エピローグ
エピローグ
雪弦はまぶたをゆっくりと上げ、隠れていた美しい瞳をのぞかせた。それから、ふと思い立ったように細い指先を動かす。制服の胸ポケットからハンカチを取り出して目元をぬぐい、彼女は立ち上がってその場を去った。
もう、その能面のような顔からは何も読み取れない。
◇◇◇◇◇
放課後、中庭の大木の下で雪弦と颯雅は向かい合っていた。
「——日本に来たってことは、やっと思い出したのか。」
「……えぇ。まさか、編入してすぐに会えるとは思ってなかったわ。」
一瞬の沈黙の後、雪弦は答えた。颯雅は苦しげな表情を一瞬見せたが、すぐにほほ笑みを浮かべてみせた。
「確かにお前の言った通り、俺は変わった。お前が忘れていた
そこで彼は姿勢を正した。
「今更言っても遅いのはわかってる。一度口にした言葉は二度と戻ってこない。つまり、これは自己満足だ。」
真剣な彼の言葉に、雪弦の瞳が揺れる。颯雅は、切り裂くように冷たい風を吸い込んだ。
「済まなかった。」
積年の後悔が詰まった一言に、雪弦の目が、これ以上無いほど大きく見開かれる。下げられた頭を見ながら、彼女は必死に、喉に張り付いて声にならない言葉を紡ごうとした。
「——酷い。」
雪弦がようやく絞り出した言葉に、颯雅は瞳を伏せた。
「あぁ。いくらでも罵倒してくれていい。殴っても蹴っても、煮ても焼いてもいい。それくらい、俺は悪いことをした。」
折から強くなってきている風が、二人の髪を揺らしている。
「俺には人のことをとやかく言う資格はない。命は決して軽いものではない。だというのに、俺は鼻で嗤った。一生背負っていかなければならない
彼ははっとしたように、一度口をつぐんだ。
「——いや、雪弦は、許さなくていい。」
「……颯雅は、自分がこれ以上、背負い切れると思ってるの?」
雪弦はギュッと拳を握る。
「許されないのも、重荷になるのよ。そうやって重荷ばかり増やして、今でさえ限界に近いのでしょう?」
「限界?そうんなわけ——」
「あるのよ。」
雪弦は颯雅の言葉をぱっと遮った。
「無自覚なだけ。だから、いつも張り詰めたような、アンバランスな言動になってるのよ。しかも、どこかで限界だと悟っているから、すべてを受け流そうとする。“自分”が削れないようにね。——ねぇ、颯雅。あなたはもう、ほんとは気づいてたんじゃないの?」
颯雅は、何も言わなかった。唇を噛んで顔をうつむかせ、なにかに耐えるかのように眉根を寄せていた。
雪弦はそんな彼を見て一つ息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。
「颯雅、雪が降ってきたわ。」
ぱっと顔を上向かせた彼の瞳に、真っ白な結晶が映る。
「手袋を忘れてしまったから寒いわ。ねぇ、温めて頂戴な。子供の時みたいに。」
雪を見つめていた彼の双眸が、驚愕の色を浮かべた。そして、信じられない、とでも言うかのように首を横に振りつつ、戸惑いがちに口を開いた。
「それって、つまり……。」
「えぇ。」
雪弦は、筆舌に尽くし難いほど美しい笑みを唇に刷いた。
「——颯雅。仲直り、よ。」
子供の頃、小さい喧嘩をしたあとによく耳にした言葉。颯雅がしてしまったことなど些細なことだとでも言うかのような、慈愛のこもった響きに、彼は懐かしそうな息をもらし、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「仲直り……そう、だな。」
颯雅の温かい手が、雪弦の冷えた手を包みこんだ。
じんわりと染み込んでくる温度に、くすぐったそうに、小さく笑い声を上げた。幸せそうに細められた二人の瞳から、長年抑えてきた感情を溶かし込んだ雫が、ゆっくりと頬を伝って落ちていった。
過去のわだかまりを、すべて洗い流すかのように——。
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