第29話 狂える3月ウサギと、鏡映しの帽子屋

 初田ハートクリニックは順調で、新しい患者も増えている。

 本日最後の患者、珠妃コウキが帰るのを見送ってから、クリニックの扉を閉めた。


 十二月の半ば、アーケードのクリスマス飾りが雪の帽子を被っている。

 五メートルはあるクリスマスツリー、トナカイの形をした植木、星型の電飾。BGMはクリスマス曲のオルゴールメドレー。

 これらは近所の雑貨屋店主が主導している。


 玄関のガラス扉にCLOSEの札を下げながら、初田はネルに声をかける。


「ネルさん、明日は通院日でしょう。今のうちにノートを渡しておきますね」

「あ、だめですよ初田先生。仕事とプライベートは分けるって約束したのは先生の方なのに」

「すまないね、つい。根津美さん」


 仕事の時に名前で呼び合うと変に勘ぐられてしまうからと、診療時間はお互い名字で呼ぶと取り決めをしていた。

 

「夕ご飯のおかずを一品あげるので、許してください」

「たくさん食べたら太っちゃうからいいですよー。焼き鮭は一度に二つもいりません」


 ネルはクスクスと笑って、後片付けを始める。

 明日はクリニックの休診日、かつネルの通院日だった。


 翌日九時。

 初田の手記を渡すと、白兎は丹念に目を通す。


 出会ったときに宣言したとおり、初田は一日も欠かすことなくネルの症状を記録していた。

 体温、血圧、症状、八年分取り続けた記録は、初田の誠実さの表れだった。

 ページを繰る白兎の右手薬指には結婚指輪がはまっている。

 白兎はこの八年の間に結婚し、今では五歳の息子を持つお母さんになっていた。


「ふむ。最近はだいぶ症状が落ち着いてきたな。薬の量を減らしても大丈夫そうだな」

「そうですか? それはよかった」


 葬儀の日、初田が病院に行って検査しようと言い出さなければ、ネルは今ここにいなかった。


「次の通院は五週間後……いつも通り水曜でいいな。なにか聞いておくことはあるかい」

「一月の半ば、友だちの結婚式に呼ばれているんですけど、そういうところに参加しても大丈夫ですか」

「飲酒を控えてくれ。そこさえ守れば大丈夫だ」

「わかりました」


 病院を出て、ネルは雪のちらつく道を歩く。

 病院前から発車するバスが、都合のいいことに友子の暮らすアパート近くの停留所にとまってくれる。


 友子に年末の挨拶をしてから家に帰るのが今日の予定だった。

 バスに揺られながら、スーパーのチラシを片手に、ネルは頭の中で夕飯の献立を考える。


 冷蔵庫にぶりがあった気がするから、作るとしたらぶり大根。初田が和食好きなので、ネルはがんばって和食のレパートリーを増やした。

 

 なにを作ってもおいしいと褒めてくれるので、作る甲斐があるというもの。

 おにぎりしか作れなかった時だって、いつもおいしいと言って笑顔で食べてくれていた。




 小一時間ほど友子のところで過ごし、お土産のお煎餅をもらって家路につく。

 友子の住むアパートの最寄り駅から電車で二駅いくとクリニックの最寄り駅だ。


 歩行者信号が青になり、歩き出す。

 向かいから歩いてきた男に、ふと視線が行く。

 マスクで口元を隠していて、服装は黒いカッターシャツにジャケット。ぱっと見の年齢は四十手前。

 目元は初田を鏡映しにしたような、端正なつくりをしている。


 初田はウサギマスクをかぶるようになるまで、普通のマスクで口元を隠していた。だからマスク姿もよく覚えている。

 顔だけならそっくりそのまま初田なのに、まとう雰囲気はまったくの別物。

 近づくだけで凍り付いてしまいそうな、冷たい空気がある。


 目の前の人はネルを見ても素通りしようとしている。

 ネルはすれ違う前に、男に声をかけた。


「にいさんは、ここにいますか?」


 男は怪訝そうに眉をひそめた。


「誰だお前。俺に妹なんていねえよ」


 初田と全く同じ声なのに、出てくる言葉はけだる気で乱暴だ。


「ごめんなさい、ひとちがいでした」


 頭を下げて急いで横断歩道を渡りきる。道の端に立ち止まって携帯電話の短縮1を押した。

 2コールですぐに相手が出る。


「初斗にいさん、初斗にいさんはいま、家にいる?」

『どうしたんですか、ネルさん。ちゃんと家にいますよ』


 さっきすれ違った男は横断歩道の向こうにーーいや、いつの間にか、ネルのすぐ前に立っていた。

 恐怖で体がこわばる。


『ネルさん?』

「いま、初斗って言ったな。お前、初斗の女か。こんなボケッとした小娘がいいなんて、意外な趣味だな」


 平也はネルの携帯電話を奪い取ると、電話の向こうの初田に呼びかける。


「よう初斗。久しぶり」

『……兄さん!? なんでネルさんの携帯に』

「へえ。こいつネルっていうのか。まあいいや。噂で聞いたけど、お前も医者やってんだって? 血は争えないねえ」

『兄さんと血が繋がっているのを今ほど嫌だと思ったことはないよ。さっさと出頭してくれないかな』

「けっ。お前は昔っから説教ばっかでイヤんなるぜ」


 平也はネルに携帯を投げ返して、どこかに行ってしまった。

 震える手で、ネルは携帯を握りしめる。


「にいさん、初斗にいさん」

『ネルさん、大丈夫ですか。平也は』

「どっかいっちゃった」

『すぐ迎えに行きます。できるだけ人通りの多いところにいてください』

「うん」


 駅前の石像前に座ってひたすら初田を待つ。初田が迎えに来てくれるまで、生きた心地がしなかった。


「ネルさん!」

「にいさん」


 初田にすがりついて、手を握る。いつもの温かい手だ。

 ウサギマスクはやっぱりとっても目立つから、人がちらちらとこちらを見ている。


「初斗にいさんはここにいる?」

「わたしは初田初斗。ちゃんと、ここにいますよ」


 ネルは呼吸を落ち着けて、さっき平也とすれ違ったことを話す。初田は静かに話を聞いて、背中をさすってくれた。


「この町のどこかに住んでいるのか、それとも偶然この駅で降りただけなのか……」


 初田が近辺に住んでいるからこそ、この町に潜伏していたという可能性もある。

 誰かに「嘉神平也では?」と指摘されても初田初斗だと名乗れば逃げられるのだから。

 

 初田の存在があるからこそ、平也はいつまでも逮捕されずにいた。これ以上の屈辱があるだろうか。



「帰りましょうネルさん」

「うん」


 ネルは差し出された手を取る。

 いつもよりも初田の手に力が入っている。

 平也がネルの存在を知って、何かしてくるのではないかという不安と恐怖が、初田の心の片隅に住み着く。

 何があっても必ず守らなければならないと、心に誓った。




 ケース2 根津美ネルの場合 ~眠り病の同居人~ 終

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