第20話 闇落ち

『ほっぺむぎゅ』いただきました!

ウキウキと喜ぶ暇すら沙魚丸にはなかった。


タコみたいな口、というより、ムンクの叫びと言った方がいいのか・・・

元が分からないぐらい強く握られた頬には、八上姫の美しい爪がググっと食い込む。

だが、そんな痛みなど問題ない。

八上姫の変貌ぶりに丸っと魅了された沙魚丸には痛くも痒くも無いのだ。


先ほどまで光り輝くほど愛くるしくキュートな八上姫の顔が真っ黒に変わっている。

いや、顔だけではない。

全身が闇に包まれたように真っ黒になっているのだ。


沙魚丸が何よりも驚いたのは八上姫の目だった。

幼く可愛らしい印象を与えていたタレ眼だったはずなのに、今ではギュッと鋭くつり上がり、双眸は爛々と赤く輝き、沙魚丸を睨んでいるではないか。

獲物を前にした猛獣のように・・・


沙魚丸はゾクゾクした。

〈これは、もしや、噂に聞く女神様の闇落ちではないですか。何、このクールな堕天使。もう無理です!〉

八上姫が闇落ちしたことに沙魚丸は狂喜した。


だが、闇落ち八上姫には、沙魚丸が何を考えていようがどうでもいい。

苦い経験を思い出させた人間を

「今度から気をつけてね!」

と言って頭を優しく撫でて許す気は毛頭ない。


仏は三度目にはキレるらしいが、神はそれほど寛容ではない。

ギリシャ神話を見よ。

ゼウスとヘラなんて、ずっと激怒しているではないか。


蛇に睨まれた蛙よろしく沙魚丸はじっと八上姫に見入っていると八上姫が口を開いた。

暗黒の地面に一輪の真っ赤な花が咲いたように開いた口、真っ白な牙がキラリと輝くのを見た沙魚丸は思わず嘆息した。

〈あぁ、私をお食べになるのですね。できれば、痛くしないで下さい。〉

恍惚となった沙魚丸は胸の前で手を合わせる。


「私の父は安蔵あぞうの長者って言うのよ。」


羽毛で撫でるような八上姫の柔らかい声。

だが、八上姫の声に沙魚丸は殺意を感じ取った。

ただの殺意ではない。

頭をギリギリと右に左に回しながら首根っこを引っこ抜くかのような冷酷な殺意に沙魚丸は戦慄した。

もだえ死に間違いなしと・・・


痛いのはイヤ、と我に返った沙魚丸は脳をフル回転させる。

〈お父さんを間違っただけで闇落ちするって、どういうこと。もしかして、八上姫様ってファザコンなのかしら・・・〉


そんな浅はかな考えを吹き飛ばすかのように、八上姫は優しく、それでいて命の灯を吹き消すかのような暗い言葉を紡ぐ。


「スサノオ様の娘の名前はね、スセリビメって言うのよ。」


その言葉に沙魚丸は

「マジで!」

と絶叫した。


全身からざぁーっと血の気が引いた。

沙魚丸は、とんでもない勘違いをしていたのだ。

〈スセリビメって、恋のライバルじゃない。いえ、そんないいもんじゃないわ。もっと、こう、ドロドロとした粘着質な嫉妬をぶつけて来た相手じゃない。〉


八上姫に掴まれたまま沙魚丸は頭を抱え、二人の関係を思い出す。


『八上姫様は恋多きオオクニヌシ(以下、浮気王)の最初の妻!

諸事情により遠距離恋愛となった間、浮気王はスサノオの娘、スセリビメに一目ぼれし、スサノオからの難題をクリアして正妻としたのよ。


何も知らない八上姫様が胸を躍らせて浮気王の元へ訪ねてみれば、側室として迎えられた上、正妻との同居生活が待っていたのよね。


スセリビメの後ろ盾は国津神のトップ、スサノオ!

〈このままでは、殺される。〉

命の危険を感じた八上姫様は泣く泣く故郷へと帰った、ってお話。』


一夫一婦は明治からだし、側室を持つのが当たり前の時代としても、身重の妻を放置して浮気したオオクニヌシがヤバいと沙魚丸は思う。

でも、英雄色を好むとも言うしなぁ、と呟いた沙魚丸は、一つの真理にたどり着いた。

〈嫉妬深いスセリビメと天然毒舌の八上姫様では、相性が悪かったのね。〉


悠長にのんびり分析をしている場合ではなかった。

沙魚丸に残された時間はもう無い。

八上姫が激怒している理由を察した沙魚丸は泣いて許しを乞おうとするが、頬を掴まれたままではまともな言葉を発することができない。


〈終わった・・・〉


生を諦めた時、大きな白いモフモフが八上姫の顔に貼り付いた。

ジタバタした八上姫が沙魚丸を離し、両手でモフモフを引きはがすと、地面へポイっと放り投げる。

クルクルッと空中で回転し、スタっと見事に着地を決めたモフモフの正体は兎だった。

ふん、と鼻を鳴らした兎の前には、闇落ちする前のキュートな八上姫が驚いたように口を押さえていた。


「稲葉、どうしたの。」


「どうしたのではありません。勾玉まがたまが光りましたので、闇落ちされたと思い、急ぎ駆けつけたのです。」


うそぉ、私、落ちてたの! と驚く八上姫は闇落ちした自覚がなかったらしい。


〈あのモフモフは兎だったのね。〉

助かったぁ、とホッとする沙魚丸の頬を八上姫の手が優しく撫でると血だらけだった頬が綺麗さっぱりと治っていた。


「ごめんなさい。頬に穴を開けちゃったみたいね。痛かったでしょ。」


「いえ、全然大丈夫です。」


明るく答えた沙魚丸に八上姫は横に立っている兎をずいっと前に出した。


「この兎は稲葉って言うの。因幡の白うさぎで有名よね。」


「初めまして。八上姫の筆頭眷属、稲葉と言います。姫様を闇落ちさせるなんて、貴方もいい度胸してますね。」


可愛い兎ににこやかに挨拶をしようとした沙魚丸の機先を制し、稲葉はじろりと沙魚丸を睨みつけた。

〈えっ、何、いきなり怒られてるの、私?〉

胸に勾玉のネックレス、背中に忍者刀を背負った兎に挨拶する前にビシッと説教される状況に沙魚丸は絶句した。


「理由は後ほど姫様からお聞きしますが、これからは気をつけてくださいね。」


「許してあげて。」


なぜか闇落ちした張本人にかばわれる理不尽さはあるものの、ここで突っ張るほど沙魚丸も子供ではない。

日本の零細企業の社会人として生きて来た沙魚丸は謝罪することに何ら抵抗はない。


「すいません、これから気をつけます。」


「じゃあ、貸しにしといてあげます。」


「ありがとうございます。」


稲葉に仲介業者の担当者を見た沙魚丸は、

〈ニンジンを贈ればいいのかしら?〉

とお歳暮の中身を考え始めた。

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