「夕暮れは魔の者が闊歩しだす時間帯だから、決して一人で出歩いてはいけないよ」
昔の人はそんな風に子どもに言い聞かせて夕暮れに一人歩きすることの危険さを教えたらしい。そんな逸話から逢魔時という言葉が生まれた。昔の人曰く幾多の危険が潜んでいるらしい夕暮れ時に出歩いている私は、今猛烈にくさくさしていた。理由は少し前にお父さんにいわれた言葉だ。
『小説家になんてなれるわけない。いつまでも夢を見ていないでそろそろ現実と向き合ったらどうなんだ』
ぷっちーん。プリンをお皿に出す時の音が脳内でこだまして、「お父さんの分からず屋!」と叫んで家を飛びだしたのが五分ほど前。あのまま家にいたら確実にお父さんとの取っ組み合いになっていた。といっても掴みかかるのは私だけでお父さんが手を出してくることはないんだけど。お父さんも大概だけど、お母さんもいつも黙って見てないでちょっとはお父さんをたしなめたりしてくれてもいいと思う。まあ小説家は看護師とか美容師と違って将来が約束されるわけでもないし、目指している誰もがなれるわけじゃないから反対するのも分かる。私の将来を心配して敢えてきつい言葉を選んだというのも頭では理解している。でも「私にはこれしかない!」って思ったものを頭ごなしに否定されるとどうしても反発したくなるし、怒りに任せて喚き散らす
「まったく、世知辛い世の中だよ」
ちょうどよく足元に転がっていた空き缶を蹴り上げると、すこーんと気持ち良く放物線を描いた炭酸飲料の抜け殻は前を歩いていた男の人の脳天にコンッと直撃した。数学苦手なのに放物線の軌道ばっちり割り出せてるじゃん、なんて現実逃避している場合ではない。私は脱兎のごとく駆けだして男の人の正面に回り込み、素早く頭を下げた。
「すみません! 悪気はなかったんです!」
「……」
返事はない。どうやらたいそうお怒りのご様子。どうしよう、傷害罪で訴えるぞとかいわれたら。慰謝料出せっていわれても今財布持ってないし……と内心冷や汗をかいていると、「これをぶつけたのはお前か?」という体の芯に響くような低くてよく通る声が頭上から降り注ぐ。
「そうです」
こういう時は下手に言い訳をしても火に油を注ぐだけだ。ここは平謝りするに限る。
「俺に恨みでもあるのか?」
「いえ。足元にあったので蹴ったら偶然当たってしまったんです」
「へえ?」
今のへえ? はなにか良からぬことを考えている時の言い方だ。まずい、お命頂戴とかいわれたらどうしよう。
「お前、名前は?」
「名乗るほどのものではございません」
「年は?」
「ご想像にお任せします」
「どこに住んでる?」
「日本国内です」
「……」
矢継ぎ早に繰り出される質問はどれも私という個人を特定しようという意図が感じられる。今は見逃してやるけど近々家まで行くからなっていう一番最悪なパターンを回避するために答えは濁したけど、もしやこれも火に油だった? と
「もっももももしかして、芸能人の方ですか?」
「……俺が芸能人? ククッ、人の顔見て第一声がそれかよ」
おや、お怒りではない? 顔をくしゃっとさせて笑う男の人をみてほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、唐突に後頭部をがしっと掴まれる。なにをするつもりだと男の人を振り仰ぐと、日本人離れした色彩の瞳とかち合う。べっ甲の中に金粉を閉じ込めたような神秘的な輝きを放つ男の人の目の美しさに、私は今置かれた状況を忘れて見入った。
「ふーん、なるほどな。お前、このあと暇か? 暇だな。こい」
回答する間もなく背中を押されて強制的に歩くことを余儀なくされる。まずい、これはまさかの誘拐コースだ。でも過失は明らかに私にあるし肩をがっしり組まれているから逃走することもままならない。
「あの、どこに連れて行く気ですか?」
「特に決めてねえけど」
「え?」
「なんだよ、不満か? なら、」
「いえいえいえ! 大丈夫です。私散歩好きなので」
「奇遇だな。俺も散歩は好きだよ」
「そうなんですね」
……って、うっかり和んでいる場合じゃない! これは世にいうあれだ。知らない人について行ったら事件に巻き込まれてそのまま、という……
「あっあの!」
「なんだよ。そんなに大声出さなくても聞こえる」
「私、良い夜景スポットを知ってるんです。なのでもしよければこれからそこに行きませんか?」
「ああ、いいぜ」
予想した行くわけねえだろという声の代わりに返ってきたのは予想外の承諾。
「いいんですか?」
「おう。だから案内しろよ。俺方向音痴なんだよ」
「分かりました。お任せください」
こうなったら逃走は諦めてこの人をうまーく言いくるめるなり懐柔するなりして穏便にことを済ませる方向でいこう。何事も先手必勝だ。
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