第15話 教えを忠実に守る良い子

 接待ゴルフが終わり、得意先のお偉いさんがポルシェに乗って帰っていく。

 秀樹はタクシーを呼ぼうとしたが、スマホのバッテリーが切れていた。


 仕方なく敷地内の公衆電話ボックスに入る。何年前に貼られたのか、【指名手配犯情報求む】の張り紙が朽ちかけた状態でかろうじてガラス面についている。


 老人の顔が並ぶ中、唯一若く端正な顔立ちの男が写っている。

 嘉神平也かがみへいや

 罪状・殺人 父を解体し死体を放置した容疑で追われているーー

 書かれた年齢から計算して、生きているなら三十八歳。


 解体、という単語でネズミを解体したコウキの顔を思い出し、吐き気をもよおした。


 次に狩るなら貴方でしょうね、とこともなげに口にした初田の言葉を思い出す。

 洗濯が終わったスーツを家に取りに戻らなければならないが、コウキの顔を見たくない。

 笑顔で猟奇殺人鬼みたいなことをするコウキ。コウキが、この嘉神のように秀樹を殺すんじゃないかという恐怖にかられる。 


 震える手で財布を取り出し、うまく掴めなかった五〇円玉が床に落ちた。


(何を動揺しているんだ、あんなのハッタリだ。コウキがネズミを殺したのは反抗期というやつだ。中学の時クラスのバカどもが窓ガラスを割っていた、アレと同じようなものだ。放っておけば収まる。精神病院なんて大げさな話にしやがって礼美のバカが)


 なんとか自分を落ち着かせ、電話ボックス内に貼られた最寄りタクシー会社に電話をする。

 礼美がサボりさえしなければ帰る頃にはスーツの洗濯とアイロンかけが終わっているはずだ。

 クリーニングに出せば高くつくが、礼美がやるならタダ。専業主婦なんだからそれくらいやってもらわないと困る。


 秀樹が自宅に帰り着いたときには、夕方六時をまわっていた。


「帰ったぞ礼美。洗濯は終わったのか」

「は、はい!」


 リビングに入ると、礼美がスーツとシャツ、下着をトランクに詰めているところだった。見たところアイロンもされている。

 及第点だ、と秀樹は口角をあげる。

 ゴルフバッグをリビングに置き、代わりにトランクを持つ。


「来週また持ってくるから洗濯やれよ」

「……そ、それだけ、ですか? コウキが作ってくれたタルトを捨てたことに関して、悪いとは思わないんですか」

「要らないものを捨てて何が悪い」


 礼美は絨毯に膝をついたまま、唇を噛みしめる。


(作るなら礼美が作ればいいものを。なぜコウキに作らせるのか理解できない)


 


「何だその顔は。文句あるのか、オレの給料で食わせてもらっている分際で」

「あなたが働くことを認めなかったからでしょう」

「現にオレの給料だけで生活できているだろう。くだらない。話がそれだけなら、オレはもう行くぞ」


 玄関で靴を履くため屈むと、後ろから大きな物音が聞こえた。


「コウキ! だめ、やめなさい!」


 切羽詰まったような礼美の声。

 振り向くと、顔のすぐ横を何かが通りすぎた。

 ゴン、と重たい音がする。

 背後にいたのはコウキ。コウキが何かを振り下ろした。


 手には、さっきリビングに放り投げたゴルフクラブが握られている。


 コウキがゴルフクラブで自分を殴ろうとした事実を、秀樹は数秒おいて理解した。

 コウキは父親を殺しかけたのに、罪悪感や恐怖にかられる様子もない。

 それどころかもう一度クラブを振り上げ、視線は秀樹を追う。


 頭に当たればほぼ即死。

 秀樹は弾かれたように玄関扉に手をかける。


 その時、来客をつげるインターホンが鳴った。

 外の人物は二回鳴らし、のんびりした声で名乗る。


「こんばんは、初田です」


 初田。うさぎのマスクをかぶった変人医師だ。

 なぜ日曜日に来たのかは不明だが、この際誰でもいい、初田を盾にすれば逃げられるーー。


 初田の声を聞いた瞬間、コウキの表情がほんの少しだけ和らいだ。

 それも一瞬のことで、振り下ろされた二投目が玄関床を割る。


 靴を履くのももどかしく、秀樹は靴下のまま玄関扉を開けて飛び出した。

 もちろん目の前には初田がいる。


 初田は青ざめた秀樹と、ゴルフクラブを握りしめたコウキを見て事態を悟った。

 悟った上で、秀樹の腕を掴む。


「は、離せ! このままじゃ、オレは」

「なぜ逃げるんです中村さん。これは、あなたの教育の結果ですよ」

「オレは何もしていない!! なんでオレがこんな目に遭わされなきゃならない!」


 コウキが冷たい目で秀樹を見ている。


「お母さんから電話で聞きました。コウキくんが作ったタルトを捨てたでしょう。自分にとっては不要なものだからって」

「それがどうした!!」

「だからあなたの教育方針に則って、コウキくんは要らないと思ったあなたを処分しようとしている。父親の教えに忠実な良い子じゃないですか」


 初田の声は秀樹を責めるでもなく怒るでもなく、楽しそうだ。


「お前医者だろ! なんとかしろ!」

「あいにくわたしはヤブ医者なので、正常な人間は治せないんですよ」


 初田は秀樹に「ヤブ医者」と言われたことと、「コウキは正常だ」と言われた事を引き合いに出す。


「あなたの論で言うならコウキくんは正常なので、わたしはこれでお暇しますね」


 他人事のように言い捨てて、初田は玄関扉を閉めようとする。


「待て、クソが! 医者のくせに患者を放り出すのか!?」


 自分で言った暴言を棚に上げて、秀樹は初田に掴みかかった。ウサギマスクの耳を力任せに引く。


 秀樹はウサギマスクを床に投げ捨て、初田の素顔を見て戦慄せんりつした。





 そこにいたのは、父親を殺害・解体した容疑で追われている嘉神平也かがみへいやだった。

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