番外編:present4

京と二人で大学に来た。

二人とも四年生になって授業はないけど、たまには遊びに行こうって事で。

大学をぐるぐるとしてから、食堂でご飯でも食べようかって話になった。

京と手を繋いで大学構内を歩く。


「京、懐かしい感じさえするね」

「まだここの学生だけどね。大学に来ると、佐希を思い出すよ」

「一緒にいるのに、思いだすの?」

「うん。佐希を闇雲に探してた時の自分を思い出す。今になったら笑えるけど、当時は泣きそうだったよ」

「ああー、そっか。探してくれてたんだもんね。偶然食堂で再会したけど」

「あれを偶然というのか。ふふ。もうかくれんぼはご免だ」


そう言って、困ったように笑いながら顔をしかめる京を晴れやかに見つめる。

もうそんな心配もないんだ。

京はあの日から今日まで完璧に私との約束を守ってくれたから。


でも、当時は不安と絶望が何度も繰り返されるような過酷な毎日だった。

好きな人に何度も何度も裏切られる事は、心を破壊するかのような痛みとともに、日々のやる気や楽しみまで奪っていかれるほどの辛いものだった。


それでも、しばらく京にしがみついていけたのは、素敵な事もきっと同じくらい多かったから。


――――…


一年前。

まだ京と出会って二週間のある日。

私が京の家に入り浸り始めた頃、私は少し油断してたんだ。


その日は、京だけが大学のある日で、私は京の家で掃除したり、買い物をしたりして大人しく時間を過ごしていた。

今日、五限まであるって言ってたから遅いなぁ。

帰ってきたらすぐに食べれるようにご飯作っておこうかな。


メッセージもしておこう。


『帰ってきたらすぐ食べれるようにご飯作っておくね』


そのあとすぐに、授業中の時間帯にも関わらず返ってきた返信を見ると、『ありがとう、佐希』とだけ書いてあった。


それだけでこんなにも嬉しく思うのはなんでだろう。

その理由は知ってる。

私が京に夢中だからだ。


でもそれだけじゃないと思う。

京は本当に女の子を喜ばせるのが上手だ。

メールに読点を付けて、その後に名前を漢字で打たれたら、どうしてもキュンとしてしまうじゃないか。


特に京みたいな節操がなくて、どこにでもほいほいと行ってしまう風のような人に、名前の漢字を覚えてもらってるだけで嬉しい。

こんなことでさえ愛されてると勘違いしてしまう。


その何でもないメッセージをしばらく眺めたあと、ご飯にうきうきした気持ちで取りかかった。


京は案の定五限が終わってすぐに帰ってきた。

ピンポンとチャイムが鳴って、玄関まで迎えに行くと、目の前の男はほのかに微笑んで、歌声のように軽やかな声で、耳元に囁いてみせた。


「ただいま」


耳たぶを少し口に含んで、色気のある仕草をしてみせると、そのまま部屋の中に入って行ってしまった。

そこで私は固まったように動けなくなった。


それは、別にときめいてしまったからとか、ドキドキしたからとかいうものじゃない。

そんな可愛い理由じゃなかった。




………女の香りがした。


どこで?

誰と?

そんな考えがとっさに頭を駆け巡ったと同時に、腕は重力に逆らえないくらい力が入らない。


足を一歩踏み出す余裕さえなくなっていた。

こんな事でこんなに打ちひしがれる自分が心底憎い。


もっと強くなればいいのに。

でも、京から香った匂いが鼻について離れない。

だって、あれは私の大好きな京の香りじゃない。


女物の甘ったるいフルーツ系の香りだった。

そんなのが移るなんてよっぽど近くにいないと無理じゃない。


女の子を抱きしめたかもしれない後で、平気で家でご飯を作って待っている女の元に帰ってくる京の気がしれない。

嫉妬でおかしくなりそうだ。

いくら私が油断していたからって、こんなの警戒してたってどうしようもない。


京の事だから、大学に行くと嘘をついて女の子と遊んでいたわけじゃない。

嘘はつかない人だから。

だからきっと、大学での休憩中とか、授業をサボって、女の子といつものようにいちゃついてたんだろう。


大学に行ったくらいでこんな風に女の子と接触されたんじゃ、もうどうしようもないじゃない。

京と私は付き合ってるわけじゃないし、私が勝手にここに居座ってるだけだから文句を言う資格もないかもしれないけど。


でも。

こんなのってひどい。

なんだか心の大事な部分を踏みにじられた気分だ。


「……佐希? どうした?」


玄関から一歩も動かない私を見て、京が鞄をリビングに置いて戻ってきた。

京と一瞬目が合った瞬間、京が心配そうに近寄ってきた。


よっぽど私がひどい顔をしていたらしい。


「どうしたの? 気分でも悪い? ちょっと寝る?」


心配してくれるけど、頼むからその匂いで近寄らないでほしい。

その女の子を殺したくなってしまう……。

そんな風に自分が自分でなくなるのがとてつもなく嫌なのに。

この負の感情を抑えられない。


悔しい、この人が私だけのものになればいいのに、思うようにいかない現実に目眩がしてくる。


「……近寄らないで」


やっと口から零れた言葉は、自分で喋ったくせに泣きそうになるくらい可哀想な女の負け惜しみだった。

その言葉に、京は繊細で綺麗な顔を一気に辛そうに歪めて、私を覗き込んでくる。


「どうしてそんな事言うの。傷付くよ」


はっきりとものを言える京がうらやましい。

私は言えない。

女の子の香りがするから、お風呂に入ってきてよ、なんて可愛い言葉。


…………言えない。


「佐希?どうしたの?」

「………寄らないでってば!」


その言葉に、京が近付いてきていた体をピタっと止めて、一歩だけ後ろに下がる。

さっきよりきつく言ってしまってから、ハッと反省して首を下げてうつむいた。

自己嫌悪が渦巻く。


でも、苛立ちを消化することもできないし、京を許してもやれなくて、身動きが取れない。

苦しいよ。


「おいで。佐希」


その言葉はいつもの京のふわりとした声よりも、力強くて、命令しているかのような有無を言わさない声。

その声に弾かれて、パッと顔を上げると、困ったような笑みを浮かべた京の姿があった。


「どうしたのか言わないと分からないよ。機嫌直して」


ああ、あと一歩で機嫌を損ねる。

気分屋気まぐれな京がこのまま私の機嫌を根気よく取り続けてくれるわけがない。

毎日一緒にいた経験でそのタイミングが分かるようになった。


「………もういいよ。ご飯食べよっ」


今できる限界まで精一杯、機嫌の良さそうな声を張り出す。

そして、するっと京の横を通り抜けてリビングに向かうと、京は不思議そうに後ろからついてきた。


その後、京は私の急な機嫌の変わり様を随分気にしてくれた。


「なにか怒ってたでしょ? 何に?」

「別に怒ってないよ。ぼーっとしてただけ」

「絶対嘘だ。毎日ご飯係なのが嫌だった?」


それに軽く笑いながら、首を振る。


「そんなのじゃないよ」

「じゃあ、かにすきのお店に行きたい日だった? 佐希あそこ好きだから」

「先週行ったとこだよ」


それから少し考えて、またパッと表情を明るくする。

何か閃いたらしい。

大人っぽくて色気が溢れていてとんでもなく綺麗な顔が、目の前でコロコロと表情を変えると可愛く思えてならない。

ギュッと胸が締め付けられる。


「ここ三日くらいどこにもデートしてないから怒ってる? それなら今すぐどこかに出かけよう。佐希の行きたいところにどこへでも行こう」


京の突拍子もない発言に、目を丸くしてから笑ってありがとうと呟くと、ふてくされたように頬を膨らませた。


「……全然佐希が分からない。難しい」


可愛いと思う。

こんな風に本気で私の事で悩んでくれる京が。

だから、少し大人になって、見逃してあげよう。

それに悔しいけど、私には縛る権利も、諌める権利も何もないのだから。


「京。私、先にお風呂入ってくるね。あとで一緒に寝よ」


優しくそう囁くと、京はまだ納得していなさそうな顔をしながらも、嬉しそうにうんと返事をしてくれた。

その複雑そうな顔を見てから、お風呂に入った。


湯船に浸かったりしながら、三十分くらいでお風呂を出ると、京が家のどこにもいなかった。


「京?」


煙草を吸ってるのかと思って、ベランダに行っても姿はない。


「京ー!」


どこかにいるのかもしれないと大きな声を出してもどこにも返事はない。出かけたのかもしれないと思って、玄関に行くと、京の履いていた靴が一足なくなっていた。

やっぱ出かけたんだ。

女の子のところに行ったとか?

それだったら、正直もうやってけないかも。

ショックどころの騒ぎじゃない。


髪を乾かす気にもなれなくて、髪がびしょ濡れのままソファに座っていると、十分くらい経って扉の鍵がガチャリと開く音がした。

その音に飛び跳ねて玄関まで走って行く。

やっぱりそこには京がいて、なぜか手にはとてつもなく大きな花束があった。


なんで?

それ私になのかな?

誕生日とかじゃないんですけど。


そう思って、首をかしげていると、京がそれを笑いながら恥ずかしげもなく差し出してきた。


「これあげる」


それは綺麗な百合の花だけで作られた花束だった。


「……なんで知ってたの?」

「なにが?」


京が不思議そうに首を傾げる仕草をする。


「……私が一番好きな花なの」


そう言うと、京はそれこそ花のように綻ぶように笑ってみせた。

その笑顔に胸をえぐるようなトキメキが襲ってくる。


「良かった。前に聞いたメールアドレスにlilyって入ってあったから、好きなのかなって思っただけだよ。前から気になってたんだ」


そういえば、アドレスに百合の英語のlilyを入れたけど、それだけで分かって買ってきてくれたって言うの?


「……こんなにたくさん。何本あるの? 高いのに」


腕に抱えきれないくらいの花束を受け取ると、百合の独特ないい香りがして思わず目を閉じる。

百合は一つがとても大きいから、そんなに本数がなくてもすごく多く感じる。

でも、この百合は知ってる。

駅前の花屋さんで売ってる百合の中でも一番高価で、一本で千円近くするのを知っている。

それをこんなに?


「………これ何本あるんだろ。たくさんあるからすごいいい香り」


言葉を発しないでじっと私の喜ぶ反応を見つめている京に、私だけがお喋りになる。


「それ四十三本。本当は百本が良かったんだけど、そんなにたくさん花束にできないって言われて。それに店にもそんなにないって言うから。佐希の誕生日が四月三日だから四十三本にしてみた。大きすぎて花束っぽくないけど」


そう言って苦笑する京をチラリと視界に入れてから、腕で抱えきれない百合の花を眺める。


四十三本って……。

大学生がパッと使える金額じゃないよ。

でも、やっぱりすっごく綺麗。


「どうして何の日でもないのに買ってきてくれたの?」

「佐希が喜んでくれたらと思って。どうしてか分からないけど多分俺のせいで機嫌悪くしちゃったから……。ごめんね。機嫌直して?」


それにきゅうっと胸が締め付けられる。

そんな事だけで、私がお風呂に入っている間にわざわざタクシー乗って駅前まで行って、お花屋さんで百合の花束を買ってきてくれたの?

そんなのってないよ。

これ以上好きにさせてどうするのよ。


「そんな………えっと………ありがとう、京」


そんなのいらなかったのにって言おうとして、その言葉を引っこめた。多分京はそんな言葉が欲しいわけじゃないと思うから。


「うん。気に入ってくれたなら良かった」


京が頬を緩めて、幸せそうに笑顔を作る。


「本当にありがとう」

「なんかね、百合が何種類か置いてあって、それぞれに英語で名前がついてあったんだ。その百合はユニバースって名前らしい」

「え? そうなんだ。宇宙?」

「うん宇宙。佐希にぴったり。宇宙みたいに不思議で分からない佐希を少しでも多く理解できたらと思って。もっと分かっていきたいと思って。そんな願いを込めてみた」


そこで初めて恥ずかしそうに視線を逸らせた京に、ぞくぞくするくらいの愛おしさが込みあがってきた。

涙がせりあがってきて、思わず京に抱きついた。

部屋中にいっぱいになった百合の香りは、女物の香水を見事にかきけしてくれて、全て京のうまいように回っているのも分かっていたけど、どうしても愛を伝えたい気分にさせられてしまった。


京は無意識なのだろうけど、この百合いっぱいの香りに、一本取られた気分だ。


「……大好きっ」

「うん。ありがとう」


決して好きだとは言ってくれない、君との残酷で幸せな毎日。


―――――…


昔を思い出して、ぼーっとしていた私の頬をするりと撫でてくる。

京は冗談でも頬をつまんだりはしない。


「どうかした?」


不安そうに聞いてくる京に、意地悪な笑顔を作る。


「ねぇ、京」

「ん?」

「私がもし男物の香水の香りをつけて帰ってきたらどうする?」


それを口にすると、例え話なのに、一気に顔を歪めて機嫌の悪そうな顔をしてみせた。


………あ、機嫌損ねた。

何も言葉を発しない京に溜息をついて、ちらりと顔を見上げた。


「ねぇ。ねぇってば。……例え話でしょ」

「……俺は最近嫉妬って感情を覚えたんだ。例え話でも許さない」


昔の京を思い出すと、呆れ果てて言葉も出なかったけど、それでも嬉しいと思った。

幸せだと思った。


「……百合の花束をくれたら許してあげるよ」

「え? 怒ってるのは俺なのに? 佐希に許してもらわなきゃいけないの?」

「そうだよ。ごめんなさいは?」

「……え? ああ……、え? ……ごめんなさい?」


しどろもどろになりながら謝る京に笑みがこぼれる。


「ふふ、よろしい」


偉そうに話す私を見て、京は大事なものを見るみたいに眩しそうに目を細めて微笑む。


「で、何本いるの?」

「え? ああ、えっと43本?」

「じゃあ今度はユニバースはやめてファーストラブとかにしようかな。多分そんな名前の百合も花屋にあった」

「ふふ。それちょっとくさいよ」

「そう? 俺は恥ずかしいとは思わないよ。本当の事だ」


君との日々は、眩しいくらいに幸せしか待っていない道で続いている。


おわり

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