32、部屋から抜け出す方法

 私はソファから飛び跳ねるようにして立ち上がった。


 ベッドサイドのランプがぼんやりと照らし出す暗がりの中、ガウンとネグリジェをベッドに脱ぎ捨てる。クローゼットに隠したリネンの包みをひらき、レースをふんだんに使った男性物のシャツに袖を通した。


「もっとみすぼらしい服かと思っていたわ」


 アルが用意してくれたのは、裕福な商人の息子が着るような、小ぎれいな服だった。ブリタンニア王国に渡る歌手二人に扮するから、ある程度成功している音楽家という設定なのかも知れない。


 女性のドレスと違って、シャツもウエストコートも背中にボタンがないので、一人で着替えられるのは幸いだった。


 タイツの上に半ズボンを履き、裾のボタンを留める。布靴も仮装用に履いていた革のブーツに履き替えた。


 首元でレースタイを結び、ジュストコールを羽織った私は、ランプ片手に部屋の隅に据えられた背の高い姿見の前に急いだ。


 薄闇の中でランプをかざすと、鏡の周囲を飾る金細工の縁取りが妖しく光を反射した。


「大丈夫そうね」


 肩越しに後ろ姿を確認したとき、長い髪が不自然であることに気が付いた。腰まで伸ばしたプラチナブロンドを結い上げた少年などいるはずはない。


「切りましょう」


 私は即決した。


 髪は女の命ですって? ふん、知ったこっちゃないわ。他人にどう見られるかより、ずっと大切なことがあるのよ。


 アルが髪の長さで私を判断するはずないと言い切れるのも心強い。彼はずっと私の内面を見てくれていたから。


 クローゼットへ戻ると、並んで掛かっているドレスの中に首を突っ込んだ。奥の棚に護身用の短剣が隠してあるのだ。お父様からはベッド脇のサイドテーブルに入れておくよう言われていたが、刃物を見ながら暮らすのが嫌で、普段目につかないところにしまい込んである。


 ランプの灯りはクローゼットの中まで届かない。手探りで短剣を探す指先に、宝石箱があたった。


「そうだわ。高価なアクセサリーを持って行けば、今後の生活の足しになるかも知れない」


 私は重い木製の宝石箱を取り出して鏡台に乗せ、ランプを隣に置いた。


 貴重そうなネックレスやイヤリングをポケットに詰め込む。普段使いのアクセサリーは鏡台の引き出しにしまっているから、宝石箱に入っているのは特別な日に身に着けるものだ。


 宝石を選び終わった私は、家紋の彫られた短剣の取っ手を握った。革製の鞘から抜くと、銀色の刃がランプの灯りを受けて冷たい光を放つ。


 鏡台の椅子に座り、髪を解く。まっすぐ鏡を見つめると、ランプのおぼろげな光に照らし出されて、プラチナブロンドの髪をたらした少年が、厳しい表情で座っていた。


「真面目くさった女はいらないですって? 上等だわ」


 髪を一房つかみ、思い切って刃を当てる。銀糸のごときやわらかいブロンドがはらりと落ちた。


 同じ動作を繰り返し、肩より少し長いくらいに整える。鏡台の引き出しから黒いリボンを出し、うしろでひとつにまとめると、鏡の中には凛とした美少年が映っていた。


 いたずら心でほほ笑んでみると、ゆらめくランプの灯りに照らされた蠱惑的な笑みに、我ながら魅せられそうになる。


 役目を終えた短剣をクローゼットに戻そうとして、私は考えを改めた。男装しているとはいえ、夜中の運河を一人で移動するのだ。短剣は鞘に納め、ベルトのうしろに下げておくことにした。


 宝石箱をクローゼットにしまう前に、守護聖人の彫られたメダルを取り出す。


「お守りに持って行きましょう」


 コインを裏返すと、古い言葉で教訓が刻まれていた。


「まことの愛、汝が道を照らせり」


 口の中で小さくつぶやいてから、ジュストコールの内ポケットにしまった。


「いよいよ出発ね」


 まずはマリアにまた閉められてしまった鎧戸を、静かに開けなければならない。


 ガラス扉の脇に置かれた飾り棚の上にランプを乗せ、音を立てないように細心の注意を払って、ガラス扉と鎧戸を開ける。


 鎧戸のきしむ音が想像以上に大きく響いて心臓が跳ね上がる。


 大丈夫よ、みんな使用人の誰かが閉めた音だと思うに違いないわ。


 自分に言い聞かせてバルコニーへ出る。


 だが、いざ地上へ降りようと思って見下ろすと、想像以上に高いことに驚いた。私の部屋は二階にあるが、一階分が高いのだ。毎日見てきた景色だけど、今までバルコニーから中庭へ出ようなどと考えたこともないから気付かなかった。


「ランプを持って行くのは無理そうね」


 片手で降りられるはずはない。だが幸い今夜は満月だ。ランプに照らされた室内より、月光を浴びた中庭の方が明るいくらいだから心配はない。


 私はランプをサイドテーブルに戻してから、再度バルコニーに出た。だが飛び降りたら足をくじくことは必須。井戸に飛び込むのではなく、これから未来に向かって旅立つのだから、怪我をするわけにはいかない。


 冷たい大理石の手すりを握って黙考していた私は、すぐに閃いて部屋に戻った。高い天井から下がる、長くて重いカーテンを見上げる。


「このカーテンを裂いてロープを作るっていうのはどうかしら」


 つぶやいた私はすぐに首を振った。腰の短剣を使えばカーテンを裂くことは可能だが、椅子に乗っても窓の上まで届かない。机を移動したら物音で、部屋の前に立つ私兵が気付くに違いない。


「そうだわ、カーテンをまとめるロープをつなげれば――」


 私はタッセルのついたロープを手に取った。分厚いカーテンをまとめるため、両腕を広げたくらいの長さがある。部屋にかかっているカーテンは四枚。それぞれがタッセルのついたロープで束ねられていた。


 私は室内を飛び回ってロープを回収すると、四本を結び付け、一本の長いロープに仕立てた。


「どうか切れませんように。主よ、私をお守りください」


 口の中で祈りの言葉を唱えながら、またバルコニーに出る。外から吹き込む風の音で私兵に気付かれないよう、ガラス扉と鎧戸を閉め、私はロープの一端を大理石の欄干に結びつけた。


 吹き付ける夜風にはかすかに潮の匂いが混ざっている。私は一度身震いすると氷のように冷えた大理石の手すりに両手を置き、全体重をかけた。片手にロープを持ち、私はいよいよ欄干の外側に出た。


 中庭を見下ろせば、敷石が月光に濡れて白銀に輝いている。


 一階の高さは通常の二倍近い。足を滑らせればただでは済まない。


 だが私の心は自由を渇望していた。


「行くしかない」


 手のひらに食い込むのも構わず、両手でロープを握りしめ、一歩ずつ慎重に壁を伝って降りた。細いロープがみしみしと嫌な音を立てる。


「あともうちょっとだから、もってちょうだい。神様、聖母様、全聖人様方、お願いします」




─ * ─




そもそも無事に中庭へ降りられるのか!?

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