第13話 線香花火

 



 夏の終わりを錯覚させるような静寂が、潮の音だけを際立たせる。生温い潮風が肌を撫でた。

 夜の海だなんてロマンチックなシチュエーションだと思っていたのに、空も海も混ざり合って、吸い込まれてしまいそうな闇が僕は無性に恐ろしかった。


「夜の海でデートなんて、ロマンチックだと思わない?」


 僕の心を見透かしたように先輩が微笑んだ。


「……僕は、少し怖いですよ。波の音が辺りを満たして、自分が呑み込まれてしまいそうな気がしてしまう」


「ふふっ。キミならそう言うと思ってた」


 僕の返事に何故か満足そうにして、先輩が波打ち際まで裸足で砂浜を走っていく。

 砂の擦れる音がやけに耳にこびりついた。

 このまま、先輩が海に呑まれて居なくなってしまうような気がして、思わず僕は先輩の手を掴んで引き留めていた。


「透真くん?」


「……行かないで、下さい。どこにも……」


「……あははっ、透真くんは怖がりだなぁ!」


 僕の手を握り返して、先輩は笑った。

 ズボンの裾を濡らす嫌な感覚がまとわりつく。時折、波が白い泡を描いては消えていった。


 居なくなったりしないよ、なんて。答えてくれない先輩は、代わりに見たことの無い哀愁を漂わせた表情で、柔らかく唇に笑みを浮かべていた。


「ねぇ、透真くん。納涼祭はどうだった?」


「先輩のおかげで大成功でしたよ」


 本心だった。

 先輩がいなかったら、僕は小説を書こうなんて思いもしなかった。自分の言葉に向き合おうとしてこなかった。伝えることを諦めたままだった。

 納涼祭の大舞台で、クラスメイトを巻き込んで、僕が脚本を書くなんて有り得ない。それは、謙遜でも心酔でもない、本心から来る感謝と尊敬の気持ちだった。


「私じゃなくて、キミ自身の力だよ」


「そんなことないです!」


「もし、本当にキミが言うように私のおかげなんだったとしたら、私の挫折も悪いことばかりじゃなかったんだなぁ……」


 先輩が優しく微笑んだ。その瞳には、普段の明るさの奥に寂しさがにじんでいたように見えた。


「透真くんっ! ね、花火しよっか!」


 いつも通りの明るい笑顔を浮かべた先輩が、鞄から花火を取り出して僕に突き出した。


「なんか急にやりたくなっちゃって、買っちゃったんだ!」


「いいですよ。手持ち花火なんて、凄く久しぶりにやります」


「そうなの?」


「まぁ、子供の頃くらいしかやらないでしょう」


「あははっ、なんかそれ凄くキミっぽいね」


「キミっぽいってなんですか。もしかして、馬鹿にされてます?」


「そんなことないない! でも、夜の海で花火なんてさ、これも青春、って感じしない?」


「それはわかりますけど……」


 先輩が水際に花火を並べていく。見てて、と声をかけて横に並べた花火に、一気に火を灯す。

 浜辺に置かれた花火が滝のように煌めきを放ち、水面に反射して、海の輪郭がくっきりと浮かぶ。僕の視界いっぱいに広がる花火の光が、子供みたいにはしゃぐ先輩の笑顔を照らしていた。


 パチパチと花火が弾け、流れ星みたいに夜の闇を切り裂いた。

 楽しそうに手持ち花火を振り回す先輩があまりにも無邪気に笑うから、僕も思わず声を出して笑っていた。


「透真くんっ、こっち!」


 最後の花火が光を落とし、夜の舞台の幕が下りる。

 先輩が、僕に手招きをする。

 それはまるで、儚くも忘がたい、夏の蜃気楼のようだった。


「あー、楽しかった!」


「めちゃくちゃ、はしゃいでいましたもんね」


「うん。こんなにはしゃいだのは久しぶりかもー」


 先輩が隣に座れ、と自分の横をぽんぽんと叩く。

 僕は差し出された線香花火を受け取って、先輩の隣に腰を下ろした。


 納涼祭の熱か、非日常なこの時間がそうさせたのか。ふと、先輩の言っていた、という言葉が引っかかった。

 いつも強引に引っ張ってくれる先輩は、何度も僕の悩みを聞いてくれて、僕を掬い上げてくれたのに、僕は先輩のことを何も知らないのだと、少しだけ寂しくなった。


 普段なら尋ねることは無かっただろう。

 線香花火が、ぱちん、と音を立てて弾けた。


「……先輩。挫折……って、なんですか?」


 先輩が驚いたように目を開いた。

 そんなことを僕に聞かれるとは思っていなかった、という表情をしている。


「あー、ちゃんと聞こえてたんだ……。うん、そうだなぁ……」


「あ、いや、あの、話しにくいことだったら……」


「ふふっ。撤回しないでよ。せっかく、キミが聞いてくれたんだから」


 少しでもつつけば消えてしまいそうな線香花火が繊細に揺れている。先輩は持っていた線香花火を僕の持っている線香花火にくっつけると、穏やかな声色でそう言った。膨らんでいく二つの火種がじんわりと形を変えて一つになっていく。


「私ね、こう見えて走り高跳びの選手……だったんだよ」


 ぽつり、と先輩がこぼした。

 顔を上げると、先輩は懐かしそうに海の彼方を見つめていた。子供でも大人でもない空気を纏って、寂しさを宿した瞳で大人びた表情を浮かべる先輩の横顔に、僕は息を呑んだ。


「チームメイトにも恵まれてさ、成績も順調。きっと、私が一番になるんだって、疑ったこともなかった」


 先輩の言葉はどれも過去形で、文芸部に入り浸っていることからも、選手としての夢は見れなくなったのだ。


「子供をね、助けたの。事故だった。私が怪我をしたこと以外、誰も傷つかない奇跡みたいな事故だった。子供も私も命を失うこともなくて、私の怪我も重傷と言えばそうなんだけど、跳べなくなるだけ。足を失うわけでも、歩けなくなるわけでもなかった」


「……ずっと、跳べないままなんですか」


「普通になら跳べるよ。でも、選手として、誰よりも高く跳ぶことはもう二度とない」


「……そんなの、どうやって……」


 立ち直ったんですか、と聞きかけて、僕は思い留まった。立ち直れるわけが無い。どうしようもないことだ。きっと、折り合いをつけただけなのだろう、と続ける言葉を探していた。


「……何も聞かないんだね。やっぱり、キミは優しいね」


 先輩が嬉しそうに笑った。

 その姿に、何故か胸が締め付けられた。


「家族も、チームメイトも、助けた子供の家族も、皆優しかった。だけど、その時の私は脚がもがれたような気分で、前になんて進めなかった。……どん底にいるとね、周りの優しさすら辛いんだ。学校の帰りの電車に乗り込んだ時、死んじゃおうかなってふと思ってしまうくらい」


 僕の沈黙を波の音がかき消していく。


「電車に揺られて、海に向かった。周りの雑踏も聞こえなくて、世界にひとりぼっちになったみたいで。そんな時、誰が忘れていったのか一冊の本が電車の椅子に落ちていたの。誰も気に止めることがないその本が、なんとなく自分に重なって降りる時に拾っちゃったんだ」


「どんな、本だったんですか」


「劇的な何かや奇跡なんかが起こるわけじゃないんだけど、主人公が絶望の淵から這い上がっていく物語。海をテーマに人との関わりや自問自答でじんわりと良い方向に変わってく、周りの人が変わるわけじゃなくて、主人公の向き合い方が変わっていくの」


「海……」


「海の表紙とタイトルに惹かれて、駅のホームで少し読むだけのつもりで捲ったのにね。そのリアルな心情に最後まで読んじゃって、ぼろぼろ泣いちゃった。今すぐには向き合えない、周りも私も変われない、だけど、時間が経てばこの辛い時間の中にある大切さに気がつけるのかもって……」


「それで、後輩の悩みにも向き合ってくれる、今の先輩になったんですか」


「……あははっ、そうだね。その本のおかげで、私の逃避行は失敗。海を眺めても、涙が溢れるだけでもう死のうとは思わなかった。……言葉は、会ったこともない人と人を繋ぐんだ。私があの日に出会った本に救われたみたいに、私もそんな本を書いてみたい」


 先輩の言葉に寄り添うように、波の音が僕らの間に響いた。


「だから……沢山の素敵な言葉を紡げるキミが、その言葉を伝えようとしないのが勿体なかったんだ。……キミなら、きっと誰かの心を揺さぶるような小説が書けるはずだよ」


 穏やかに微笑む先輩の瞳に映る線香花火の灯りが、ゆらゆらと揺れた。

 僕は、先輩から目が離せなかった。


「その、頑張ります。今なら僕も、自分にも書けるんじゃないかって思うから……完成したら、読んでくれますか?」


「勿論だよ!」


 先輩が僕の背中を強く叩く。


「わっ!」


 線香花火の散り菊が、砂に落ちて夜に溶けるように消えた。

 忘れられない情景を僕の心に刻みつけて、夏の夜の記憶を静かに燃やし尽くす。




「……夏休みが終わったら、もう会えなくなっちゃうのかな」




 花火を片付ける透真の背中に、聞こえないくらい小さな声で、千夏が微かに呟いた。

 まるで、これから訪れる別れを予感しているかのように。


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