親友からの贈り物
まだ五メートル以上離れた距離。
何を話せばいいか分からなくて、ドキドキする。
呼吸が浅くなった胸を抑えていると、プップッとクラクションが鳴らされた。
とっさに車を見る。
「明穂!」
吉村の声が、しんとした道路に響いた。
「ここ道狭いから早く乗れ」
続いて発された言葉は、ちゃんと聞き取れたか定かじゃない。
吉村の車から、恐る恐る目を離した。千里を見る。
心臓がドクドクと暴れ出す。ぎゅっと爪が食い込むほど手を握り締めた。
ゆっくり振り返った先の千里は、完全に立ち止まって私を見ていた。
その顔はこの世のものではないものを見るかのように怯えた顔をしていて、吉村の声を聞かれてしまった事実を知った。
「おい明穂! 早く乗れって。後ろから車来る」
千里の存在に気付いていない吉村が、私を急かす。
どうしよう。
分からない。何がどうなってる?
頭がぐちゃぐちゃになって、脳はさっきから警告音を鳴らし続けている。
棒のように固まった足を動かして、吉村の車へと歩き出した。
その瞬間、ピタリともせず固まっていた千里が歩き出す気配がして、慌てて早歩きになる。
だけど、千里はそのうち小走りから、走るようになり、しまいには私との距離は一メートルほどになった。
ようやく吉村は千里に気付いたらしく、「……あら」とのんきな声を出した。
一体この人はわざとなのか、本当に気付かなかったのか、どっちなのやら。
千里の顔を見る。
顔は完全に強張っていて、私を見る瞳は震えていた。
「…………明穂?」
身体がぶるりと震える。
あからさまに震えた私に気付いたのか、千里が私に手を伸ばそうとする。
ダメ。胸が痛い。心臓が破裂しそうなほど痛む。
息が止まりそうなほどの心臓の締め付けに我慢できなくなった私は、千里の手が届く前に走り出した。
逃げたって意味はない。
意味はないのに、それでもあのまま千里に捕まるわけにはいかなかった。あのまま捕まっていたら、きっと心臓がとうとう破裂していたに違いない。
涙腺が弱まって涙が込み上げる。
滲んだ視界のまま、走り出す。
奥には教員駐車場しかなく、行き止まりだと知っていたくせに、完全に頭から抜け落ちていた。
走り続けて、駐車場が見えてくると、自分のミスに気付いて立ち止まった。
その瞬間、腕を存外強い力で締め付けられた。
バッと振り返ると、息を切らした千里が、真剣な顔でこっちを見ていた。
「……佐々木さん。明穂、ってなに?」
「…………」
「明穂ってなに。どういうこと」
「…………」
喉が乾燥して張り付いて言葉が出ない。
唾を必死に飲み込もうとしても、ひりひりと喉が痛むだけだった。
千里が”明穂”と言葉にする。
それは魔法のような力で、私を虜にした。
腕をそんなに握られなくたって、足はもうピクリとも動かず、千里に囚われる。
「明穂ってなにか答えろ!」
怒鳴りつけられて、体がビクッと竦む。
怒った千里は、見たこともない顔をしていた。
いつもの穏やかそうな顔は封印して、眉を吊り上げて怒っていた。
「明穂は、……僕の大切な人だ。一体君がどうして吉村くんに明穂と呼ばせていたのか説明をしてくれ」
まだ明穂だと気付かないのか。まぁでも当たり前かもしれない。
実際、怪奇現象のような話だ。
私が明穂の生まれ変わりだなんて、早々思いつくものじゃない。
「私の誕生日は、七月二十一日。十八年前の七月二十一日」
千里があっけにとられたようにぽかんとして、そのうち気付いたようで顔を強張らせた。
そう。
私の誕生日は、明穂の命日だ。
「な、なんで」
「…………千里」
十八年ぶりに幼なじみの名前を呼んだ。
それは想像していた以上に懐かしい響きがあった。
ビクンと千里は体を揺らす。
信じられないものでも見るような目になって、千里の瞳にじわじわと涙の膜が張っていく。
手をぎゅっと握ってやると、千里はびっくりして後ろにのけぞってしまった。
「千里。ごめんね、置いて行って。ただいま」
自然と笑みが零れた。
泣きそうな顔で笑う私に、千里はわなわなと震えて、大粒の涙をぼろぼろっと流した。
「う、うそだ。明穂だなんてうそだ。だって、明穂は、……明穂はもう」
「……うん」
「僕が一番知ってる! 明穂がこの世にいない事は僕が一番知ってる!」
子供みたいに叫ぶ千里を見る。
腕を掴んで来ていた手をそっと握ると、千里がビクンと身体を揺らした。
「色々事情はあるけど、私は明穂だよ。千里にずっと会いたかったよ」
千里が涙を零しながら、とうとう片手で口元を覆った。
崩れ落ちそうな膝で、必死に立っている千里。
それを見ながら、私は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
破裂しそうだった心臓も、決壊寸前だった涙腺も、普段を取り戻しつつある。
「本当に明穂……?」
千里は怖がるように私の髪の一筋に触れた。
髪に触れたって何もわかるはずがないのに、千里は確かめるように何度も触れた。
繊細な手が小刻みに震えている。安心させるように手を握ると、千里が涙に濡れた瞳で私を見た。
そういや、千里ってこんな感じだった。大人になった千里と会って忘れていたけど、子供の時の千里は、こんな風に、守ってあげたくなるような、そんな存在だった。
「見た目は違うけどね。死んだ時にね、赤ちゃんとして生まれ変わったの。でも、明穂としての記憶全部連れてきたみたいで」
「……え」
「うん。それで前世の記憶のあるまま育った佐々木美亜は十八歳になっちゃった」
茶化して話すと、千里が動揺を隠しきれない瞳を泳がせた。
湿った風が吹く。
明日は雨かなと予想して、吉村を置いてきぼりにしちゃったことに気付いた。
多分空気を読んで、一人で帰ってくれただろう。
こうしてアクシデントという形で明穂だと告げてしまったけど、これくらいの事がないとどうせなかなか伝えられなかっただろうし、良かったかもしれない。
吉村には後で連絡しないと。
色んな事を頭の中で考えている間も、千里は泣きながらじっと私を見ていた。
「明穂?」
「うん。身体は明穂じゃないけどね。中身? 魂? 心は明穂だよ」
ふふっと笑う。
いまだに半信半疑な様子の千里が、困ったように俯いた。
「明穂の弟は?」
「え? 和志?」
「……お父さんの仕事は?」
「散髪屋さん」
「野良猫の名前は?」
「えっと、タマ?」
「中一の時、僕の誕生日に何くれた?」
「……えっと、似顔絵は中二だっけ? 中一は、……あ、サボテンか。枯れかけてたやつ」
千里がうるっと涙をにじませた。
今の質問で何が分かったのか、一歩私に近づいてきた。
「明穂の幼なじみは?」
「……千里」
顔を見つめて言う。
大人になった千里の顔は、涙にまみれてぐしゃぐしゃで、それでも端正な顔は相変わらず綺麗なままだ。
十五歳で千里と別れて、今は三十三歳になった千里。
大人になった。見た目も変わった。
だけど、千里だった。
「千里、久しぶりだね」
にこりと微笑む。
千里はとうとう両手で顔を覆って、嗚咽を漏らした。
「あっ……うっ……うっ……明穂っ」
可愛くなって、可哀想になって、髪に手を差し込んで頭を撫でた。
電流に触れたように体を揺らした千里は、おずおずと手を伸ばして、私の手を控えめに握った。
手を握るというよりかは、指を掴むような動作だった。
「……死にたかった」
「ごめんね」
「でも、…………死ねなくて。会いたかった」
言葉は空間に溶けて消えた。
死ぬほど会いたかったくせに、抱きしめる事もしないで、私の手を控えめに握る。
そういう男なんだ、千里は。
うぶすぎる行動に懐かしささえ感じる。
雨が降りそうな駐車場で二人きり。
「……私も会いたかったよ」
何十年も私を引きずった男が、指を握って泣いている。愛しさで心臓が千切れるかと思った。
千里はしばらく私の指を握ったまま、離さずじっとしていた。
遠い過去、十八年前が戻ってきたような懐かしい気分だった。黙ったままの千里が今何を思っているのかはよく分からない。
違う身体を持った私を、明穂だと受け入れられるかどうかはわからない。
魂が明穂だから大丈夫だとすぐに割り切れるものなのかは微妙だろう。
吉村は案外すんなりと受け入れてくれたけど、まぁあいつは変わってるから別として。
普通信じられることではないし、もし千里が明穂と認めないと言うならば、それは仕方ないと思っていた。
千里へ明穂だと告げるかどうか悩んでいた時から、覚悟を決めていた。生まれた時から何度も何度も自分の存在について悩んだからこそ分かるんだ。
私は明穂であって、美亜であって、どちらでもない。
中途半端な存在なんだ。
だから、千里が認めなかったら、私は佐々木美亜という一人の生徒に戻るつもりでいた。
「……僕はいい大人で、理性もあれば、常識も分別もある」
いきなりしっかりした口調を発した千里。
顔をあげる。
「ん? うん」
「生まれ変わりだとか、前世の記憶を持ったままだとか、普通は信じない。ていうか、そんなの信じられないでしょ」
「うん」
「君の身体はどう見たって明穂ではない」
「そうだね」
千里が言葉をそこで遮った。
また空間を沈黙が支配して、私は困ってしまう。
覚悟は決めていたつもりだったけれど、やっぱり怖い。拒絶されるのは胸にこたえるものがある。
だけど、千里に視線をやると、千里の方がもっともっと辛そうな顔をしていた。
……ああ。
俯いて、唇を真一文字にする千里が可哀想で、握られた手をゆっくりとほどいた。
……そうだよ。
別にいいじゃないか。千里が信じられなくたって。仕方のない事じゃないか。
拒絶を受け入れようとする気持ちが優柔不断に揺らめいた。
手を離すと弾けるように千里が私を見て、慌てて腕を掴まれる。
強引に腕を引っ張られて、目を見開く。
「な、なに?」
「でも、明穂だったら嬉しい……っ」
首を傾げる。
明穂だと思ってくれたのだろうか。認めてくれたのだろうか。
「笑い方も、喋り方も、僕を見る視線の優しさも。言われてみたら、明穂だね」
「……うん」
「明穂……っ」
「……見た目は明穂じゃないけど、ちゃんと千里の幼なじみの明穂だよ。こんな姿でごめんね」
千里が勢いよく何度も首を振る。ホッとして、息を吐いた。
「明穂。ごめん、すぐに見つけてあげられなくてごめん」
「ううん。ううん。……全然、いいの」
中腰になって千里の頭を撫でる。
少しだけ顔を上げた彼は、情けない顔で笑った。
手を離すと、不安そうに私の手が離れていく様をじっと見ている。
弱い人。
十八年間も私無しでどうやって生きて来たのだろうと、心配になる。十八年も放ったらかしにした。
私の千里。
「なんて言ったらいいか分からない。明穂には言いたい言葉がありすぎて。うまく言葉にできない」
「ゆっくりでいいよ」
その言葉の通り、千里はしゃがみ込んだまま、十分たっぷり黙っていた。そして、先ほどよりも少し落ち着いた声で言う。
「……明穂、僕分かった事あるよ」
「なに?」
「明穂以上に好きになれる人はこの世にいなかった」
プロポーズ。
一世一代の大告白。
それに匹敵するくらいの強い言葉をもらった。
何ともなしに真剣に言う千里に、沼の底に落とされそうな錯覚がする。
きっと私は、もう千里から逃れられない。
「ごめんね、千里。ごめん、置いて行ってごめん」
「……違う。会いに来てくれてありがとう」
千里ははっきりと告げると、もう一度私の手を握った。
じっと、じっと、手を握ったまま、黙っていた。
長い時間を沈黙で過ごした後、梅雨らしい湿った雨が落ちてきた。
千里はようやく「帰ろう」と口にして、恥ずかしそうに私の手を引いた。千里の外車に乗るのはこれで二度目だ。
そう言えば、この前も雨が降っていた。
今度は夕立ちではない、梅雨らしい長く続く雨。千里の横顔をチラリとうかがう。
目は赤く腫れていて、すんと鼻をすする仕草は、三十三歳の男には見えない。
そういや今頃気付いたけど、いつも律儀に付けていた左手薬指の指輪はない。結婚していたんだもんね、あれで。
……これから私と千里はどうなるんだろう。
「そういや、吉村に悪い事したな。もう帰ったかな」
「明穂はいつもいつも吉村くんの事ばっかりだね」
え。
運転席を窺うと、ぶすっと唇を尖らせた千里がいる。
「……ごめん」
ぽりぽりと頬をかいて、俯いた。変な雰囲気。
昔の千里と明穂の間には、こんなはっきりと恋愛がにじむような会話はなかった。
もちろん私が意識をしてなかったのもあるけれど、千里だって私にそういう類の会話を振ってくることはなかったと思う。
なんかちょっと照れくさい。
「あ、ごめん。明穂って呼んじゃ駄目かな。今は、佐々木さん、なんだもんね」
「あぁー、別にいいよ。さすがに佐々木の家族の前で明穂って呼ばれると困るけど」
「じゃあ、ご挨拶する時は美亜さんって呼ぶようにするよ」
ご挨拶?
ん?
一体ご挨拶なんていつする機会があるって言うんだ。
まさか結婚するとか考えている?
それはあまりにも気が早いだろう。いや、将来はそうなるのかもしれないとしても、まだ再会したばっかりだし。深い意味はないのかもしれない。
千里の考えている事、全然分かんない。昔は手に取るように分かったのにな。え、いや、違うか。
分かったような気でいたけど、私は千里の気持ちなんて全く持って気付いてなかったし、今は分かろうと必死になっているだけかも。
「千里」
「うん」
「今何考えてる?」
千里がちらりとこっちを見る。
運転しながらだから、すぐに視線を前に戻してしまったけれど。
その一瞬にドキリとする私も正直なんだか。
人が変わってしまったみたいだ。
「……明穂のこと」
「それは、……知ってるけど」
「具体的には、……明穂をこのまま家に送った方がいいのかなとか、僕の家に遊びに来ないかって誘おうかなとか」
ぷつりと途切れた言葉は、抑揚がなくて、千里の感情はいまいち掴みにくいけれど。きっと千里も同じくらい私の事でぐるぐるしているのだろうって事はよく分かった。
「ふふっ」
私が笑うと、千里が拗ねたような顔で、だけど噛みしめるように小さく笑った。
それにしても、この人って。
私の見た目が明穂じゃないとか、明穂だなんて受け入れられないとか、そういう葛藤はないんだろうか。
それとも気を使って言わないだけ?
千里は繊細だし、優しいから、気を使ってくれているのかもしれないな。
「家って、奥さんはもう住んでないの?」
「え、あぁ、貴和子は、あー、元妻なんだけど、離婚したんでね。離婚したから今まで住んでた家、出たんだ」
「そうなの? 離婚は、吉村から聞いてたんだけど」
「あぁ、うん。住んでた家は分譲で購入してたから、そこは元妻に譲ったんだ。慰謝料も何もいらないって言うから、せめて家だけは受け取ってくれって言って」
「じゃあ、今一人なの?」
「うん。そんなに広くないし、まだ段ボールだらけだけど」
「遊びに行ってもいい?」
千里がぐるっとこっちを向く。
あ、……嬉しそうな顔。
「もちろん。あ、親御さん、心配しない?」
「今電話する」
「分かった」
家族に電話する。
今日晩御飯いらないと言うと、「終電までには帰るのよー」とお母さんの優しい声が言う。
それに了解して電話を鞄の中に直した。
「じゃあ、千里の家行って。久しぶりに話したいし」
千里は嬉しそうに頬を緩めて、車を右折させた。
少しして着いたマンションは、駐車場付きで、マンションの奥に車を停めて、外に出た。
千里は控えめに私の手に触れると、その拍子に繋いだ手を引いて歩いた。
手。
繋ぐんだ。
今まで明穂と千里では繋がなかった手を繋ぐのはなんでかな。
心臓がドキドキとうるさい。
俯きながら歩いていると、エレベーターで立ち止まった千里の背中にぶつかって止まった。
「明穂。その、……好きだよ」
「……う、うん」
調子が狂う。
ぼわんと頭の中にもやがかかって、甘ったるい糖分に覆われていく気配がした。
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