱き留めて、「なんでごめんなんて言うの。ありがとう、彩芽」と優しくなだめてくれた。
涙が止まらない私は、それでも結局自分のすべてを話す勇気はでなかった。
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