24、新しい婚約者からの手紙
兄が手招きするので、私は彼の方へ身を乗り出した。
「結局バンキエーリ商会から怪しいものは出てこなかったらしくて、宮殿に忍び込んだ男の妄言ということで片づけられたよ」
私の耳元で、事件の顛末を教えてくれる。おそらく他言無用の内容だと思い、黙ったままうなずくと、突然、お母様が不機嫌な声を出した。
「あの男は女の幸せのなんたるかを理解していないのよ」
一瞬、意味が分からなかった。だがすぐにお父様のことを言っているのだと理解した。兄が私に婚約者である子爵様の手紙を渡したのを見た母は、憤慨しているのだ。
クリス兄様が表情のない白い仮面を母に向けて、
「父上なりにリラのことを心配して、幸せを願っているんだと思いますがね」
と、取りなした。
すると今度はお母様の隣に座ったチョッチョが、なんの前触れもなくアリアの一節を歌い出した。
「私は知った
幸せは、この手でしかつかめないって」
歌声が聞こえたらしく、隣のボックス席から忍び笑いが漏れる。
「ねえ、今の歌声、フィオレッティではありませんこと?」
「まさか本物ですの?」
チョッチョの歌声を聴いた途端、怒りがおさまったのか、お母様は上機嫌でアリアの続きを歌い出した。
「なんて自由なのかしら
風も空も太陽も私を応援しているわ」
「ちょっ――」
私は慌てて止めようとする。公共の場で歌うなんて淑女にあるまじき行為だ。ここにはエルヴィーラ様だっていらっしゃるのに――
だが私の口から非難の言葉が飛び出すより早く、
「お
小姓姿のエルヴィーラ嬢が手を叩く。
ええっ、反応がおかしいでしょう!? しかも「お
呆気に取られていると、お兄様もチョッチョも、そしてあり得ないことにアルまで拍手し始めた。
さらに左右のボックス席の貴族たちまで、面白がって手を叩く始末。
オーケストラが序曲を演奏し始めると、お母様たちはようやく静かになった。
だが序曲の途中で幕が開いても、そこかしこのボックス席から噂話が聞こえてくる。
「実は陛下、隠し子でもいらっしゃるのかしら?」
「まあ、不敬ですわよ!」
「でもブライデン公爵閣下を第一王位継承者にされないのは不思議ではなくて?」
「十年前の事件の疑いが晴れないからかしら? 閣下も気の毒ですわね。証拠もないのに疑われては」
下のボックス席からは殿方二人の話し声が聞こえてくる。
「この国はどうなるんだろうね? 次の国王陛下が誰か分からぬ状況とは困ったもんだ」
「誰にゴマをするべきか分からないから、困っておるのですな?」
「おいおい、君と一緒にしないでくれたまえ」
はつらつとした弦楽アンサンブルの音色がボックス席まで湧き上がってくるのを聴きながら、私は胸元にしまった手紙を取り出した。
子爵家の家紋を示す封蠟が押された手紙をひらくと、やや角ばった筆記体が並んでいた。
舞台の幕が上がっても、貴族たちはオペラグラスで向かいのボックス席をのぞくため、場内のロウソクは煌々と灯っている。膝の上でこっそり手紙を読むのに不足はない明るさだ。
*
伯爵令嬢リラ・プリマヴェーラ様
突然の書状を差し上げる無礼をお許しください。私は貴女の父君である騎士団長閣下の忠実な部下、子爵エドアルド・マリーニでございます。このたび閣下の勧めにより、貴女とのご縁を賜ることとなりました。
まずは、貴女にお目にかかる機会もないまま、こうして筆を執る非礼を深くお詫び申し上げます。
私は騎士団の任務に従事するかたわら、平穏な家庭を築いてまいりました。しかし五年前に妻を失って以来、屋敷は寂しい場所となりました。
現在、五人の子どもたちがおり、末の娘はまだ十一歳です。思春期という難しい年ごろに差し掛かり、母親の不在という欠落を埋められない無力さを痛感しております。
貴女の父君は、貴女のご品位と知性を高く評価され、私の家庭にとって光となるだろうとおっしゃっていました。そのお言葉を信じ、このご縁を深められるよう努めたいと思っております。
勿論この婚約に際して、貴女の意思を第一に考えたい所存です。どうか私の申し出を熟考いただき、忌憚のないご意見をお聞かせくださいませ。
貴女の幸福とご健康を心からお祈り申し上げるとともに、近い将来、直接お会いできる日を心待ちにしております。
敬具
エドアルド・マリーニ子爵
*
几帳面な字体でつづられたマリーニ子爵の手紙には、なんの問題もなかった。彼は礼儀正しく、家族思いで、私との婚約にも真剣に向き合ってくれる。
以前の私なら、彼との婚約を快諾しただろう。お父様と同世代の男性とはいえ、ほかに行き場はないのだ。五人の子供たちと共に、さほど広くもない子爵邸で、ささやかだけど不自由のない日々を送れるはずだ。
今まで通り、運河に彩られたこの華やかな王都で暮らし、変わり映えのしない社交界で噂話に興じて、年に何回かは実家の伯爵邸に顔を出す。
だがマリーニ子爵の手紙に愛の言葉はなかった。当たり前だ。私と子爵様はまだ会ったことすらないのだから。
相互利益のために契約を交わすように婚姻を結ぶ――つい先日まで、それは私にとって常識だった。不幸でもなんでもなかったのだ。
だが今は――
隣に座るアルカンジェロの大きな手のひらが、冷たくなっていた私の指を包み込んだ。彼のあたたかい手に触れて初めて、手紙を持つ自分の手が震えていたことに気が付いた。
心が叫んでいる。アルと生きていきたいと。
私にとって彼がアルベルト殿下であろうと、カストラート歌手アルカンジェロであろうと、そんなことはどうでもよい。私はこの人を愛している。いたずら好きの少年のような好奇心に満ちたまなざしが好き。少し驚いたようにふわりとほほ笑む笑顔が好き。真剣に音楽と向き合う彼の横顔が好き。彼のすべてが私にとって、かけがえのないもの。
彼と共にブリタンニア王国へ逃げたら二度と、家族とは会えないかも知れない。物心ついてからずっと世話をしてくれているマリアともお別れだ。
青空の下、陽射しにきらめく大運河をすべってゆく大小の舟もゴンドラも見納めだし、新鮮な魚介や、明瞭なロムルツィア語の響きとも離れなければならない。
ブリタンニア王国の言葉も学ぶ必要がある。現地で雇う使用人とは、ブリタンニア語で会話しなければならない。使用人の数も最低限になるだろう。私は家庭教師やマナー講師をしたり、もしかしたらロムルツィア語を教えて、家計を切り盛りするのかも知れない。
それでも私は愛のない日々を送るより、愛する人との暮らしを守るために尽力するほうを選びたい。
一幕も第三場になって、華やかに飾り立てられた白馬に乗った初代国王役の
弦楽合奏を突き抜けて、ナチュラルトランペットの透き通った音色が華々しくニ長調の旋律を奏でる。黄金色の響きが飛翔して、劇場の空気を塗り替えた。
チョッチョの仮装みたいに派手な衣装を着た男性ソプラノ歌手が、片手を掲げて堂々と歌い出した。
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