第17話 帽子屋のお茶会は続く

「いらっしゃい。待っていたよコウキくん」

「おはようございます、先生。よろしくおねがいします」


 診察室に入ったコウキは深くお辞儀をしてから日記を差し出す。

 ここでまず一つの変化だ。これまでコウキは診察のさいに挨拶をすることはなかった。

 礼美に礼節について教わったのだろう。


「話すこと、たくさんあったよ」

「そうか。それは読むのが楽しみだ」


 日記によると、礼美と秀樹の離婚はものの一週間で決着した。

 裁判沙汰になれば、職場の人間に理由を知られる危険がある。

 自尊心の塊である秀樹はそれを良しとしなかった。

 養育費を一括で支払い、離婚届にサインをした。


 最初の数日はビジネスホテルで生活していたけれど、その後は即入居可能な家具家電付きマンションに住居を移した。

 礼美と二人暮らしになってからは勉強をしいられることもなく、穏やかな生活になっているようだ。


「新しい部屋の住み心地はどうだい」

「わるくない。窓から山が見えるよ」

「それはいい立地だ。川沿いに遊歩道があるから、お母さんと一緒に歩いてみるといい。犬の散歩をしている人や、ジョギングする人も多いんだ。冬になると歩けないから、いくなら今のうちだよ」

「うん。行ってみる」


 コウキはポケットからスマホを取り出し、やりたいことリストに遊歩道の散歩を書き込んだ。老齢者向けの簡単スマホだが、コウキはとても嬉しそうだ。

 ネルから渡されたカルテの情報は、固定電話の情報を二重線で消されたあと、礼美とコウキの携帯電話番号が記載されていた。


「さすが若い子は使いこなすのが早いね。まだ買ってからひと月経っていないだろう?」

「母さんが、困ったときのためにって買ってくれた。母さんも同じのを持ってるよ。試しに家の外で電話してみたら本当に声が聞こえるから驚いた」

「ふふふ。携帯電話は海外でも通じるんだよ。いつか試してみるといい」


 新しいことにふれるたび、コウキの表情は豊かになっている。

 このまま礼美と二人三脚で治療を続けていけば、数年で同年代の少年たちと変わらない生活を送れるようになるだろう。




 コウキが兄のようになる前に止めることができてよかったと、初田は心の底から思う。

 初田が中学一年の冬、両親が離婚した。

 平也は父に、初田は母に引き取られたため、初田は嘉神姓から初田になった。

 以降一度も会う機会がないまま月日が流れた。

 研修医期間を終え、二十九になった年、平也が父を殺したのだ。


 間違いなく父かどうか遺体確認を求められたとき、母は恐怖のあまり失神した。

 医師の勉強で血を見るのにはなれているつもりだったが、それはあくまでも人間の形をして、生きているひとが相手だった。

 フィギュアのように十以上のパーツに分かたれたそれが父親だとわかったのは、頭がたしかに父の物だったからだ。


 連日ニュースで報道され、兄が外科医になっていたことを知った。

 生き別れても同じ道を選ぶ……やはり双子なのだと、嫌な気持ちになった。

 とはいえ平也の専攻は外科。初田は精神科。

 そこだけが唯一の違いだ。


 犯人でないのが確かとは言え、平也が父を殺害した理由に心あたりはないかと聴取されることになった。

 相当な恨みがなければここまでのことはできないだろうというのが警察や、プロファイリングの結果らしい。あまりに安直すぎて、腹の中で笑った。人が人を殺すのはなにも恨みばかりではない。

 初田は答えた。


「兄さんはただ、解剖してみたかったからやっただけだと思います。兄さんを引き取ったのが母なら、バラバラになっていたのは母だったでしょう。外科医を志したのもきっと、合法で人を切れるからだ」


 初田が幼い頃虫をちぎって遊んだように、平也もまた、虫や生き物をちぎって遊んでいた。

 父に引き取られた後、誰にもその遊びを咎められることなく成長し、純粋なシリアルキラーとなってしまった。




 ノックの音がして、ネルが入ってくる。


「お茶が入りましたよー。今日はキーマンちゃんと昆布のおにぎりです」

「ありがとう、根津美さん」


 ティーセットを受け取って、初田はコウキに微笑みかける。


「さあ、コウキくん。もっと紅茶をいかがかな?」


 コウキは首を傾けてわずかに笑う。


「いただきます」





  

 ケース1 中村コウキの場合 終

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