ケース3 有沢アリスの場合 〜自傷癖のアリスと美貌のロリーナ〜

第30話 傷だらけのアリス


 二月の終わり、新たな患者が初田ハートクリニックの扉をくぐった。

 初田が以前勤めていた、総合病院の鳩羽はとばからの紹介状を持っている。


 有沢ありさわアリス。二十二歳。若い女性に付き添われて診察室に入ってきた。


 院内は暖房が効いているので、アリスが脱いだコートを女性が脇に抱えている。


 アリスは病的なまでに痩せていた。

 痩せている人を指す言葉で骨と皮というものがあるが、アリスはまさにそれだ。

 デニムパンツをはいた足は棒のよう。

 ロングTシャツからのぞく腕はリストカットの傷痕だらけ。

 手の甲には、喉に手を入れて食べた物を嘔吐する人間特有の傷痕ができている。

 初田を見る顔は肌がかさつき、生気がない。茶髪は染めてからだいぶ経っていて、根元の黒がだいぶ見えてしまっていた。


「アリス、ほら先生にご挨拶をなさい」


 女性に促され、アリスは会釈してから椅子に腰かけた。


 たいていの人間はウサギマスクを見た途端ふざけんなと怒るが、この二人は動じなかった。

 ネルが紅茶を運んできて、初田はアリスに紅茶を勧める。


「わたしがここの医師、初田です。どうぞよろしく、アリスさん。もっと紅茶をどうだい」

「……いら、ない」


 アリスは掠れた声で、一言だけ答えた。視線は足元、自分の肘を抱え込むように腕をさすっている。


「アリスさんから事情を聞きたいので、あなたは外に出ていていただけますか」


 初田はいつもの調子で、付き添いの女性にお願いをする。

 女性は一瞬顔をしかめたが、すぐに微笑み、頬に手を当てながら小首をかしげる。


 ミイラのようなアリスと違い、出るところが出て腰はくびれている。はやりのワンピースに流行色のメイクをしていて、指先も綺麗にネイルアートが施されていた。


 自分が美しいとわかっているタイプの人間だ。女性の笑顔には、美貌への自信がありありと見えた。



「私がいては不都合ですか? 姉として、妹がなにかされないか心配です」


「アリスさんのお姉さんですか。心配なのはわかりますが、ご家族が一緒だと萎縮して話せない人も多いのです。だから待合室で待機してもらえませんか。適切な治療をするためにも、本人から話を聞くのは必要なことです」


 初田の説得に応じて、姉はアリスに何か耳打ちしてから診察室を出て行った。

 初田と二人きりになり、アリスは怯えた目をしたまま初田と向き合う。


「間違っていたら謝るけれど、アリスさんはお姉さんのこと苦手かな?」

「そ、んなこと……だって、リナお姉ちゃんは中学の時からモデルやってて、SNSでも万フォロワーの人気者で……、あたしなんかより、ずっと綺麗だし、スタイル良いし……。あたしなんてだめなとこしかなくて」


 アリスは必死に、姉のリナは人気で好かれる人間だと説明する。

 姉をたたえる一方で、自分を卑下する呪詛じゅそを吐く。



 有沢アリス

 自傷癖、嘔吐癖あり

 いくつもの個人病院をはしごして、(セカンドオピニオン目的ではない)集めた睡眠薬を大量に飲み、総合病院に搬送される。

 胃の洗浄措置、入院後、初田ハートクリニックへの紹介状を出された。

 ーー紹介状からわかるのは以上だ。



 アリスが抱えた問題を解決するには、初田の方がいいと、前の主治医である鳩羽が判断した。


 自傷行為に走る理由は患者によって異なるが、“生きている実感がほしいから”“注意を引きたい、愛してほしい”“自傷する自分を止めてほしい”という理由であることが多い。

 死にたいから手首を切るのではない。

 自殺で手首を切るという非効率な手段を取る人間は少ない。


 多くの自殺者は、飛び降り、列車ホームへの飛び込み、首吊りなど確実に死ねる方法を選ぶ。


 アリスは心に抱えたものを明確な言葉にできないだけで、助けを必要としている。

 まずはアリスとの対話を通じて、アリスが苦しんでいる元凶を特定しなければならない。


「そんなに自分を嫌わないでください、アリスさん。人は見た目だけが全てではありません。顔を隠したウサギに言われても説得力が無いかもしれませんが」

「うん。ぜんぜん説得力が無い」


 初田は問診票を見ながら質問をする。


 家族と同居、独身、恋人なし

 家族構成は

 父 有人あると 六十一歳

 母 皐月さつき 五十八歳

 姉 リナ 二十四歳

 高校受験失敗後、実家で暮らす


 


「最後に生理が来たのはいつですか」

「は?」

「形式的な質問なので深い意図はないですよ。どの病院でも聞かれたでしょう」


 眉を寄せるアリスに、初田は続ける。


「健康指標のBMI値って聞いたことがありませんか。アリスさんは身長一五七センチメートルに対して体重が四〇キログラム。健康を害するレベルで痩せすぎ。生理が止まるとされている数値です」

「……たしかに止まっているわ。去年の夏にはもう無かった。でもそれがなに」


 女性にとって、男から月経の話を振られるのは愉快なものではない。

 アリスも例にもれず、不快をあらわにした。


「男のわたしにこういうことを指摘されるのは腹が立つでしょうが、あまり痩せすぎていては生命に関わる病気になってしまいます。まずは食生活を改善して適切な体重に戻すこと、それから……嘔吐をやめなければなりません」


 嘔吐、と指摘されてアリスは手を強く握りしめた。唇をかんで体を震わせる。


「食べて太れって言うの? 冗談じゃない。あたしは太りたくなんてない。モデルの妹のくせにデブスだってイジメられたあたしの気持ちが、あんたにわかる!?」

「そうですね、体重のことではないですが、わたしも理不尽に罵られる人生を送っているので。わかります」


「嘘よそんなの。表面上で理解者のふりをしているだけでしょ! 医者なんてみんな同じよ。あんただって、あたしのこと、ブスで手のつけようがない精神異常者ってバカにして笑うんだ」


 人を疑い、怯え、自分を傷つけずにはいられない。

 アリス自身にも、どうにもならないのかもしれない。


 本来なら患者に顔をさらさない。

 けれど、アリスを納得させるためには必要なことだと思い、初田はウサギマスクに手をかけた。

 事件当時何度もテレビで特集を組まれていたから、アリスもこの顔・・・を見たことがあるだろう。


 初田の顔を直視して、アリスは唾を飲み込んだ。


「その、顔」

「今、嘉神平也だと思ったでしょう? 残念ですが違います。わたしは初田初斗。ここ初田ハートクリニックの院長。この顔のせいで、あの事件以降の九年でさんざん石を投げられてきました。わたしがなにもしていないのに、人はわたしと平也を同一視して罵る」


 笑顔を浮かべて、初田は一礼する。


「わたしはそれしきのことで傷つくたまではないので無問題です。

 アリスさん。迷いの森から抜け出したいと思うのならば、この手を取りなさい。わたしが必ず、暗闇の外に導きましょう」

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