第22話 同居するだけなのに、まわりから変に期待されて困る
「女の子と同棲するんだって? 初斗、あんたにもとうとう春が来たのね。母さん嬉しいわ」
翌朝、母・初音の病室に顔を出したら第一声がこれだった。
初音は
女性患者の大部屋のため、ほかの入院患者たちが聞き耳を立てているのがわかる。
「なにを言っているんだい母さん。今は夏だよ」
「女の子と住むことは否定しないのね。早く母さんにも紹介しなさい」
「……昨日の今日なのにどこから聞きつけたんだ」
「さっき朝食を運んできた看護師さんが話してくれたわ」
女性の情報ネットワークというのは侮りがたい。
初音のようにSNSをしないような人間でも、いつの間にか話題を聞きつけている。
同居すると言っても二人の間に恋愛感情などない。経緯をきちんと説明しているのに、初音はまだ笑っている。
「手術が終わって三日だろう。あまり笑うと傷に響くと思うんだ」
「ほらそれ。そういうことには頭が回るのに。……あんたの変わり者なところを知った上で同意してくれるんだから、ネルちゃんはよっぽど心の広い子なのね」
これ以上話しているといじり倒されるだけな気がして、初田は早々に退散した。
仕事の合間も、昨日の時点でいなかった医師や看護師から根掘り葉掘り質問攻めにされる。
「初田先生のことは今日から
「嫁にするつもりで引き取るんじゃないよ」
「兄妹でもない妙齢の男女が同棲するんだから、なにも起こらないわけがないだろう。俺が嫁と婚約中に同棲した時なんてなーー」
先輩医師の妄想と自慢を聞くのがめんどうになり、初田は生返事だけしてレポートまとめに脳のリソースを割く。
(なんでみんなこういう俗な話が好きなんだろう)
ネルに対して劣情を持っていると勘ぐられるのは楽しいものではない。
「初田先生。脳神経内科から内線です」
天の助けだ。白兎からの電話はネルの検査結果が出たという知らせだった。
ネルの病室に入ると、私服姿のネルが手を振って初田を迎えた。もうPSGの機器は取り外されている。
グレーのキャミソールに膝丈のスカート、年齢相応の服装だ。左右違う靴下をはいていることには気づいているのだろうか。
「おはようネルさん。よく眠れたかい」
「ぐっすり」
初田が病室に入ってからすぐ白兎が来た。
「初田君も目を通してくれ」
渡されたのはPSGの検査結果だ。ナルコレプシー患者の特徴が出ていた。
白兎はひとつせきばらいをして、ネルに切り出す。
「ネルさん。検査の結果について説明するからよく聞いてほしい。それと、ネルさんはいま夏休み中だろう。今の学校に通い続けるのならば、学校の協力を得る必要がある」
「はい」
ネルはナルコレプシーという病気のこと、何年も投薬治療をしなければならないことなど黙って聞いた。
それから薬の副作用についてや、日中に昼寝をとることで症状が緩和されるなどの対処法を教わる。
「絶対治るわけじゃ、ないの?」
「そうだな。あくまでも、今の医学では対症療法しかない。ああ、対症療法って言うのは、薬を飲んで症状を緩和させることを言う」
初田が事前に話したように、白兎もまた、完治するとは言わなかった。医者としてできることとできないことははっきりと言う。下手に期待を持たせることはできない。
顔を曇らせるネルに、初田は冷静に伝える。
「ネルさんと同じナルコレプシーでも、きちんと社会に出て働いている人もいる。どうしても健康体の人より選択肢は少なくなってしまうけれど、その選択肢の中で好きな道を選べるよう、わたしが協力しよう」
「ありがとう、初斗にいさん」
同じ病の人でも社会生活を送れているのだと知って、ネルは少しだけ表情を和らげた。
初田の勤務が終わってからネルの退院手続きをして、生活指導の書面や学校に提出するための診断書をもらう。
症状緩和のため、日中に少しでもいいから昼寝の時間をとる必要がある。昼休みに保健室で眠ることができるなら最良だが、こちらの事情を必ずしもくんでもらえるとは限らない。
学校側が協力できないと言った場合は、特別支援学校に転校することになる。
これは通っている学校が悪いわけではない。
普通の学校というのは日常生活を送れる前提で時間割が成り立っている。
障害がある生徒へのサポートが充実している特別支援学校と同じものを求めるのは酷というものだ。
帰りの車の中、初田は助手席のネルに問いかける。
「ネルさんには将来の夢ってあるかい」
「探している途中」
素で詩人みたいなことを言い出したので、初田は笑ってしまう。
今度はネルが聞いてきた。
「にいさんには、夢、ある?」
「わたしは独立して、自分のクリニックを持ちたいな」
「良いと思う」
これが医師の先輩だったら、「お前みたいな若造には無理だ」と返されていたことだろう。
しばらく他愛のない話をしてマンションに着いた。
エレベーターで三階にあがってすぐの部屋だ。
ダイニングキッチンには、観葉植物のパキラやガジュマルが置かれている。
「はい、ネルさん。今日からここもネルさんの家だからスペアキーをあげよう」
「ありがとう。にいさんは、お花が好きなの?」
「わたしの趣味ではなくて、母さんがたまに持ってくるんだ。アパートに置ききれなくなったからって」
じっとガジュマルに見入っているネルに、初田は教えてあげる。
「ネルさん、こっちが風呂。ここがトイレで、そっちの部屋が寝室」
「たたみ」
「畳に敷きふとんって落ち着くよね」
畳部屋にはたたまれたふとんと小さなテーブル、卓上ライトが置かれている。テーブルには医学書が数冊積んである。ネルは一番上の一冊を開いてみたけれど、専門用語ばかりでちんぷんかんぷんだった。
「明日、お母さんに連絡して学用品や荷物を取りに行こうか。宿題もたくさんでているだろう?」
「出てるけど、まだほとんどやってない」
「数学以外なら手伝えるよ」
「にいさん数学嫌いなの?」
「そう。数学は正解があるから嫌いなんだよ」
簡単な夕飯を済ませて交代で風呂に入って、九時過ぎにはふとんを並べて敷く。
ネルには、初音が泊まりに来たとき用のふとんを使ってもらうことになった。
初対面の親戚の家で暮らすことになったというのに、ネルはあまり動じていない。
何年もここに住んでいたかのような落ち着きぶりで、いっそ初田の方が驚いた。
初田は大学入学を機に一人暮らしを始めたから、誰かが家にいるというのはずいぶんと久しぶりの感覚だ。
おやすみ、と挨拶を交わして眠りにつく。
奇妙な同居生活はこうしてスタートした。
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