ケース3 有沢アリスの場合 〜自傷癖のアリスと美貌のロリーナ〜
第30話 傷だらけのアリス
二月の終わり、新たな患者が初田ハートクリニックの扉をくぐった。
初田が以前勤めていた、総合病院の
院内は暖房が効いているので、アリスが脱いだコートを女性が脇に抱えている。
アリスは病的なまでに痩せていた。
痩せている人を指す言葉で骨と皮というものがあるが、アリスはまさにそれだ。
デニムパンツをはいた足は棒のよう。
ロングTシャツからのぞく腕はリストカットの傷痕だらけ。
手の甲には、喉に手を入れて食べた物を嘔吐する人間特有の傷痕ができている。
初田を見る顔は肌がかさつき、生気がない。茶髪は染めてからだいぶ経っていて、根元の黒がだいぶ見えてしまっていた。
「アリス、ほら先生にご挨拶をなさい」
女性に促され、アリスは会釈してから椅子に腰かけた。
たいていの人間はウサギマスクを見た途端ふざけんなと怒るが、この二人は動じなかった。
ネルが紅茶を運んできて、初田はアリスに紅茶を勧める。
「わたしがここの医師、初田です。どうぞよろしく、アリスさん。もっと紅茶をどうだい」
「……いら、ない」
アリスは掠れた声で、一言だけ答えた。視線は足元、自分の肘を抱え込むように腕をさすっている。
「アリスさんから事情を聞きたいので、あなたは外に出ていていただけますか」
初田はいつもの調子で、付き添いの女性にお願いをする。
女性は一瞬顔をしかめたが、すぐに微笑み、頬に手を当てながら小首をかしげる。
ミイラのようなアリスと違い、出るところが出て腰はくびれている。はやりのワンピースに流行色のメイクをしていて、指先も綺麗にネイルアートが施されていた。
自分が美しいとわかっているタイプの人間だ。女性の笑顔には、美貌への自信がありありと見えた。
「私がいては不都合ですか? 姉として、妹がなにかされないか心配です」
「アリスさんのお姉さんですか。心配なのはわかりますが、ご家族が一緒だと萎縮して話せない人も多いのです。だから待合室で待機してもらえませんか。適切な治療をするためにも、本人から話を聞くのは必要なことです」
初田の説得に応じて、姉はアリスに何か耳打ちしてから診察室を出て行った。
初田と二人きりになり、アリスは怯えた目をしたまま初田と向き合う。
「間違っていたら謝るけれど、アリスさんはお姉さんのこと苦手かな?」
「そ、んなこと……だって、リナお姉ちゃんは中学の時からモデルやってて、SNSでも万フォロワーの人気者で……、あたしなんかより、ずっと綺麗だし、スタイル良いし……。あたしなんてだめなとこしかなくて」
アリスは必死に、姉のリナは人気で好かれる人間だと説明する。
姉をたたえる一方で、自分を卑下する
有沢アリス
自傷癖、嘔吐癖あり
いくつもの個人病院をはしごして、(セカンドオピニオン目的ではない)集めた睡眠薬を大量に飲み、総合病院に搬送される。
胃の洗浄措置、入院後、初田ハートクリニックへの紹介状を出された。
ーー紹介状からわかるのは以上だ。
アリスが抱えた問題を解決するには、初田の方がいいと、前の主治医である鳩羽が判断した。
自傷行為に走る理由は患者によって異なるが、“生きている実感がほしいから”“注意を引きたい、愛してほしい”“自傷する自分を止めてほしい”という理由であることが多い。
死にたいから手首を切るのではない。
自殺で手首を切るという非効率な手段を取る人間は少ない。
多くの自殺者は、飛び降り、列車ホームへの飛び込み、首吊りなど確実に死ねる方法を選ぶ。
アリスは心に抱えたものを明確な言葉にできないだけで、助けを必要としている。
まずはアリスとの対話を通じて、アリスが苦しんでいる元凶を特定しなければならない。
「そんなに自分を嫌わないでください、アリスさん。人は見た目だけが全てではありません。顔を隠したウサギに言われても説得力が無いかもしれませんが」
「うん。ぜんぜん説得力が無い」
初田は問診票を見ながら質問をする。
家族と同居、独身、恋人なし
家族構成は
父
母
姉 リナ 二十四歳
高校受験失敗後、実家で暮らす
「最後に生理が来たのはいつですか」
「は?」
「形式的な質問なので深い意図はないですよ。どの病院でも聞かれたでしょう」
眉を寄せるアリスに、初田は続ける。
「健康指標のBMI値って聞いたことがありませんか。アリスさんは身長一五七センチメートルに対して体重が四〇キログラム。健康を害するレベルで痩せすぎ。生理が止まるとされている数値です」
「……たしかに止まっているわ。去年の夏にはもう無かった。でもそれがなに」
女性にとって、男から月経の話を振られるのは愉快なものではない。
アリスも例にもれず、不快をあらわにした。
「男のわたしにこういうことを指摘されるのは腹が立つでしょうが、あまり痩せすぎていては生命に関わる病気になってしまいます。まずは食生活を改善して適切な体重に戻すこと、それから……嘔吐をやめなければなりません」
嘔吐、と指摘されてアリスは手を強く握りしめた。唇をかんで体を震わせる。
「食べて太れって言うの? 冗談じゃない。あたしは太りたくなんてない。モデルの妹のくせにデブスだってイジメられたあたしの気持ちが、あんたにわかる!?」
「そうですね、体重のことではないですが、わたしも理不尽に罵られる人生を送っているので。わかります」
「嘘よそんなの。表面上で理解者のふりをしているだけでしょ! 医者なんてみんな同じよ。あんただって、あたしのこと、ブスで手のつけようがない精神異常者ってバカにして笑うんだ」
人を疑い、怯え、自分を傷つけずにはいられない。
アリス自身にも、どうにもならないのかもしれない。
本来なら患者に顔をさらさない。
けれど、アリスを納得させるためには必要なことだと思い、初田はウサギマスクに手をかけた。
事件当時何度もテレビで特集を組まれていたから、アリスも
初田の顔を直視して、アリスは唾を飲み込んだ。
「その、顔」
「今、嘉神平也だと思ったでしょう? 残念ですが違います。わたしは初田初斗。ここ初田ハートクリニックの院長。この顔のせいで、あの事件以降の九年でさんざん石を投げられてきました。わたしがなにもしていないのに、人はわたしと平也を同一視して罵る」
笑顔を浮かべて、初田は一礼する。
「わたしはそれしきのことで傷つくたまではないので無問題です。
アリスさん。迷いの森から抜け出したいと思うのならば、この手を取りなさい。わたしが必ず、暗闇の外に導きましょう」
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