自覚のない感情

羽柴司side


目の前で怜央の長い手が宙に置き去りにされた瞬間を見た。

あれほど衝撃的な瞬間には二度と出会えないかもしれない。


トイレから出ていこうとする彼女を掴もうと差し出した手は、彼女に触れることなく宙に浮いたままだ。やり場のなくなった手をバンとトイレの壁に叩きつけると、俺がここにいる事にもすこぶる機嫌を悪くした様子で、大きくチッと舌打ちをする。

にこっと笑いかけると、心底機嫌が悪い様子で俺の笑みにつっかかるほどの余裕もないようだ。


思い出した事が一つ。

彼女の名前は、亜子。佐々木亜子だ。

いや、思い出したとは言えないか。怜央が亜子と呼ぶ声を聞いて、名字をようやく思い出しただけだ。


名字を思い出したところで、彼女と喋った記憶はない。きっと喋った事はないだろう。

だって彼女は女ハンターどもではないし、怜央と一定の距離を保って傍観する側に徹していた。


彼女と俺たちはいわゆる世界が違った。

同じクラスでも、それぞれテリトリーが違う事はよくあるだろう。


彼女とは関わる人も違う。俺は福田章吾とも関わったことはない。

基本的に学校行事にも熱心に取り組まない俺たちと、学校へ協力的な彼女に、接点が出来ることはなかった。



それが崩されたのはいつ、どういう時だったのだろう。

俺はまだその瞬間を知らない。

 

「怜央、イライラしてるなら誰か女呼ぶ?」

「……いらねぇ。そういう気分じゃない」

「そっか。じゃあ教室から亜子ちゃん連れ戻してくる?」


凍りつくような視線で睨まれて、おどけた顔をして見せると、怜央はうっとうしそうに俺から視線を逸らした。


「別にあんな女いらねぇよ」

「……でもさ、怜央。怜央にとって亜子ちゃんは特別だよねー」

「は? なんで」

「だって、今まで怜央はあの女グループから追いかけられて、追いかけられて、ちょいっとつまみ食いするくらいでさ。相手してくれない怜央に愛想尽かして去って行った子を追いかけた事あった? 名前は知ってる? 顔は覚えてる?」

「……」

「去って行った子がいたことすら把握してないんじゃない?」


そう。

怜央から逃げた子は亜子ちゃんが初めてじゃない。

と言っても、亜子ちゃんのような逃げ方は初めてだけど、怜央を追いかけていた子がずっとずっと怜央だけを追いかけているかと言われればそうじゃない。


女ハンターグループのカリンとかはずっと追いかけ続けている古株だけど、あれは例外として。

怜央の使い捨てっぷりはひどいから。

だいたいよそで手ごろな彼氏を見つけるか、怜央の脈のなさに諦めるか、女ハンターどもの弱肉強食が辛くなって戦線離脱するか。


理由は色々あるけれど、女ハンターどもは時折メンバーを変えている。

でも多分、色んな事に無関心な怜央は、そんな事すら気付いてなかったんじゃないだろうか。俺が指摘すると図星だったのか、難しい顔をして黙りこくってしまった。

そんな風に考えようとしたって、出てこないよ。


だって、怜央は知らないんだから。

怜央から去って行った女の子の、顔も、名前も、何もかもを。



「怜央が追いかけてる女の子って亜子ちゃんが初めてでしょ。そんなにあの子が気になる? なんなら俺があの子落としてきてあげよっか?」

「あ? なんでお前が」

「気になるんでしょ。なびかないのがムカつくなら落としてきてあげるよって俺の親切心でさ」

「…………」

「俺の方があの子落とせるよ」


俺が言葉を切るよりも早く、恐ろしい速さで腹にパンチが飛んできた。 


ギリギリで後ろに避けてかわす。

おっと、危ない。

怜央に殴られたら、俺はひとたまりもない。

一体何がそんなに気に入らないのか、自覚がないところがいただけないな。


「じゃあ、怜央認めなよ」

「なにを」

「ん? ふふ」


怪訝そうな顔で怜央が視線をよこす。


ああ、面白い。ぞくぞくする。

怜央がどうしていいか分からず、あんな風にしか亜子ちゃんに詰め寄る事ができなかったのかと思うと、恋愛初心者すぎて笑えてくる。


今まで容姿が人並み外れていたせいでまともな恋愛をしてこなかった反動が一気にやってきたな。

あんな見た目で、あっちのテクニックだけは磨かれていって、女を知ったつもりでいるかもしれないけど、そうじゃないよ。怜央。


恋愛って、セックスとはもっと別次元の。

怜央が思ってるよりも難しくて厄介なものだよ。


そして、俺は。

怜央が恋愛をして、幸せってものを感じ取れるようになる姿がどうしても見たいよ。


「なんだよ、司」

「佐々木亜子を好きだって認めなよ。好きなんでしょ? 亜子ちゃんの事。手を絡めて逃がしたくなくなるくらいに」


にやりと笑ってやると、怜央は一瞬目を見開いた。

その後、急に機嫌の悪そうな顔をして、俺の横を通り抜けていく。


「認めないの?」

「なにが。お前のくだらねぇ冗談に付き合ってられるか」

 

鼓膜が破れるくらい強くトイレの扉を閉められて、やれやれとため息を吐いた。なんでもすぐに物に当たるくせを誰か治してあげてよ。


「素直じゃないんだから、怜央さんは。平凡な女の子に恋に落ちちゃいましたって素直に言えば可愛いのにさぁ。別に恥ずかしいことじゃない」


無人になったトイレで、一人呟く。


でも。

怜央には煽るようにああいう風に恋したんだろと言ったけど、実際のところはどうなんだろう。

今までにないタイプだから惹かれているだけ?

恋なんてした事のない怜央がいきなり恋に落ちただなんてほんとはありえないはずだけど、でも俺は恋をしてほしいな。

 

実際はどうか分からないな。

怜央本人だってこれっぽっちも自分の感情に気付いていないようだし。


教室に戻っても怜央はいなかった。どこかにサボりに行ったのだろう。


授業中なのに、教師は俺をチラッと一瞥しただけで注意をする事もなく、自分の席に着いた。見つめた先の、佐々木亜子は俺をチラリと見て、怯えたような視線を送って来た。


動物に例えるならうさぎ。

背は小さく、怜央と並ぶと、三十センチに近い差があるだろう。


別に特別巨乳なわけでもない。

怜央が巨乳好きとは聞いたことないけど、怜央と一番関係の深いカリンは巨乳だ。彼女が床上手にも見えないし、特別何も特徴のない普通の女の子。


目がくりっとしていて、小動物っぽい仕草は可愛らしい。常にビクビクした感じは、なんとも男の被虐心や庇護欲をそそる。

可愛い名前は、彼女にぴったりだ。

“あこ”と甘く怜央が呼ぶ日は来るのだろうか。


俺はその日が見たい。

霧島怜央が人間っぽくなる日をこの目で見てみたい。

 




――事件は起きた。突然に。


怜央と佐々木亜子が近づく瞬間は、誰も思ってもみないところで訪れた。



あのトイレ事件から三日ほどが経った日。

あれから怜央は全く佐々木亜子を見る事はなく、彼女は怯えたようにたまに怜央に視線をやっていた。

俺が女の子と放課後戯れて、教室に鞄を取りに来た時だった。


佐々木亜子はなぜか怜央の席に腰かけて、運動場をただ見ていた。

その光景はとても綺麗で、そんなはずはないのに綺麗で、彼女の全てが夕日に照らされてオレンジ色に淡く光っていた。


俺はしばらくぼーっと教室の扉からその光景を眺めた。表現するならば、見とれるというのが正しかった。 

正直なところ、普段の彼女に何の魅力も感じない。

一般的にも、彼女はきっと普通以外の何物でもなく、しいて言うならば“どっちかと言えば可愛い”くらいだ。


怜央の机の木目を、細い人差し指でゆっくりとなぞると、ほうっと小さく息を吐きだした。


ぞわりとする。

そうだ、彼女には色気が溢れてるんだ。


怜央を思うがあまり、色気が垂れ流されている。

なるほど、怜央はそれに惹かれたか。

うぶそうな彼女が、神々しく色気づく瞬間を見たのか。


俺は興味を持って、彼女に近付いた。

古い床を踏みしめるとミシッと音を立てた。


その音でとっさに振り返った彼女は、俺を視界に入れて目を見開いた。

 

瞬間、切なげに帯びた色気が霧散して、いつもの普通の彼女に戻る。それを残念に思いながら、一歩ずつ近寄って行く。


「こんにちは、佐々木亜子さん。こうして喋るのは初めまして、かな?」

「あ、えっと、こ、こんにちは」


どもる彼女は怜央の席からすくっと立ち上がると、誤魔化すように教室内を不自然にうろうろした。


なるほど、可愛い。

女ハンターどもにはない普通さが何とも新鮮に映る。


「この前は二人の密会を覗いちゃってごめんね?」

「……っ! あ、いえ、その男子トイレ入っちゃってごめんなさい」


ブッと俺が噴き出すと、彼女はぽかんとした顔で見上げてきた。

いやいや、ここ笑うとこでしょ。

男子トイレ入ってごめんなさいって、今言うとこ? それも俺に?

 

「怜央の事、好きなの?」

「え、あ、えっと、でも! 見てるだけで十分なんで。その、もう近づかないので。ごめんなさい」


何を思ったのか。

俺が怜央に近づくなと言うとでも思ったのだろうか。

彼女は顔色を悪くして謝ると、俺に頭を下げた。彼女の思考回路はやっぱり俺にも分からない。


普通の子はこんな思考回路なの? それともこの子だけ?

女ハンターどもとは人間の規格からして違う気がしてきた。


「別に俺に謝らないでいいよ」


苦笑すると、ぽかんと彼女は俺を見上げた。


「あ、そっか。うん……」

 

今度は沈み返ってしまい、また俺は彼女の対処に困る。


うーん。

ここははっきり言うか。


「亜子ちゃん」

「え、うん」

「怜央さ、亜子ちゃんの事気に入ってる気がするんだよね」

「……は?」

「うーん。だってさ、怜央って結構亜子ちゃんの事チラチラ見てるし、トイレまで連れ込んじゃってさ。男子トイレでまさか会う約束してたわけじゃないでしょ?」

「、まぁ」

「という事は怜央が連れ込んだって事だよね。それってありえないんだよね。怜央の事、節操ないように思うかもしれないけど、無理やりそんな事するタイプじゃないし、まぁ何もしなくても誘いはあるからね。だから、亜子ちゃんは特別なんじゃないかなって、俺は思うわけ」

 

よくもまぁ、口からペラペラとこんなにも怜央の事を喋れるものだと自分でも感心する。亜子ちゃんは少しの間ぽかんとしていたけど、一瞬で顔をくしゃっと歪めた。


あれ。

また予想外の反応。

怜央は彼女のこういうところに惹かれたのかな。

太刀打ちできない感じ。扱いに困る感じ。


「も、もういい。からかうのはやめてほしい。からかわれてるって分かっててもどっかで期待しちゃう自分がいるし、怜央、霧島くんの事、好きだから、そんな風に期待なんてしたくない。……その、帰ります……っ」


彼女は俺の横をすり抜けて、自分の席へ鞄を取りに行こうとする。


だから!

なんでそういう思考回路になるんだ。なんでそんなにもネガティブなんだ。

もどかしくなりながら、とっさに彼女の腕を掴んだ。

彼女はびっくりしたように俺を見上げると、怯えたような目つきになった。


「離してっ」

「何も取って食ったりはしないから。大人しくして」

「やだ、離して。お願い。霧島くんの話はもう聞きたくない。期待したくない」


彼女は涙の溜まった瞳で俺を睨みつける。


へえ。

そういう強気なところもあるんだ。

強情で頑固でネガティブで控えめで。

怜央のどんぴしゃタイプで、だけど絶対にどう扱っていいか分からないタイプだ。


彼女は手を引っ張って、拘束を解こうとする。

俺は何だか離してやる気にはなれなくて、腕を握る力を強めた。



次の瞬間、ガラッと音を立てて、教室の前の扉が開く。


カリンと、……怜央。



「もうっ、怜央待ってよ! 先に帰らないでってばっ」


カリンの媚びるような声が教室に響く。

怜央は乱暴に教室の扉を開けて、一歩教室に踏み入れた。そのあとで、カリンが走ってきて追いついたのか、教室に入ってくる。

怜央はカリンの言葉に相槌を打つでもなく、俺たちを視界に入れた。


その瞬間、怜央の眉間に皺ができる。


あーあ。

状況は最悪。


俺が無理やり亜子ちゃんの腕を掴んで、しかも彼女は涙目と来た。


はい、死亡フラグーー。

おそらく状況から判断すると、カリンと保健室でしけこんできて、その帰りだろう。


そこで俺たち二人を発見。


「あれー、司じゃない? そっちも密会中?」


ふふっと何かを含んだように笑うカリンに、内心で毒づく。

空気読めよクソ女、と。


凶器にもなりそうな巨乳の下で腕組をして、亜子ちゃんを観察するように眺めていた。

その隣で、怜央がどんな表情をしているのかも知らずに。


「わ、私、帰ります……っ」


いち早く空気が非常に悪いことを察知した亜子ちゃんは、慌てたように言うと、怜央を見向きもしないで自分の席へと向かった。

鞄を手に取ると、何かから逃げるように教室を出ていこうとする。





「亜子」



たった二文字。

その言葉一つで俺たち三人は金縛りにあったように動けなくなった。息さえ止めて、怜央の声に縛られていた。

カリンが幽霊でも見るように、ゆっくりと怜央に視線を動かした。


息苦しく感じる中、亜子ちゃんを見ると、教室を出ようとした一歩手前で立ち止まって、怜央に視線を向けていた。

カリンは驚いた顔で、怜央を見上げている。


「亜子」

「は、はい」

「……一緒に帰んぞ」


怜央の鋭い瞳が亜子ちゃんを捉える。

彼女は蛇に睨まれたカエルのように怯んだ目つきをして、少し身体を震わせた。その後、チラリとカリンをうかがうように見ている。


「いや、でも私、一人で…っ」

「ああ? お前は俺から逃げてないって言ったんじゃねぇのか。いい加減イラつかせんじゃねぇぞ」

「ご、ごめんなさい」


怜央はぺしゃんこの鞄を手にすると、亜子ちゃんの腕を強引に掴んで教室から出て行った。

あれは一緒に帰ると言うよりも、強制連行の方が正しい気がする。


それよりも。

俺はピンチを迎えている。

教室には俺をじとっと見つめる一人の美人。


「カリンちゃーん。俺たちも帰ろっか?」


ご機嫌を取るように媚びる声を出してやる。

どう考えても不機嫌そうなカリンに気付かない振りをして。


「ねぇ、司。佐々木亜子と怜央って仲良かったっけ」

「亜子ちゃんの事知ってるの?」

「名前だけはね、一応クラスメートだし。ていうか、去年も私たち同じクラスだったじゃん。佐々木亜子も一緒だった」

「それは初耳」


カリンはそんな事どうでもいいとでも言うように、大きく息を吐く。


「司。説明して。あの子は怜央の何」

「……うーん、俺もよく分かんないな」

「さっき司が迫ってたように見えたけど、司が狙ってるんじゃないの?」

「うわ。俺が迫ってるように見えた?」


カリンは不機嫌そうに首を縦に振る。

ああーーー、怜央にもきっとそう思われただろうな。亜子ちゃんごめんよ。今どういう目に遭っているのか知らないけど、俺だって大変なんだから我慢しておくれ。


「ねぇ、さっきから話逸らすのやめてくれない?」

「あは。バレた?」


へらっと笑った顔を見せると、カリンの小奇麗な顔が鋭く歪む。

ああ、そろそろ限界だ。

 

「カリンの方が綺麗だよ」

「そんなお世辞はいらないんだけど」

「ほんとだよ。この際、俺に乗り換えてみない?」

「悪いけど、私は怜央しか興味ない」

「知ってる。あとね、あの二人が今どこにいるかも多分知ってるよ」

「どこ!?」

「教えない。ばいばい」


俺は後ろの扉から教室を出て、廊下を歩いた。

多分あの二人は。きっと。

カリンが一番屈辱的だと思う場所にいる。


怜央はさ、頭のねじがどっかにぶっ飛んでるから、今まで女と逢瀬をしていた場所でもおかまいなしに亜子ちゃんを連れ込んで。

二人になれる場所なら多分どこでもいいんだ。

そこにベッドがあれば何でも。


カリン、ごめんね。

俺はカリンの事が嫌いじゃないし、ずっと一緒にいたから同情もしちゃうけど、応援はできない。カリンじゃ、怜央は恋が出来ない。


あの平凡な女の子となら、何となくできそうな気がするんだ。

勘だけど、これはきっと間違いじゃない。


だって彼女は“恋”を知っている。

カリンのような、他者を蹴落とすようなものではなく、もっと神聖な。

諦めたように笑う彼女の気高さを。

澄んだ水面のような、透き通った感情の煌めきを。

相手を想うだけで満足だと納得するいじらしさを。


怜央はきっと気付く。

俺の親友はそんなに馬鹿じゃない。


羽柴司side

終わり

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