蜜月の寿命
家に帰ると、私が放置していた晩御飯たちがあった。
「あ、えと、ごめん。今更だけど、理人さん、ご飯食べる?」
「ご飯? 彩芽が作ってくれたの?」
理人さんはネクタイを外しながら、キッチンを覗き込んでくる。びっくりしているのか目をパチパチさせているのがなんていうか可愛い。
「ハンバーグ、だけど……」
「食べる! 食べます。食べたいです」
子供みたいに必死に言う理人さんに笑う。
彼は我に返ったのか苦笑して、それから着替えてきますとおずおずと消えて行った。
その間にフライパンに火をつけて、ハンバーグを焼く。
あ、そうだ。理人さんのほっぺ冷やさないと。
冷凍庫を開けると、保冷剤があったからそれをタオルでくるんだ。
「理人さん。これ、冷やしといて。腫れちゃうかもだし」
「あ、うん。いいけど、ありがとう」
理人さんがキッチンまで来る。
それを受け取ってくれて、私はフライ返しでハンバーグをひっくり返すと、後ろからぎゅっと抱きしめられた。
「恭子のことごめんね。色々嫌な思いさせたね」
「……そんなのもういいよ。そんな事言っちゃうと私だって謝らないといけないこといっぱいあるし」
「好きだよ。彩芽がいるなら僕はそれだけでいい。彩芽以外は全部その他のことなんだ」
「うん」と頷いた。嬉しくてたまらなくて。理人さんが私を好きなことが嬉しくて泣きそうで。まだ早いのにフライパンの蓋を開けて、ハンバーグをつついた。
「理人さん、邪魔なんだけどぉ」
「え? 邪魔?」
「もう。分かってるくせに」
後ろからぎゅっとしたままずっといるから、振り返りながら文句を言う。とぼけた顔をした理人さんに文句を言っていると、ちゅっとキスをされて、思わずその誘いに乗ってしまう。
後ろに体ごと向いて、キスを交わす。なんとなく久しぶりの気がするキスに眩暈がしそうになる。
そのうち舌が入ってきて、ハンバーグも気になるのに、応えるように彼の服をつかんだ。理人さんが一層強く腰をきつく抱いてきた途端、部屋に電子音が響き渡った。
唇を離して見つめあう。
フッと笑って離れると、理人さんがテーブルの上に置いてあった携帯を手に取った。
「はい、茅島です。はい、はい。……あぁ、それはあと二時間だけ置いて、それから隣のと混ぜるんですよ。うん」
どうやら仕事の電話らしい。蒸らしていたハンバーグを焼きあげてお皿に移す。冷蔵庫からサラダを出して、温めた味噌汁をお皿に入れると、彼がようやく電話を終えた。
テーブルに料理を並べ終えて一緒に座る。
「仕事忙しいの?」
「うーんそろそろ大きな学会があってね。その発表があるから」
「へぇ、学会か。難しいの?」
「ふふ、どうだろうね。でも次の学会は研究発表があるから結構重要で昇進もかかってたりするんだよね」
手を合わせて、二人で食べ始める。
おいしいとかすごいとかを無駄に連呼する理人さんに笑いながら、ハンバーグを食べた。
「でも、理人さんは経営者側なんだから昇進とか自由じゃないの?」
「……あぁー、いや、普通の人と同じように扱ってもらってるよ。さすがに入社試験はなかったけど」
「えぇ、そうなんだ。なんで?」
向かいに座る理人さんに聞く。彼は私の質問に困ったように目を泳がせて、一瞬開いた口を閉じた。
「あ、言いたくなかったらいいけど」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
「うん」と一度彼は頷いて話してくれた。
「僕には二人の兄がいるんだけどね」
話し始めはこうだった。そして、私はその情報を彼と出会う前から知っていた。ターゲットを調査する上で調べた情報。茅島製薬とネットで検索すれば、何もかもすぐに出てきた情報だった。
二人の兄。
十歳上の長兄と、七歳上の次兄。彼は末っ子で、だけどだからと言って甘やかされて育ったわけではないらしい。
「両親は三人の息子にそれぞれ経営に関わることを期待していました。二人の兄はその期待に応えて、今は経営陣に加わっています」
「うん」
「けど、僕は薬には興味を持ったけど、経営うんぬんはさっぱりで」
「薬に興味を持つのはいい事じゃないの?」
「そうだね、普通はいいのかもしれない。でも茅島は大きくなりすぎて、正直トップのほうは薬のことを知らなくたってやっていけるんだ。それよりも必要なのは交渉力、決断力、他社への営業、海外での交流」
なるほど。確かにそうかもしれないね。
茅島製薬ほど大きくなれば、新薬の研究は研究部門が勝手にするかもしれない。必要なのは会社を経営する力というわけか。
そして、理人さんにはそれがなかった、……もしくは興味がなかった。
「だから僕は家族では役立たずなんです。結局研究者たちに混じって新薬の研究ばかりして。仕事は好きですけどそれが後ろめたくて、実家にも帰ってないんです。就職をしてから帰ったのは何度かしかなくて。父とはそれこそ何年も顔を合わせてません」
なるほど。だから、婚約解消も伝えてなかったのか。
気持ちはわかるけど、だからってそんなに後ろめたく思う必要なんて全くない。
だって。
「理人さん、今の肩書なんだっけ」
「ん? えーっと、研究部門第一部だけど」
「平社員なの?」
「いや、係長です」
二十八歳で係長。早すぎるそれは明らかに年功序列からは外れる。茅島製薬は実力主義を掲げていて、年齢など関係なく、成果を上げたものが出世をしていく会社で有名だ。
外国的ともいえる社風で理人さんがそんなに出世をしているのはちゃんと実力があるから。
「それが理人さんが頑張ってきた結果でしょう。入ったときはコネだったのかもしれないけど、そこからは理人さんが努力してきたからだよね。お父さんもきっと分かってるよ」
「どうだろう。身内に厳しい父親がどう思ってるのかは、」
「じゃあもっと頑張ろう。お父さんに認めてもらえるように努力して、会いに行こう? それでもさ、お父さんが認めないって言うならもういいよね。私がずっと理人さんすごいって言ってあげる」
安心させるように笑っていると、理人さんが目を見開いた。
びっくりしているらしく、理人さんはしばらく黙って、そしてじわりと涙を滲ませた。
「彩芽はほんとに僕の女神みたいだ」
「……大げさ」
「ううん。君の考え方は僕にはなくてただただ尊敬する。くじけそうになるといつだって君を思い出す」
それはあなたが私を好きだからそう思うだけだろうと思ったけど、脳まで恋愛でやられている男に何を言っても無駄だろうと諦めた。
「もっともっと努力するよ。それで正々堂々と父に会いに行く」
「うん。それでいいと思う。そうしよう」
私が頷くと、彼は嬉しそうに笑った。
でもきっとそんな事しなくたって。
大して揉めることもなく、研究部門に入れてくれているんだから、お父さんはなんだかんだで年の離れた息子が可愛いんだろう。テレビで見た長男は苦労を顔に滲ませていて、そして深みのある男になっていた。
理人さんは違う。おっとりとした性格に、穏やかそうな雰囲気。まぬけにも見える機敏さのない顔。
彼が苦労してこなかった事実を物語っている。
そういう事なのだろう。きっと彼はとてもかわいがられて育ったのだろう。だからそんなにも素直にまっすぐ、人の目を見るんだ。
「彩芽がそばにいてくれて本当にうれしい。励ましてくれてありがとう」
「ううん」
彼が笑う。私もそれに笑い返しながら、返そうとした言葉を封印した。
これから先、どんなに彼と関係を深めても、時が経っても、私と彼の関係は期限付きだ。いつか嫌いになられて終わる。肩書もない私を好きになってくれたのはすごく嬉しい。
けど、向こうがどれだけ信頼してくれたって、私は同じ信頼を返せはしない。深入りしてはいけない。彼をこれ以上好きになってはいけない。
そう強く警告するのに、私は彼の引力に逆らえずに、ゆるゆると笑みを作った。
「ハンバーグおいしい?」
「うん。こんなにおいしい手料理を食べたのは初めてだよ」
「色んな手料理食べてきたんだね。へぇー」
「あ、彩芽。そうじゃなくて、僕はただ」
「理人さんってモテるんだろうね。恋人何人いたのかなぁ」
「僕は別に、彩芽にモテていればそれだけでいいから」
「じゃあ、他の人には弱いところ見せないでよね。恭子さんにも」
わざとツンとしたそぶりを見せると、理人さんが慌てたように頷く。「もちろんだよ、彩芽だけだよ」と何度も繰り返す男に、たまらなく愛おしくなる。
苦しい。胸が苦しい。
「理人さん、胸が痛い」
「え? どうしたの? 大丈夫? ベッドで休む?」
心配そうに席を立ってまで覗き込んでくる男に、涙がまたじわりと滲んだ。この人が一生私のものであればいいのに。
そうしたら優しくするし、私も絶対他の人によそ見なんてしたりしない。毎日ここで料理だけ作って待っているのに。そうするのに。
理人さんは結局私の手には入らないんだ。
ぎゅっと抱きつく。
「彩芽? どうしたの?」
何も言わないままでしがみつくように抱きついていた。
彼はそのうち私から聞き出すのを諦めたのか、赤ん坊を慰めるように髪の表面を撫でた。
「彩芽、愛してるよ。好きだよ。ずっとそばにいてくれればそれだけでいいからね」
涙がこぼれて彼の肩に消えた。
彼の言葉にはいつだって温度が宿っていて、私の凝り固まった心をほぐすようだった。狂おしいほどの愛情に耐え切れずに、私は彼の首を絞めるほどきつく抱きついた。
だけど、彼は文句を言わなかったし、そのあと見つめあった後は蜂蜜みたいなキスをくれた。
「彩芽。ベッド行く?」
「キッチンで洗い物しなきゃ」
「そういやキッチンでした事はなかったね」
「そういう意味で言ったわけじゃ、」
「ふふ。必死になってるところもすごく可愛い」
「理人さんって思ったより性格悪い」
「好きな子はいじめたくなるんですよ」
「……思ったよりエッチだし」
「それは、男ですから。彩芽が可愛いのが悪い。ベッドに連れて行ってもいい? 洗い物は後で僕がやる」
「……いいよ。早く」
彼は楽しげに笑う。不幸なことなど何もないような顔をして、きれいに笑みを作った。
私はその笑みに吸い込まれるようにキスを返して、二人でベッドに潜り込んだ。
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