第32話 信じることを恐れる

 アリスは待合室で、リナに耳打ちされたことを思い出していた。


「この先生だって男だし、あの家庭教師と同じに違いないんだから気をつけるのよ」


 リナが指したのは、中学生のアリスについていた家庭教師の男だ。

 大学二年生で、優しくていい人だと思っていた。

 太っていることがつらいとか、勉強についていけないとか、アリスの悩みを真剣に聞いてくれた。


 けれど、アリスが中学三年になったとき、家庭教師が本気でアリスの心配をしていたわけじゃないとわかった。


 アリスが紅茶と茶菓子をとりにキッチンに行き、部屋に戻るとき、家庭教師が誰かと携帯で通話しているのを聞いてしまった。


「そんなわけないじゃん。生徒の姉が美人だからお近づきになろうと思ってバイトしてるだけだって。そうでなきゃなんであんな根暗ブスの先生なんてーー」


 優しい先生だとアリスが勝手に思い込んでいただけ。

 リナに会うためだけに家庭教師をしていたのだ。

 家庭教師には、その日を最後にやめてもらった。

 紅茶を見るたびに、あの日の絶望を思い出す。


 アリスに優しくする男はリナ目当て。話しかけてきてくれるクラスメートもいたけれど、二言目には、「リナさんってどんな男が好み?」と聞いてくる。

 それ以来アリスは、男性を信用できなくなっていた。


 初田もリナの魅力にとりつかれて、アリスを利用するんじゃないか。そんな不安があった。




「……スさん、アリスさん、大丈夫ですか?」


 目の前に、受付の女性ネルがいた。気づいているのかいないのか、左右違う靴下をはいている。

 膝掛けを二枚手にしていて、アリスの顔をのぞき込んできた。


「一応暖房はいれているんですけど、寒かったですか? ひざかけ、使ってくださいね。ホットミルクもありますよ」

「え……」


 ネルはアリスの答えを聞く前に、アリスの肩と膝に厚手の膝掛けを広げた。


「今日は特別に桜ハチミツですよ~。桜の香りがするでしょう」

「で、でも、あたし……太るのは」

「ホットミルク一杯じゃ太りませんよ。私はこの九年、毎晩飲んでいるけれど太らなかったです。ほら私、特別痩せているわけじゃないけど、太ってはいないでしょう? 問診票にはアレルギーなしと書いておられたので、飲めると思うんです」


 無邪気な笑顔で差し出されるカップ。

 同じ女性と言うこともあってか、ネルはアリスの太りたくないという言葉を尊重し、さりげなくフォローする。


「それに、お腹の中から温まると寒いのが和らぎます。ホットミルクは心が落ち着く効果もあるんです。おかわりも作るので、足りなかったら言ってください。要らないなら、あとで私が飲みます」

「あ、りがとう」


 医者以外の他人と中身のある会話をしたのは、どれくらいぶりだろう。

 アリスの冷え切っていた指先は、カップの熱でじんわりと温まった。


 ひさしぶりに、少しは胃に入れて良いかもしれないと思い口をつけた。熱すぎないほどよい温度で、甘いミルクが喉を通っていく。

 それを見届けて、ネルはゆっくりした口調でアリスに聞く。


「痛くないですか」

「べつに、腕を切るなんていつものことだし」

「腕だけじゃなくて、ここ」


 ネルは自分の左胸に手を当てて、目を細める。


「アリスさん、とても辛そうなので。悩みがあったら初田先生になんでも言ってくださいね。男性の先生に言いづらいことなら、私にでもいいです」

「あんたはただの受付で、あたしは次来るかも分からない人間。どうしてそこまで親身になれるの。なにが目的?」


 アリスなら、仕事であってもこんな面倒くさい人間に関わり合いたいと思わない。


 あの家庭教師がそうだったように、アリス自身もこんなに偏屈で卑屈な人間と話すなんて願い下げだ。


 古くからの友だちにするように優しくしてくれるネルのことが理解できなかった。


「んー。なにも考えてなかったです。にいさんがいつもそうしてくれるから、私もそうしているだけで」

「あなた、お兄さんがいるの?」

「ええ。直接の兄ではないですが、血縁です。診察室で会ったでしょう」


 診察室にいた男なんて、初田しかいない。アリスは驚くより、納得してしまった。


 初田とネル、顔はどこも似ていないけれど、まとう雰囲気というか、空気がよく似ている。

 ぬるま湯や陽だまりのようとでもいうのか。

 苛立って怒鳴っても、毒気を抜かれてしまう。


「ホットミルク、もっと飲みません?」

「もういいわ、ありがと」


 診察室の扉が開き、ウサギ頭が顔を出す。


「アリスさん。もう一度診察室に来てもらえるかな。次の来院について話をしたいから」

「わかった」


 診察室に入ると、予想に反してリナがどこか不機嫌そうな顔をしていた。初田がのんびりと食事指導に関する話を始める。


 次の来院時は両親どちらかに同伴してもらいたい。それがむりなら一人で来るようにと。


 なんというか、リナに来てほしくなさそうな意図を感じた。

 一通り説明を終えて、初田は棚から小冊子を取ってアリスに渡す。『胃にやさしい食事』と書かれた本だ。


「これまであまり食べてこなかったところをいきなり食べると、胃がびっくりしちゃうからね。ホットミルク、お米が少なめのやわらかいおかゆ、バナナ、ヨーグルト。そういうものを食べられるときに少量でも良いから食べてね」


「ホットミルクならさっきもらったわ」

「それはよかった。根津美さん、毎日作っているからホットミルク作りは得意なんだよ」


 初田はまるで見てきたかのような調子で言う。

 黙っていたリナが口を開いた。


「本当に、私は付き添わなくてもいいと? アリスのこと心配なんですが」

「だってあなたから聞けることはもうないですし、中学時代の通院のことはお父さんとお母さんじゃないとわからないのでしょう?」


「それは、そうですけど」

「忙しいのなら無理しなくていいです。どうぞご自分のお仕事を全うされてください」


 ここまで言われて付き添いになんてこれないだろう。アリスはリナがもう一緒に来ないことを、心のどこかで嬉しく思った。


 ここ最近行った精神科には、今回のように「父さんたちは忙しいから」と理由をつけてリナが同行していた。


 男性医師だった場合は大半、姉はきれいなのに、と目が言っていた。そのたびに惨めな思いをする。

 善意で付き添いをしてくれているのに、アリスには姉の善意が重荷だった。



 初田は卓上カレンダーをアリスに見せながら聞いてくる。


「ご両親の休みの日はどこかな。水曜と日曜が休診だから、それ以外の平日か土曜のどこか」

「ええと、たしか母さんが月曜休みだったと思う」

「それじゃあ二週間後の月曜、今日と同じ時間でいいかな」


 アリスがうなずくと、初田は診療予定表にさらさらとアリスの名前を書き込んだ。

 ちらりと目に入っただけでも、びっしりと予約で埋まっている。

 変な人だけど、これだけの患者が訪れるくらいには信頼されている。


「それではアリスさん。またお待ちしています」


 穏やかな声で見送られ、診察室を後にした。

 受付で会計を済ませるとき、ネルが明細書とは別に、手のひらに収まる瓶をくれた。


「桜ハチミツです。よかったらホットミルクを作るときに使ってくださいね」

「なんか見るからに高そうなんだけど、これいくらするの」


「私が勝手にプレゼントするだけなので、お代は要りませんよ。ホットミルク仲間を増やしたいだけです」

「ホットミルク仲間ってなにそれ」


 意味が分からないけど、ネルが真剣に言うのでアリスは笑ってしまった。

 笑うなんていつぶりのことだろう。

 本当にお金は要らないと言うので、素直に受け取ることにした。



 夕方。母・皐月さつきがパートから帰り、アリスは今日もらった冊子を渡した。

 皐月が冊子を読む間に、次回来院の付き添いをお願いする。


「初田先生が、中学時代の症状や通院のことも聞きたいから来てほしいって」

「あらそうなの? リナちゃんが、『私が全部引き受けるからなにも心配要らない』って言っていたのに」

「それは初田先生に言って。あたしは言われたことを伝えているだけ」


 皐月はリナに全幅の信頼をおいているから、リナが「私に任せて」と言えば本当に全部任せてしまう。


「確かにお休みだから付き添えるわ。初田先生ってどんな先生なの?」

「変な人。ウサギのマスクをかぶっているよ」


 アリスにだけマスクを外して見せたのは、アリスを少なからず信用しているからだと、アリスは思う。

 初田もまた、誰かの犠牲になり肩身の狭い思いをしている仲間だった。


「変だけど、悪い人ではなかった」

「そう。アリスがお医者様をそこまで褒めるなんて、初めてかもしれないわね」


 皐月に言われて、アリス自身、自分が初田を信用し始めていることに驚いた。

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