神の国は来たれり
喉飴かりん
1.五戒
「戦争は人類の堕落した魂を理性から解放し、罪を犯させます。ラルヴァ、ソンジュ、あなたがたも心が荒み悪行を働く可能性があります。だからこそ、神の五戒を厳重に守り、いつも心を神に向けていなさい」
一九四三年、今年の夏に大きな戦争が起き、ラルヴァと弟のソンジュ・イェニは召集兵として出征することになった。
出征の朝、ラルヴァたちは教会の礼拝堂で老シスターから説教を受けていた。祭壇に立つシスターの前にラルヴァはひざまづき、両指を組んで頭を垂れていた。
シスターは両手に持つ十字架をかかげ、『神の五戒』を唱える。
「弱き者を見捨てるべからず、盗むべからず、殺すべからず、姦淫するべからず、神を冒涜するべからず」
ラルヴァたちはシスターの言葉を復唱した。
「弱き者を見捨てるべからず、盗むべからず、殺すべからず、姦淫するべからず、神を冒涜するべからず」
神の五戒とは、神があらゆる罪の中で特にしてはいけないと定めた五つの罪の戒律だ。
貧民、傷病人など困っている人を見捨てず助けなければならない。
他人の物を盗んではいけない。
あいつが憎いからなどと身勝手な理由で殺人を犯してはならない。
性欲に溺れてはならない。
神を冒涜するような行いをしてはならない。
信者のラルヴァたちは厳重にこの五戒を守ってきた。
ラルヴァは祭壇に聳える聖女像を見上げた。十字架に張り付けにされた聖女がラルヴァを見下ろしている。
聖女の背後の壁画には、痩せ細り肋骨の浮き出た者、全身に矢が刺さり血まみれになった者、刃物で人を斬り殺す者、顔に大きな腫れ物が浮き出た病人など地獄絵図が描かれている。
昔々、聖女の降臨したこの国に戦乱、疫病が蔓延して人類の心が荒み、殺人、盗みなどあらゆる罪業が横行していた時代を描いた壁画だ。この乱世から人類を救うため、神は分け御霊を聖女の姿に変えて地上に降臨させた。
暴力を振るう人々、暴力に苦しむ人々、病人や貧民に聖女は五戒を説いた。聖女の伝えた五戒を守った人々は心の安寧を取り戻し、お互いを労り合うようになり、聖女に付き従い生きる道を選んだという。
その聖女の従者が、ラルヴァたちの属する教団『聖女信教』略して聖教を作った。聖教は現在世界中に広まり、多くの信者がおり、教皇が支配する『教国』という国もある。
ラルヴァは両手に握る十字架を額に当てて祈りを捧げた。神よ、戦場でも五戒を守り、決して堕落はしません。弱き者を見捨てるべからずに従い、困っている人たちを助けます、と。
隣で祈りを捧げていた弟のソンジュが訊いてきた。
「兄さん、何をお祈りしたの?」
前髪の長い黒髪、黒真珠のような輝きを放つ流し目、薄橙色の肌を持つソンジュは、美少女のような整った顔立ちをしていた。
美しい弟を見ながらラルヴァは答える。
「僕は⋯⋯戦場でも決して堕落しないようにって。あと、弱き者を見捨てるべからずに従い、困っている人たちを助けますって」
「ぼくは、神のためなら何でもするってお祈りしたよ」
「熱心だこと。神も喜ばれるだろう」
シスターの説教が終わって礼拝堂を出ると、外に子供たちが集まっていた。子供たちは教会付属の孤児院で暮らす孤児たちだ。
子供たちのそばには、垢と泥で汚れた貧民、顔の爛れた娼婦たちもいた。聖教は五戒にある『弱き者を見捨てるべからず』に従い孤児院を作ったり、貧民たちに食べ物を与える慈善活動をしてた。貧民たちは今日、わざわざラルヴァたちを送り出すために貧民街から教会へ来てくれた。
子供たちが駆け寄ってきて、ラルヴァたちを取り囲む。髪の色、肌の色、瞳の色がそれぞれ違う人種民族混在の子供たちが。
「ラルヴァ先生! ソンジュ先生!」
ラルヴァたちは泣きじゃくる子供たちと抱き合い、別れを惜しんだ。家族同然の彼らの悲痛な声に胸を痛めながら、ラルヴァは子供たちをなだめる。
「皆、必ず帰ってくるからね」
子供たちが泣き叫ぶ。
「行っちゃやだよ!」
「お手紙書くからお返事ちょうだい! 約束だよ!」
貧民たちも寄ってきて、口々に別れの言葉を言う。
「ラルヴァ先生、ソンジュ先生にはいつもお世話になりました」
「食べ物をお恵みくださってありがとうございました」
「あなたがたの素晴らしい活動は生涯忘れません」
子供たちがすすり泣きながら敬礼した。
「お国のために、皇帝陛下のために戦ってきてください。私たちも立派な帝国民になりますから」
シスターが悲しげに呟く。
「すっかり洗脳されてしまったわね」
ラルヴァは溜め息をつき、教会の屋根を見上げた。屋根に逆さ向きの十字架が立っている。屋根下には勲章のたくさん付けられた軍服を着た厳つい顔のおじさんの写真があった。ラルヴァはおじさん――この国の象徴たる皇帝陛下を睨む。
(子供たちがあんなこと言うようになったのはお前のせいだぞ、皇帝め)
孤児院の玄関の柱に貼られている看板には『帝国民孤児院』と書かれている。以前は『聖教孤児院』という名前だった。
今年、突然警察官たちが来て強制的に孤児院を改装しやがったのである。十字架を逆さ向きに取り付け、子供たちを洗脳して皇帝陛下を崇めさせるために。
(ここはもう、聖教教会じゃない)
「行こう、兄さん」
皆と別れた後、ラルヴァたちは教会を出て歩兵銃を担ぎながら近場の軍港へ向かった。戦地へ向かう軍艦に乗るために。
街路に軍服姿の人々がちらほら見えた。この街からも男子がごっそり引き抜かれて、女と子供と年寄りだけが残るだろう。ラルヴァは道行く戦友を見てため息をつく。
「帝国と教国の全面戦争勃発で緊急大動員かぁ。本当、迷惑な話だな」
ソンジュもため息をつく。
「兄さんとぼくが待ちに待った聖職者としてのお務めが⋯⋯。開戦時期が最悪すぎるよ」
風で飛ばされてきた新聞紙がラルヴァの足元に絡みついた。新聞を手に取ると、一面に『帝国と教国、全面戦争拡大。未曽有の大動員発令』『暴虐鬼畜の教国、帝国居留民区を爆撃。無辜の帝国民を虐殺』『帝国民は教国を懲罰せよ』という見出しが書かれていた。
ニュース本文の隅には地図が載せられており、海峡を挟んで東西に向かい合う、広大な領土の二つの国と国旗が描かれていた。東の国は『教国』で、白い背景に黒い十字架の国旗。西の国は『帝国』で、赤い背景に白い逆さ向きの十字架の国旗。ラルヴァたちは『帝国』で暮らしている。この両国は、全諸外国の中で一番大きな領土と国力を誇る巨大国家であった。
昔々、この二つの国は一つの『帝国』であった。政治は皇帝が、国教化した聖教を教皇が司っていた。ある日皇帝が海峡向こうの諸小国を支配し、公爵位を与えられた弟と大司教に領土を分配した。
しかし公爵が死に、世継ぎがいなかったことから領土と支配権は大司教に譲られた。大司教はその後次期教皇に選ばれ、彼の支配する領土は『教国』と呼ばれる。教国は帝国の属国になり、その後数百年間政治干渉や領土分譲など嫌な扱いを受け続けてきた。
両国の関係が決定的に悪化したのは、今から三十年前の一九一〇年代。隣の大国が教国に侵略し、帝国は保護する名目で出兵。帝国は大国に勝利し、停戦協定で勝手に教国の領土を分け合ってしまう。これに教国政府が猛反発。帝国は一切謝罪しなかった。更に帝国は勝手に奪った領土に鉄道を敷いた。
ある日その鉄道が何者かに爆破され、帝国は教国がやったと非難した。帝国は教国に侵攻し、大国との国境線付近に傀儡国家を建国してしまう。その国は、年々国力拡大する大国からの侵入を防ぐための巨大防衛地帯だった。帝国からの移民がその国に住み、軍需工場に務めた。
それから帝国は巨大防衛基地を強化するため油田、鉱山、工業地を欲して教国を何度も侵略してきた。あらゆる土地を奪い、居留民区や駐屯軍を配置し、部分的に植民地支配して来た。教国は領土と国力はあるものの兵力は帝国より劣り、負けが続いていた。教国は帝国から勝手に他国と同盟を結ぶなと言われており、助けてくれる同盟国もいなかった。
だが、教国も負けじと近年軍事力を拡大した。そして属国という立場から離脱するため、教国は今年に独立宣言をした。各国の紛争解決や和平交渉を担う国際平和維持連盟会、略して『国盟会』に教国は加盟し、独立を承認してもらった。
当然、教国が無断で国盟会に加盟し、独立してしまったことに帝国は大激怒し、宣戦布告をする。かくして今年の夏に教国と帝国と大規模衝突をした。教国の激しい抵抗に帝国駐屯軍は負け戦を強いられ、これでは持たないと判断したのだろう、帝国軍は国中の男子をごっそり派兵することにした。以上、ラルヴァが新聞、ラジオ、学校などで知り得た限りの国際情勢である。
(暴虐鬼畜の教国か。侵攻を正当化するための決まり文句だな。土地を奪ってきたのは帝国のくせに)
ラルヴァは新聞紙を捨てて後ろを振り返り、孤児院を見た。
ラルヴァが幼い頃からソンジュと共に過ごしてきた孤児院。神学校から孤児院に帰ると孤児たちの世話をし、週末には貧民街へ出かけて貧民や娼婦たちに食べ物を与える慈善活動に勤しんだ。
だが、戦いから帰ってきた頃には帝国によって聖教教会は破壊され、お務めも慈善活動もできなくなっていることだろう。
(もう嫌だ、こんな国。戦争が終わったら、教国人として生きていきたい)
ラルヴァの身は帝国にありながら、心は教国にあった。
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