未来が怖くてあなたから逃げた

コウの家から出ると、自己嫌悪がびっくりするくらい重くのしかかってきた。涙がぼろぼろと零れ落ちて、走る私の頬を勢いよく滑る。


コウを絶対傷付けた。

せっかく私を好きでいてくれてるのに自分から逃げた。マンションを出ると通行人にじろじろと見られて、歩いていたおじいちゃんには大丈夫かと声をかけられるほどだった。


だめだ。

やっぱりコウとは出来ない。怖い。怖いんだ。コウと恋人同士になるのも、エッチをするのも、何もかも。あの時はあまりの嬉しさでコウのものになるなんて頷いてしまったけど、やっぱりそんな簡単なものじゃないよ。


ああ、でも私最低。

自己嫌悪に苛まれながらも、コウからかかってきた着信に出る勇気も出ずに、そのままコウの家の近くに借りているマンションに飛び込んだ。ベッドにダイブする。着信はすでに三件も来ている。あんな最低に突っぱねた私にもまだコウは優しくて、それがさらに怖かった。


『ごめんなさい』

それだけを送って、ベッドに突っ伏した。


怖い、怖い、怖い。

過去のトラウマから最近の雄大の事まで全てが思い出されて、ぶわっと冷や汗が吹き出していた。コウはその後も何度も電話をかけてくれていたけど、私はサイレントモードにして電話を取らなかった。

最後にメッセージだけが着ていた。


『電話しろ』と一言のメッセージだけが届いていて、それを十分程見つめていた。

コウへの通話ボタンの上に何度も親指を乗せるのに、それを押す勇気が出ない。そのまま、ぐったりしてしまって、私は泣きながら眠りに落ちた。


朝十時に目を覚ます。

やばっ。仕事!!!

ベッドから飛び起きたけど、部屋に貼ってあるシフト表は休みになっていた。はぁっと息を吐いて、パンパンに腫れている瞼を鏡で見る。冷凍庫から保冷剤を取り出して、瞼に当てながら、携帯を触った。


メッセージが一件だけ来ている。

コウだ。

いつもはメッセージなんてしなくて、着信ばっかりなのに、私が電話に出ないからなのか、それとも気を使ってくれているのか。その一通のメッセージを見る。


『いい加減にしろ。今日仕事終わったら家に行くから』

当たり前に絵文字も何もついてないメッセージを眺めて溜息を吐いた。

怖い。コウと向かい合うのが怖い。逃げたいけど、これ以上逃げるのはダメだ。


でも。

それでも怖かったらどうしたらいい。


今日仕事が休みなのが憎かった。時間が長い。まだ朝の十時だ。コウが仕事を終わって家に来たら十九時ぐらいだろう。どうやって時間を潰せって言うんだろう。いつもならネイルの勉強に時間をかけるくせに、今日はそんな事全くやる気も出なくて、ただソファに座ってテレビを見た。

一応服をおしゃれして化粧をして、逃げる準備は万全だ。


おじいちゃん。

どうしたらいいかな。

私はコウと会っていいのかな。

どう思う、おじいちゃん。

おじいちゃんなら、多分会って気持ちを伝えろって言うよね。

分かってるんだ。でも、怖くて怖くて、この場から今にも逃げ出したいほど怖い時はどうしたらいい。どうしたらいいかな。カチカチという時計の音が耳についてうるさくなってきた。テレビを付けているのに、時計の音が聞こえるのは異常だ。


時計はもう夜の七時前をさしている。

どんどん呼吸がしづらくなって、鼓動もドクドクと不整脈を刻んでる。いてもたってもいられなくなって、マンションをとりあえず出ようと鞄を持って部屋を出た。エレベーターで一階を押して、その間もいつもより少し荒い息をはぁっと何度も吐きだす。怖い、早く逃げたい。エレベーターが一階をさした時に、扉が開くのと同時に走るように飛び出した。その拍子に外で待っていた人にぶち当たる。


「あ、すみません!」

声をかけて走ろうとすると、その人に腕をがしっと掴まれた。


「おい」


エレベーターホールに響く重低音。

ビクッと体が全体が跳ね上がって、恐る恐るその人を見ると、やっぱりコウだった。顔をしかめた私に、コウは眉を寄せて睨んでくる。


「お前どこ行こうとしてたんだよ。ん?」


その喋り方はかなりの威圧感があって、どう見積もっても怒っていた。身長差があるだけにすごい迫力で、私は勢いに飲まれたかのように口を瞑った。もう逃がしてなんてくれない。そう思うだけで、心臓がぎゅうぎゅうと痛んだ。


「どこ行こうとしてたんだよ。お前さ、……そんなに俺から逃げたいか」

「え、……あの……っ」

「逃げんなよ、なぁ……」


小さな声で寂しそうに告げたコウに、胸がまたぎゅうっと痛む。思わずバッとコウの顔を見上げると、今まで見た事もないような辛そうな表情を浮かべて私を見下ろしていた。目が合った瞬間、またエレベーターに連れ込まれる。二人で乗ってから、コウは五階を押して閉めるボタンを押した。小さな密室の、この刺さるような空気が痛い。


「浅美。俺、今日仕事が手につかなかった」

「…………」

「お前も大概にしろよな……。俺だってそんな気長くねぇんだわ」

「…………うん」

「俺の事が嫌だったら嫌ではっきり言え」

「…………っ」

「……ああー……くそ……やっぱり言うな。……お前が好きなんだよ」

「………………」

「お前が好きだ。頼むから嫌とか言わないでくれ……」


悲痛をこらえたようなコウの掠れた言葉が聞こえて、私は思わず涙をぼろりと零した。その瞬間、コウが私をきつく抱きしめてくる。逃がさないと言うようにきつい抱擁に、私はやっぱりコウがどうしようもなく好きだと思い知る。逃げようとしてた自分が滑稽だ。


どうせコウがいないと生きていけないくせに何を逃げ出して。馬鹿だな。

コウのきつい締め付けを感じながら、私はエレベーターの扉が開くのを待っていた。開いたと同時に、コウの右手を掴んで歩きだす。コウは黙って着いてきて、私の部屋の扉に一緒に入った。扉を閉める音が、バタンとやけに大きく響く。


その瞬間、私は鍵を閉めて、コウの首に両腕を回した。

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