重力の雨滴に震える猫

水城正太郎/金澤慎太郎

愛らしきものたち

「言いにくいんだけどさ……もう仕事してくれなくていいから」

 上司は言った。

 鏡治郎はいきなり腰を触られた猫みたいにビクリと背中を反らせた。

「ふぇ!」

 振り返るとメガネに白髪のナイスミドルである上司が困ったような表情で立っていた。

 ここでようやく鏡治郎は先の言葉の意味を認識した。

 ――仕事をしてくれなくていい。

 解雇ということだろう。

 鏡治郎もここのところの自分がアホみたいに仕事ができないことを自覚していた。遅かれ早かれこうなるだろうと覚悟していたところがある。今もガチャガチャで取った『超熟Pasco』食パンのミニチュアを指でむにむにとやっていたから上司が近づいてきているのに気づかなかったのだ。スクイーズと呼ばれるぷにぷにしたあれは、今も手の動きが止まっていないため、指の間からは白い肉球みたいな膨らみを呼吸みたいにはみ出しては縮みさせていた。

「お世話になりました。人事の方で手続きすればいいでしょうか?」

 諦めの境地にも近いアルカイックスマイルを浮かべ、鏡治郎は言った。

 すると上司はどういうわけか心底から慌てた様子で首を振った。

「いやいや! そうじゃないんだ。辞めなくていい。仕事をしないでいいと言ってるんだ。本当だよ。これは企画部のみんなもそう言っている」

 鏡治郎にはどうしてそんなことを言うのかがさっぱりわからない。頭上にはてなマークを浮かべて小首をかしげる。

「自己都合での退職にしろってことです?」

「いいや! そんなことではもちろんないよ。ここに座っていてくれればいいんだ。なにをしていてもいい。デスクでお茶でも飲んでいいてくれれば。そうだ、来る時間だって適当でいい。毎日でなくてもいい。会社を辞めず、週に二日程度来てくれればいいから」

 小学校低学年が想像する市役所のおしごとだってもう少し勤怠は厳しいだろう。

「わかりました。辞めませんが……もう少し落ち着いて考えてみます」

 鏡治郎は言って、同僚たちの顔を見回した。当然ながら部署の全員がこちらに注目していた。しかし想像していたような冷たい視線は向けられていない。それどころか本心から「辞めないでくれ」と願っている心配そうな顔が並んでいる。パンダかコツメカワウソが動物園から移動されるかもしれないとニュースが流れたときの動物園常連客たちの顔だ。

 ――なにかがおかしい。

 鏡治郎としても困惑する他ない。

 大方の者が「仕事をクビになるほどの無能」と聞いて予想するであろう姿とは違い、鏡治郎はくたびれた中年でもなく、だらしない巨漢でもなかった。中性的美少年が容姿そのまま成長したような青年で、いまだに街を歩いていると男性から声をかけられることがあるほどだ。短くラフな髪型で、メイクなどもしていないのだが、ボーイッシュな美女に見えるらしい。

 少年期は成績優秀で、スポーツはそれなり。大学まで成績優秀は続き、就職してからも今まで大きなミスはしていない。人間関係も大きなトラブルはなし。同僚との関係も悪いものではなかった。

 そんな鏡治郎だったが、ここ数日は大きなミスどころか、社会人としてその域に達していないレベルの間違いを起こしまくっていた。遅刻、早退は当たり前というか、勤務時間中に散歩に行ってしまう始末。頼まれた書類仕事は放置したままだったし、取引先に送るpdfファイルに落書きをするまでに至っていた。

 しかし、鏡治郎自身に罪悪感は微塵もない。心の赴くままに勝手にやっている清々しさしか感じていなかった。当然ながら遅刻の時点から注意は受けているし、やらかすたびに叱責されてもいたのだが、まったく気落ちすらしていなかった。普通の人なら申し訳ないという気持ちは抱くだろうし、以前の鏡治郎もミスの際などは強い自責に苛まれていたはずなのだが。

 考えがてら床を蹴って座っているイトーキの事務椅子をくるりと回転させると、それを見ていた同僚たちが心から幸せそうな顔になる。ゴマフアザラシが水族館の清掃ダイバーにじゃれついているのを見た観客のような目をしていた。

 ――自分も世界も平等に狂ってきたのかな。

 そもそもこの会社だって昔からおかしかった。昭和から続く玩具メーカー『雪ヶ谷ヨーヨー株式会社』。名前通りヨーヨーで大きくなった会社である。元々はベアリングを扱う町工場だったが、1970年代のヨーヨーブームに手を出してみたら思いの外うまくいって業態を変えたという創業の逸話がある。当時のヨーヨーはなぜかコカ・コーラのマークが入っているものが人気だったが、町工場がライセンスを取れるものではなかったため、苦心惨憺して「実在しない清涼飲料水をでっち上げる」という間違った方向の決定をしたのが成功の秘訣だったというから発端からどうかしている。

 まず社長の知り合いにフランス人青年がいたのでこれに白羽の矢を立てた。コカ・コーラのマークが人気なのは当時の日本人に海外への憧れがあったからだ。外国人も珍しく、ヨーヨーの販促にどこの馬の骨ともしれない米国人が「海外のヨーヨー名人」として祭り上げられていた。そちらがアメリカならこちらはフランスというわけである。だがフランスで人気の飲料を尋ねたら「オレンジジュース」という腑抜けたものだったため、これで「フランスで人気のまったく新しいジュース」をでっち上げるという方向性とあいなった。

 そこでフランス人青年にフランスっぽい名前を考えてもらったら、これが『Mai68』。1968年五月。つまり五月革命のことで、要はフランスの学生運動だ。彼はゴダール映画に参加したことがあるというのが自慢の左翼活動家で、マオイズムへのあこがれで中国に渡ったが、そちらでの数日が過酷だったため日本に逃げてきたという筋金入りのうっかり者であったのだ。

 もちろん社長はMai68なんぞの意味は知らない。フランス人青年の熱き革命トークから政治的要素を抜き去った結果「ホットで飲む大麻入りの飲料。当局に禁止された伝説の一品」というストーリーが残った。そして青年をおだてあげて彼の写真を撮る。こうして「フランスからやってきたヨーヨー名人アンリ」が誕生した。

 写真撮影で好きにポーズを取らせたら毛沢東語録の赤い手帳を掲げたものだったのも好都合だった。これをヨーヨーに置き換えて「決め顔でヨーヨーに命をかける金髪青年」のパッケージが完成したのである。

 ボール紙にカラー印刷された「革命顔でヨーヨーを掲げるガイジン」の姿が駄菓子屋とスーパーの雑貨コーナーに置かれた。「フランス当局で禁止された秘密の飲料! 酒より酔っ払うMai68!」のキャッチフレーズが書かれている。箱の中にはヨーヨーが並んでいる。濃いグリーンのプラスチックにデザインされたMai68のロゴが入っている。

 この支離滅裂なヨーヨーが最初はポツポツと、後にかなりの風速で売れ始めた。子供たちの間で「学校に持って行っても先生に取り上げられないヨーヨー」として噂になったからだ。学生運動に郷愁を抱く若教師が放置したことと、鬼教師が「子どもたちに暴動の機運」とみなして恐れたことが重なったものだろう。もちろん意味を知らずに没収した教師も多数だったろうが、堂々と学校に持ち込む子供などそう多くないので噂が否定されるには至らなかった。

 そんなわけで雪ヶ谷ヨーヨー株式会社はベアリング業務を継続しつつ、おもちゃメーカーに転身を遂げたのである。現在では先代社長のでっち上げ精神を受け継ぎながら、ガチャガチャのプライズと木製知育玩具を主軸商品としている。

 鏡治郎はそんなどこかおかしい企業の企画開発部に所属している。そういえばこんなにミスを犯しはじめたのは栃木県のある場所に出張してからだった。先代社長の古くからの盟友が起こした木材加工会社に知育玩具のサンプルを見に行ったのだ。

 複雑な穴の空いた木製ブロックを組み合わせて穴の迷路を作り、そこにビー玉を入れて通過していく様を楽しむ、というどこかで聞いたことのあるタイプのもの。だが今回は木で作った歯車をはめ込めるブロックがついていることが違う。ビー玉が歯車を回転させ、組み合わせた歯車があればそれも回転させる。中には迷路のルートを変えてしまう歯車もあり、見た目の楽しさと意外性を演出している。

 鏡治郎の仕事は企画に加えて「子供の脳活性化が大学で証明された!」などのでっちあげ情報を付与することだ。物品の開発部分は木材加工会社にお任せである。木材加工会社の木彫職人と都度顔を合わせるための出張は必須だった。

 手土産にお高めのシャンパンのボトルを持って栃木県の某駅に行き、出迎えのバンに乗って山奥にある工場へ向かう。風景は街から川を渡ると即座に田舎のそれへと変わる。ビニールハウスと太陽光発電の間に広い畑とプレハブ小屋。常緑樹に覆われた小山が時折見えるが、それは畑のある平野のみで、ゴルフ場の案内看板が道路標識みたいに並び始めたあたりから盆地を覆う山へと入っていく。カーナビは養魚場とか鉱山跡とか神社しか人工物を表示しなくなり、灰色の背景に県道だけが波線を描く。左右どころか上下にも揺れる山道を四十分も走ると、ようやく切り出した木材を即座に加工できる山奥の工場に到着だ。

 まずは仕事の打ち合わせ。社長室で二代目社長直々に木製ブロックのサンプルを見せてもらう。白木でできた真四角のブロックが小さな建築資材みたいに並んでいる。ブロック一個分の幅がある歯車も四つほど脇に並べてあった。まずはお試し、とブロックを十個以上組み合わせて小さなお城みたいなものを作る。穴やくぼみがお城を流れる水路のようにも見え、そこに組み合わされた歯車も水車のようだ。エッシャーのだまし絵にこんなものがあったと思い出すような見た目になった。塔になぞらえて縦に繋げたブロックの最上部の穴からビー玉を入れる。カタカタと小気味良い音を立ててブロックに空いた穴を玉が滑り落ちていく。時折外側から見えるレール上でビー玉の表面がキラリと光り、歯車をカタカタと音を立てて回転させた。やがてコツッとブロックの壁面にぶつかって玉が止まる音がする。積み方を間違えてブロック間に通じていない穴があったらしく、予想したように下のブロックには達しなかった。大人でも間違える迷路が構築できるおもちゃということになる。

「すごく面白いですね、これ。ブロックの出来も素晴らしいです」

 鏡治郎がニコリとすると、社長もご満悦だ。

「本家より迷路のパターンを増やせたんだよ。パクリの利点だね。ハハハ!」

 コピー製品であることはどちらも百も承知だ。「このブロックはどっちに転がるか二分の一なんだよ」などと解説を受けながら複数パターンを試して遊ぶ。鏡治郎は褒めるだけに徹して、改善点を提案するのは社長の側に任せた。やがて社長が満足した頃合いで日が暮れてきて、鏡治郎は手土産の高級シャンパンをチラリと見やる。

「そうだね、いい頃合いになってきた」

 社長は自分より年上の木工職人を呼ばわった。材木を作る工場にあって唯一、指物から彫刻漆器まで作れる貴重な人材だ。木製玩具のデザインは彼が主に行っている。

見事な白髪にごっつい手、険しい目つきの職人は見た目とは裏腹に気さくで酒好き。普段は日本酒党だが、鏡治郎の出張時は持ってくる洋酒を楽しみにしている。

「今日はついに弟子にキミの料理を食べてもらうことにしたよ。よろしく頼む」

 老職人は鏡治郎に笑いかけた。

 独り暮らしが長い鏡治郎は大学時代のバイト先にスペイン料理店を選び、ひたすらに自炊の質を上げることを頑張った結果、洋風居酒屋メニューだけシェフ並みの腕になっていたのだ。これを接待に活かさない手はない。この工場に出張する際は林業関係者たちが使う宿泊所のキッチンと冷蔵庫を借りて社長らへ夕食を作るのが出張時のお決まりになっていた。

 美形で苦労人の鏡治郎が手際よく作るスパニッシュは社長と老職人に好評で、「社員には一人前になるまでこの料理は食べさせない」という決まり事さえあった。本日は、四角い木のブロックに縦横に穴を開ける工作機械使用法の秘伝を会得して一人前になった弟子の若手(とはいえ三十代)へのご褒美として食事が振る舞われることになった。

 これからが本番だ。山の夜はすっかり暗くなり、工場の軒先の広々としたスペースを作業用ライトが丸く照らす。ドラム缶を半分に切ったコンロとキャンプ用テーブルが出され、そこで熾された炭の上にキッチンで下準備されたパエリア鍋を置く。うさぎ肉とエスカルゴを使ったバレンシア風パエリアが完成する頃にはクーラーに突っ込んだ高級シャンパンも冷えている。

 乾杯の音頭を社長がとり、木工職人として一人前になった社員を褒め称えた。これには老職人の目にも思わず涙が浮かんでいる。鏡治郎も酒には弱いがシャンパンを付き合う。ネギの炭火焼きと牛テールの煮込みも添えて酒は進んでいく。

「本当によく一人前になってくれた」

 本日何度目かの言葉を老職人は口にした。すでにシャンパンは空いており、日本酒を手にしている。酔っ払った老人の繰り言ではあるが、その場に誰にとっても不快ではなかった。弟子も照れくさい顔で笑い、手をパタパタとさせた。

「そんなに言われると、自分以外に一人前になった人がいないみたいじゃないすか」

 何気ない一言だったが、その瞬間、社長と老職人の目から笑みがスッと消えた。

 なにかまずいことを言ったかと弟子は狼狽するが、老職人は「そうじゃない」と手を振った。だが表情からは笑みが消えている。その顔のまま社長と目を合わせてうなずきあった。それはあからさまに「言ってはならない秘密を打ち明けるがいいか?」というサインに見えた。

「いなかったんだよ。妨害が入った……というと傲慢だけど、そうとしか思えない」

 老職人は自分でも消化しきれていない口調で言った。

「それって、なにかヤバい話になるんすか?」

 心配顔で弟子は聞いたが、それは再び否定された。

「ヤバい話といえばヤバい……。今でも信じられない話だ。だけど、キミが考えているようなことじゃない。あまりにめちゃくちゃな話だし、場所を変えたらいつの間にかなくなったから、オヤジさんとオレとだけの間の話にしてたんだよ。少し前、オレは工房を持っていたんだけど、それが原因で、この木材加工所に間借りする形式にしたんだ。その工房時代のことになる」

 怪談でもはじまるかのような雰囲気だ。だが続いたのは怪談というより、ひどく奇妙な話だった。

「優秀な木工の若いのが来ると、当然ながら大事に育ててたよ。けっこう前から、背中で語るとか作業を見てるだけで何年とか、そんなの流行らない時代になってたから、そこまで追い込んでるようなことはしてなかったと思う。そりゃあ、それでもほとんどは居着かないよ。悪いけど、木工やりたくて来るヤツは現実を見て金にならないとか美術品みたいのが作れないって辞めちゃうし、そうでない流れ着いたヤツにはキツイ仕事だからね」

 老職人は空いた日本酒のグラスを脇にやり、新しいグラスにいれたウーロン茶を一口飲んだ。

「それでも中には真面目に木工やろうってヤツもいた。大概は熱心で、空き時間も端切れで練習してるような感じだったね。だが、入れ込みすぎって言うのか、だんだんと鬼気迫るものになってくるのがお決まりでね。オレが休めって言ってもダメで、逆にこっちに説教してくるような始末さ。真面目に木工の未来を考えろってね。でも、飯も食わなくなって痩せていくばかり。精神もおかしくなっていってさ。世界の真実がわかった、とか、政府が陰謀を行っているとか、そんな言葉ばかりになっていくのさ。それで、向こうから勝手に辞めちまう。もちろん最初の一人なら、そいつがそういうヤツだったってことで終わりなんだが……」

「まさか、次の弟子も?」

 思わず鏡治郎は口を挟んでしまう。老職人はうなずいた。

「二人目もそうだった。木工に入れ込むのはいいんだし、社会について逆に説教してくるのだって若さってもんさ。でも、世界の真実がわかっちゃったり、裏から社会を操る闇の政府みたいな話が共通しているとなると話が違う。普段の食生活についても、やれ砂糖が悪いだの牛乳が悪いだの肉を食うなだの言い始めたら、なにか妙な情報を集めているんだって疑ってかかるしかないわな」

「ネットで変な情報にひっかかったにしても、二人連続というのはおかしいですね」

「それで三人目がおかしくなりはじめたとき、オレもいろいろ当人に問いただして確認したんだ。もちろん相手もごまかすようなことしか言わない。だけど、どうやら誰かから毎晩教えを受けているって感じだったんだな。そこである晩、こっそりと弟子の部屋を覗くことにした。子供とか老人を見張るための監視カメラを隠しただけだったけどね。そうしたら驚いたよ……」

 落ち着くためかウーロン茶を飲み干して、老職人は息を吐く。

「作業台に弟子がついて作業をはじめた。そこまではいい。そうしたら、空気がさぁっと変わってね。まるで海の底にでもいるみたいな湿気と重苦しい感じがした。実際、呼吸できたのが不思議なくらいで、手を動かすと水の抵抗みたいなもんを感じたくらいだ。だが、弟子は苦しそうな様子もなく、黙々と作業をしている。オレは弟子を背中側から見てたんだが、その背中の少し上の空中に、ぽつぽつと浮かんでいる黒いものが見えはじめたんだよ。それは浮かんでいる……というより水の中に漂っているように見えた。黒いモヤとか、半透明とかそういう感じじゃあない。はっきり黒いなにかだった。あえて言うなら、真っ黒な深海生物だな。コガネムシくらいの大きさでえんどう豆みたいな形。太めの毛が一本伸びていてそれがぴろぴろ動いていた」

「虫……みたいなものですか?」

「そうだね。鞭毛のある黒い虫……だとそのときも思った。それがいくつも漂っていた。驚いたことには、それは次々と弟子の背中から生まれてくるんだ。シャツの背中に黒いシミみたいなのができたかと思うと、丸い黒い球が身じろぎするみたいに振れて、ポンッと全体が飛び出してくる。動きはじめると素早くて、鞭毛がひゅっと動いたかと思うと、ゴキブリとかフナムシとかの速さで空中に踊りだす。だけど、弟子がそれに反応することはないんだ。苦痛とかくすぐったさみたいなものは感じていないらしい」

「そんな気味の悪いのが……」

 話を聞いていた弟子が思わず周囲を見回す。グラスの酒を飲もうとして、一瞬考えた後、グラスをテーブルに戻した。大気中の湿度が放置していた酒に入り込んでいるような気がしたのだろう。

「もっと驚いたのは、弟子の背中から少し離れた後ろに人間みたいなものが立っていたことだ。そいつは、まるで虫を操っているみたいに見えた。こう、手を前に出して、その手に黒い虫は吸い込まれていった。弟子から虫を吸い取っているというか……」

「どんなヤツだったんです?」

「それは黒くて……でも、虫と同じ黒ではなかった。虫がナマコとかの黒だとすれば、ゴムとかタールの黒だね。人間と同じ手足があって、頭には耳……というか、あれだね、ミッキーマウスみたいな形の頭をしてた」

「つまり……黒いミッキーマウス。いや、ミッキーはもともと黒いか」

「ウルトラマンに出てくるナントカ星人みたいでもあった。なんか体に模様みたいなものまであってね。やがて虫が背中から出なくなった頃、弟子は椅子を回して振り返って、そいつと正面から向き合った。何度か会っているのか、驚いたそぶりもなくって、なにごとか会話しているように見えた。音が聞こえる監視用カメラだったけど、しゃべっている様子はなかったな。でも弟子は脳内で会話しているみたいに、うなずいたり、少し微笑んだりしていた。やがてミッキー星人は別れを告げるみたいに振り返った」

「顔を見たんですか?」

「見た。それがウルトラマンのナントカ星人みたいだって言った理由でもあるんだ。目とか口とかみたいな部分が切り込みみたいになっていて、顔全体は電子部品の基盤みたいだった。そして、目とか口とかが電球と生物の中間みたいな感じで光るんだよ。確かに生きている感じがするのに、作り物っぽくもあった。それこそ宇宙人というのがぴったりなんだ。そして、そいつは、いきなり消え去った。パッといなくなって、それっきり。後は何事もなかったみたいで、弟子もそのまましばらく作業を続けて、それから寝てしまった」

「いったいなんだったんです?」

「こっちが聞きたいところだな。弟子が連続でおかしくなったってのはこいつのせいだったんだろう。そうとしか思えない。それで作業場を引き払うことに決めたんだ。あの場所にやってくるんだと思えたからさ。でも、不思議なのはオレのところには来なかったってことだな。弟子の部屋にいたら来たのかもしれないけれど……」

「それ以来、ミッキー星人は?」

「見ていない。こちらはうまいこと逃げられたってわけだ」

 それで話は終わりのようだった。怪談といえば怪談だし、そうでないといえばそうではない。出てきたのが髪の長い女とかすごい形相の老人だったとかなら幽霊として納得の話でもあるだろうが、なにせミッキー星人である。

「その……失礼かもしれませんが、おかしくなってしまった弟子の方のその後は……」

 鏡治郎は聞いた。疑うわけではないが、怪談につきものの失踪者や死者、狂気に陥ってしまった者たちが実在していなければ、それは体験談でなく怪談止まりだ。ところが、老職人はスマホを取り出して操作した。SNSのあるページを見せる。

「弟子だよ。こんなことしかしないヤツになっちまった」

 覗き込んでみると、「世界の真実/反ユダヤ/反米追随外交/反DS/反緊縮財政」などとプロフィールに書いてあり、書き込みも政府批判と国際情勢を皮肉ることしかしていない。おまけにおかしな絵文字が大量に用いられていて、意味が取れない文章も多い。

 原因がミッキー星人であれ別のなにかであれ、おかしくなってしまってからも当人の人生は続く。考えてみれば当然の事実も、おかしさの具体例を見せられてしまうと、ぐっと現実の恐怖として感じられる。

 その場で誰も言葉を発しない微妙な空気が流れ、やがて社長が食事会の終了を告げる。雰囲気を変えようと、全員が一丸となって和やかに食器類の後始末をし、残った食事は弟子がタッパーに入れて持ち帰ることになった。

 それから、乾杯だけ酒を入れた弟子が酔いが醒めるのを待つため、全員でコーヒーを飲む。話題は互いの会社の状況や世間話に移り、誰もすっかりミッキー星人のことなど気にしなくなった。乾杯から三時間ほどが経過したのを見計らって、予定通り弟子が自分の車で社長と老職人を送り届けることになった。鏡治郎は社長が明日に出社するまで自由に使っていいと宿泊所の鍵を受け取った。

 鏡治郎は車の赤いテールライトが闇に消えるまで頭を下げて見送ってから一息つく。

 一人になって仕事を終えた充実感が湧いてくる。その一方、ミッキー星人のことと、なによりおかしくなってしまった会ったこともない誰かのことが思い出される。恐怖というより、なんとも形容しがたい不安が心をよぎる。今晩の宿である宿舎の窓を振り返った。開いているカーテンの向こうには暗い空間だけがあるが、その闇の中になにかが潜んでいるような気がする。

 思えば弟子というのも木工を頑張っていたというより、何者かになろうとしていたのだろう。その努力や焦りが闇に一直線に惹かれていったきっかけになったのではないか? そんな気もする。

 宿舎は老職人の言っていた作業場ではないし、そこにはなにもないとわかってはいるが、部屋で眠くなるまで待つ気にはなれなかった。LEDの明るい懐中電灯を持って宿舎脇の自販機でコーラのペットボトルを買った。飲みながら夜の山道を歩いて気分が落ち着くのを待とうと思う。

 工場周辺の道は曲がりくねってはいるが一本道だ。街灯はないが迷う心配はない。

 何を考えるでもなく歩を進める。LEDの明かりが照らす白い丸の中にアスファルトと木々が過ぎていくだけの景色が時間と空間の感覚を無くしてくれる浮遊感が心地よい。木々の姿形も道路もどこまで行っても似たようなもので、移動しているのかいないのかもわからないほどだが、暗闇と孤独が与えてくれる安心というものはある。

 と、落石注意の標識が目に入った。

 景色に変化があるのが違和感と思えた。些細なことだが、目印があるだけで浮遊感に似たものが消え、現実に戻ったかのように感じたれた。だが、無心になるのも頃合いということだろう。もう少し歩いたら戻ることにして、鏡治郎はコーラを飲み干した。

 空のペットボトルを持って、どのあたりで引き返そうかな、と考えながらしばらく進む。 と、落石注意の標識が目に入った。

 ――また? こんなに短い間隔で立てておくものかな? いや、落石があった場所には都度立てておく決まりだったような気も……。

 嫌な感じがする。こころなしか空気が湿っぽい気がしてきた。

 ――あと少しだけ進んだら引き返そう……。

 と、落石注意の標識が目に入った。

 汗が鏡治郎の首筋を伝う。なにかがおかしい。緊張で視界がはっきりしてきて、周囲を観察しろと本能が告げている。念のため標識の黄色と黒のピクトグラムの掠れや金属板の凹みを記憶しておく。周囲の木の枝の形もしっかりと見ておく。

 小走りになった。白く丸く切り取られた景色が後方にするすると流れていく。

 ――落石注意。

 不安感が胃の底を冷やす。なんてことだ。まったく同じ標識だ。同じ掠れに同じ凹み。さらに木の枝がわずかにかぶさっている格好までも同じ。

 鏡治郎は立ち尽くす。空気の湿っぽさがあり得る限界を越えて皮膚に迫ってきた。空間が粘度を持って身体にまとわりついてくる。まるで水中にいるかのように手足の動きに抵抗がかかる。

 ――あの話と同じだ。

 重い身体と恐怖が逃げ出すことを許さない。感覚だけが鋭く、思考は鈍くなっていく。振り返って道を駆け戻ろうとするが、その動きは鋭敏な感覚によって実際よりもスローモーションのように思える。

 後方に向けられた懐中電灯の明かりは白く丸く路面を浮かび上がらせる。幸い、道はそこにある。もしかしたら円形の道をぐるぐる回っていただけだったのかもしれないという可能性にすがり、息苦しさの中、水をかき分けるように走り、遠くに分かれ道のようなものがないか目を凝らす。

 すぐに信じられない光景が目に飛び込んできた。

 舗装路のど真ん中に巨木が生えて行く先を塞いでいる。

 道路は乗用車二台がぎりぎりすれ違えるほどの幅なのだが、そのほとんどを占めるほどの太さがある。幼稚園児に木の絵を描けといったら大多数はこう描くだろうというような形状をしている。太い幹があって、中程から枝が分かれ、楕円の中央に筋のある葉が枝を覆うように茂っているというもの。

 鏡治郎の知識では学校の校庭を囲むように植えられていたクスノキだと思えたが、それにしても太く大きい。上方を懐中電灯で照らしてみるが、密集した枝葉が夜空を覆い隠している。

 異常な空間に迷い込んでしまった恐怖があるが、なによりこの空間の構築に意思を持ったなにかが介在しているという可能性に思い至ったことがより不安を掻き立てる。改めて後方を見てみれば、そこにはまっすぐ伸びる道路があり、脇には落石注意の標識が。左右いは鬱蒼と木々の生える斜面と崖。この一直線の空間に閉じ込められたようにしか思えない。道路標識側にまっすぐ進めば、この巨木のすぐ手前に瞬間移動してしまうのではないか?

 だが塞がれているとはいえ立木にすぎない。その左右にはすり抜けられる程度の隙間があいている。とりあえずそろりそろりと近づいて木の肌に触れてみた。

 よし、何も起きない。

 木の肌に左手を添えたまま右へと回り込んでいく。手にざらざらしたものを感じながら歩く先にライトを向けて一歩づつ前へ。どうやら木の向こうは広い空間があるらしい。ライトの光が漆黒の空間に消えていくかのようだ。

 ゆっくり進むと、木の肌を擦る右手が枝に触れた。低い位置に細い枝が生えていたらしい。手の位置を変えようと動かすと、指が枝に引っかかり、思いの外簡単に枝が折れた。

 反射的に枝を掴み、顔の前に持ってきた。

 枝は金色に輝いていた。

 ――は?

 左手のライトを手元に持ってくる。まるで金属のような光沢のある金だった。しかもライトを外すと自ら薄く発光している。

「なんだ、これ……」

 思わず言葉が漏れた瞬間、その金色の枝が爆ぜた。理科の実験でマグネシウムに火をつけたみたいにパッと金色の光が周囲に広がり、手の中から枝が消える。直視してしまったため視界が真っ白になる。

 目を瞑り、腕を顔の前に持ってくる。

 幸い、目の痛みはない。それに安心して目を開き周囲を見る。

 光が満ちていた。昼になったみたいに周囲がはっきりと見えた。

 そこは巨木を中心とした広大な草原で、おとぎ話で登場する楽園のように見えた。空は青く白い雲が浮かんでいる。鮮やかな緑の芝はどこまでも続き、合間に名も知らぬ白やピンクの花が咲いている。

 安心と不安のどちらを感じればいいのか。わけのわからぬ空間に閉じ込められたのは恐怖だが、緊張感を維持するには景色がのどかすぎる。

 と、巨木の反対側から声が聞こえてきた。一瞬、身構えるが、この声も柔らかく緊張感のないものだった。

「にょーにょーにょー」

 猫とも人間の子供ともつかぬが、言語であることはわかる。複数の「にょー」は折り重なっており、心地よい歌声となっていた。

 鏡治郎は巨木を回り込み、そちらに視線を向けた。

 草原で輪になって踊っているのは子供たちだった。ただし頭には猫の耳やら犬の耳やらがついている。歌声同様、子供でも猫でもあるらしい。

 全員が女性のようだ。印象からすれば少女というべきか。年齢は見方によって五歳ほどにも十六歳ほどにも思える。背丈や体型、顔立ちは幼児から小学校低学年のようだが、表情には幼児性が感じられない。誰もがのほほんとした顔をしており、そこに衝動性や直情的な気配はみじんも見られないのだ。

 つまりは漫画やアニメに出てくる猫耳の少女……やや幼く等身が低いタイプのそれが大量にいるということだ。

 ――そこまでそういう作品が好きだったとは思っていなかったけどなぁ。

 幻覚としたら大好きなものか大嫌いなものが出てくるのではないか。直線道路に閉じ込められたと感じたのは、典型的な幻覚だったように思える。それは自らが抱いている恐怖を具体化しかとしても納得できる。だが、眼の前の光景は無意識下でも望んでいなかったことだろう。

 ――呑気すぎる。

 緊張感がないどころか、底抜けに牧歌的な光景。それに猫耳たちの歌声が拍車をかける。漫画なら手書きの丸っこい太字で空に「にょーにょー♪」と記されているだろう。のどかというか間抜けですらある。

「にょっ?」

 一匹と言っていいのかわからないが、輪のうちの犬耳の一匹が、垂れ気味の耳をぴくりと上げて鏡治郎を見やった。釣られて他のケモミミたちも踊るのをやめて次々と鏡治郎に顔を向ける。

 わーわーわー。もっもっもっ。

 擬音でいうとそんなあたりの気配を出しながら、彼女らは大好きな遊具に殺到する幼稚園児のごとく一斉に鏡治郎に向かってきた。短い手足でトテトテと転がる子犬のごとく鏡治郎にじゃれつこうとしていることは明らかだ。

「すごいな」

 思わず鏡治郎はつぶやく。我先にケモミミたちが腰の周囲に抱きつこうとし、押し合いへし合いじはじめる。モチモチとした感触が脚に心地よい。自然に手が触れた何匹かの頭部をなでてやると「きゅー」という喜びの声と喉を鳴らすような音が響き、手のひらにふわふわとした柔らかい髪の毛の弾力が伝わる。

 手近な一匹を抱き上げ、自分の顔の高さに掲げて詳しく見てみる。

 警戒心なくキャッキャと喜ぶ彼女の顔は、ほれぼれするような可愛さ。目は大きく喜びと好奇心に輝き、桜色の頬はモチモチで大福のよう。眉と鼻はちんまりとしていて、口は表情豊かな笑みを作っている。そして、なにより小さめの猫の耳がぴょこぴょこと動いている。理想的な猫耳の天使だ。

 服は白のワンピースだが、東欧の民族衣装的な刺繍がなされており、新鮮な赤と深みのある緑の植物の意匠が幾何学的に表現されている。誰が作ったのか、これも彼女が着ると可愛く見えるように計算し尽くされているかのようだった。

 鏡治郎としても思わずにやけてしまうようなほんわかした雰囲気。細かく見てみれば、周囲を囲んでいるケモミミたちは、耳も各種動物色々と違い、顔も整っているという共通項こそあれ、個性に溢れている。服装も刺繍が個々人ですべて違うらしい。

「これはいったいなんなんだろう……?」

 状況の意味不明さに思わず出た独り言だが、驚いたことにその言葉に反応があった。抱き上げていた猫耳が、どこから取り出したのか彼女らの身体のサイズにぴったりの小さいホワイトボードを抱えていた。そこに丸っこい文字の日本語が書かれていた。


 われわれの王様になってください。


「え? いいけど、そういう遊び?」

 そう口にした瞬間だった。周囲の陽光がいきなり輝きを増しはじめた。同時に白濁した液体の中に急に身体が沈んだかのように感じられてくる。あの湿度が復活したのだ。呑気な景色は白の中に消え去り、手の中にいた子供の体の柔らかい感触もいつの間にか無くなっている。重い水の中にいるかのような粘度を手のひらに感じるだけだ。

 視界は白に満ちている。まぶしくはなく、熱も感じない。ただ白いまとわりつくような空気だけが満ちている。と、その奥行きさえわからぬ空間に、目印になるような黒点が次々と出現した。

 鏡治郎は驚きに目を見開いた。黒点は空間に浮かぶ黒い虫だった。まさに老職人の話に出てきた鞭毛を持ったそら豆のような黒い浮遊する生物。

 ――僕の身体から出てきた?

 そう考えたのが誤解だったことがすぐにわかる。鞭毛を螺旋状に鋭く動かして空間を走る虫は、確かに自分の体に向かってきていたのだ。

周囲にまさに星のごとくに浮かぶいくつもの虫が流星となって降り注ぎ、ひとつ、ふたつと体表から内部に浸透してくる。

 だが皮膚にはなにも感触はなかった。それでもなにかが体に入ってきたという確信めいたものがある。目で見ていなくとも、通常ではありえないことが自分に起きている。

 ――どうしてそれほど怖くないんだろう?

 そう意識した瞬間、周囲の景色は闇に沈んでいた。

 あまりの環境の変化にビクリとして首を巡らせると、夏の湿っぽい夜風を頬に感じる。左手に引っ掛けるように持っていたライトが足元を照らしていた。落としたコーラのペットボトルが白い輪の中に見える。

 巨木に塞がれていた道は、以前のようにまっすぐに続いている。ライトを振り回してみると、背後には落石注意の看板が見える。

 なんの変哲もない夜の道だ。

 ペットボトルを拾い上げ、落石注意の看板から遠ざかる方向に歩く。ほどなくして今晩の宿である工場の明かりが見えてきた。確証はないが戻れたということでいいのだろう。

 腕時計を確認してみる。時間の経過は体感とほぼ変わりないように思える。この手の話でよく聞く、気がつくと数日後だった、のようなことはなかったらしい。つまり、まだ深夜前であり、歩きはじめたときから一時間ほどしか経っていないということになる。

 それから不安は残ったものの、鏡治郎は布団を引っ張り出してきて眠り、翌朝には工場の人々に挨拶をして出張を終えた。

 そして、現在。

 体調も気分も好調だが、段々と仕事ができなくなっていき、とうとうわけのわからぬ「仕事をしなくてもいいが会社にはいてくれ」という宣告をされている。

 まだ昼前だが、自由にしてよいという宣告を真に受けることにして、会社を抜け出る。不思議と上機嫌は続いている。楽しい気分で駅前大通りに出ると、いつものようにチェーン店の牛丼屋とラーメン屋の並んでいる方向へ。

 ――いや、そういう気分じゃないな。

 中原街道の向かい側にうなぎの名店があるのを思い出した。

 信号待ちをしていると、買い物の主婦や宅配便の配達員の視線が自分に注がれているのを感じた。先ほどの社員たちと同様、商店街を単独で歩いている子猫がいたなら誰でも向けるであろう、あの視線だ。

 ――やっぱりそういうことなのかな?

 鏡治郎は視線を浴びながらうなぎ屋の開店待ち列に並ぶ。おそらくは暇を持て余しているのであろう老夫婦が先に並んでいた。

 店のウィンドウに写っている自分の顔を眺める。

 以前と特に変化があるようには見えない。と、老夫婦がこちらを見て話しかけてきた。

「あら? 食べたいの?」

「ええ、そうですね。老舗だと聞きましたので」

 並んでいるのだから食べたいに決まっているだろうと鏡治郎が不審に思っていると、老婦人がニコニコしながら言う。

「お金ないのね。出してあげるから一緒に食べようね」

 心底からの微笑みで老婦人。夫もニコニコとうなずいている。

「いえ、お金ありますけど」

 首を横に振るが、老夫婦はうなずくばかり。

「そんなにかわいいのだから、お金なんて持ってないわよね。無理しなくていいのよ」

 じゃあなんで並んでいたのか、という理屈は通じないらしい。楽器店でトランペットを眺めている子供とでも思われているのか。

 兎にも角にも店は開いて、老夫婦に昼コースをごちそうになる。

 他愛もない話をすると、老夫婦はキャッキャと喜び、孫を相手にしているかのように細々と世話を焼いてくれる。瓶ビールをグラスに注いでくれているから子供扱いではないようなのだが、それでもちびちびやると幼児が炭酸水を初めて飲んだみたいな反応である。

 ――これはもう、そういうことだな……。

 昼間からビールでうなぎのコースという贅沢に酔いしれているが、心の何処かに諦念のようなものがひっかかりはじめる。

 たっぷり時間をかけた食事の後、老夫婦にお礼を言って別れ、いつまでも手を振る彼らに何度もお辞儀をしながら遠ざかる。

 なんとなく会社に戻る道中、人気がなくなったあたりで、左の足元から「にょー」と声がかかる。そちらを見下ろすと、足元にあの猫耳がまとわりつくように立っていた。

 彼女はホワイトボードを掲げている。


 われらの王。今日もとてもよいかわいさでした!


 かわいいから好き勝手をしても許されるし、食べ物も恵んでもらえる。

 そういうものになってしまったのだ。

 ――なるほど。なっちゃったもんはしょうがないんだけどさ……。

 心の中に暗い感情はなにひとつない。あの間抜けな青空のように清々しい。

 それでも、鏡治郎は失ってしまったものが大きいことに思い至らずにはいられない。それほど嫌ではなかった仕事。料理を褒めてもらうこと。それなりの苦労とそれに見合ったささやかな生活の幸せ。孤独な時間。それらが一息に失われてしまったわけだ。

 失われたものに対して悲しむことはできなかった。ただのほほんとした心持ちだけが、昼寝の猫のような幸せ顔で体の中央に居座っている。

「僕はかわいいの王様か」

 鏡治郎は言った。

 猫耳がホワイトボードで答えた。


 そうですとも! われらが王!


 猫耳は無地の白いワンピースに大きな麦わら帽子をかぶっていた。

 かわいい。

「それじゃあ行くか」

「にょー!」

 どこへ行くのかはわからないが、ともかくそういう気分になったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

重力の雨滴に震える猫 水城正太郎/金澤慎太郎 @S_Mizuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ