第1話【アクアマリンとタルトタタン③】
指輪の石から、ふつりと涙のように水が浮かんで、アンティークの机に落ちたのだ。
それを皮切りにぽつぽつと水の雫が生まれ、机の上で弾ける。その一部始終を玖治はじっと見詰めている。何かを探ろうとするような、少し、困ったような。
「あの……」
「……すみません、ちょっとだけ、お時間を頂いても良いですか」
言いながら手袋をはめた指がそっと指輪を撫でると、次第に水滴は少なくなってゆき、やがて止まる。これはいつものことだった。
「この石、とても綺麗なんですけど、クラック……傷がありますね、これは貴方がお持ちになる前からありましたか?」
「え?いや、どうだったかな……昔見せてもらった時には無かった気がするけど……」
「そうですか……」
再び玖治が黙ってなにごとかを思案し始める。手袋を片手だけ外し、口元に指を当ててじっとどこか遠くを見るような仕草をした。
何かを話した方が良いのか、それとも邪魔をしない方が良いのか。
どうすべきかを決めかねていた空気ごと綺麗に壊したのは、第三者の介入であった。
「春、難しい顔しすぎじゃない?」
「――え?」
凛と低い、聞き心地の良い声が突然響く。玖治のものでも、己のものでもない。
そうして目の前に白磁のカップが置かれ、真っ赤な爪の手元からゆっくりと突然の声の主を辿って。
(うわッ?!)
衝撃のままに声を上げなかった己を、褒めてやりたいと思った。
視線の先にいたのが、とんでもない美形であったからだ。
艶やかな、癖のない亜麻色の髪。シミひとつない、先ほど置かれたカップのような雪華の肌。長い睫毛。切れ長の瞳も爪と同じ緋色で、薄い唇や鼻のパーツが浮世離れした完璧な美しさで配置されている。
玖治も可愛い類の顔立ちだとは思ったが、目の前の男は次元が違う。
「
「してた。依頼人さんが困ってるでしょ。ごめんね、こいつ、まだまだ鑑定が甘くて」
ダークグレーのストライプのセットアップを嫌味なく着こなした男は、そう言って笑う。おそろしいほどの美しさなのに、目元や口を三日月のようにして笑うと、どこか親しみやすさがあった。
「朱!今そう言う話は依頼人さんにしなくて良いだろ?!」
頬を赤らめた玖治が立ち上がろうとするが、優美な仕草で朱と呼ばれた青年に軽く推し留められる。
「はいはい。とりあえずお茶でも飲んで落ち着きな。依頼人さんは、甘いものとか平気?」
人懐こい笑みで朱が聞いてくるが、正直あまり頭に入ってこない。世の中にはこんな美形が存在するのかと、ただただ呆然としてしまった。訳もわからぬまま頷くと、器用に片手に携えていたトレーからカップと揃いのプレートを音も無く二人の前に置く。
湯気とともに広がる、キャラメルの甘い香り。
「え、と」
「良かったら、どうぞ。梨をいっぱい貰っちゃってね、一緒に消費してくれると助かるんだ」
ふわりと、非の打ち所のない美しさで朱が微笑む。強制こそされていないが、その笑みにはどこか従いたくなる不思議な引力があった。
視線をプレートに戻せば、白の皿にはキャラメル色のケーキが乗っている。松島はあまりスイーツに詳しくないのでそれが何と言うケーキなのかは分からなかったが、自然と横に添えられた古美金のフォークを手に取っていた。
三角に切られたケーキの中ほどにフォークを入れた。上は少し弾力があるが、下の方はさっくりと切れる。そのまま口へ放り込むと、甘くほろ苦いキャラメルと、じゅわりとした梨の程よい酸味が広がった。最後にタルト生地のさっくりとした食感があり、甘さと苦味、酸味のバランスがちょうど良い。後を引かない甘さに、あまり甘味が得意でない自分でも美味しいケーキだと思った。
「美味しい」
「そ?良かった」
にこにこと愛想良く朱が笑い、玖治にも食べるように促している。玖治は最初渋っていたが、朱がなにごとかを耳打ちすると、ふるふると震えながら仕方なしと言ったていでフォークを掴んだ。
同じようにケーキを一口頬張ると、眉を顰める。甘いものが苦手なのだろうかと思っていると。
「悔しいけど美味しいぃ……」
そう、幼さの残る声で悔しそうに呟いたのだ。どうやら彼は相当な甘味好きらしい。
「ははは、そうだろうそうだろう」
満足げに笑った朱はそのまま玖治のフォークを奪い、残りの三分の一を食べてしまう。「あッ!!」と声を上げる玖治をよそに「うん、美味い」と嬉しそうに咀嚼を続けた。
その自然なやり取りを眺めながら、カップのお茶を一口啜ると、意外な味がして目を丸くする。その様子を目ざとく見つけて朱が声をかけてきた。
「あ、こちらの方が合うかなあと思ってほうじ茶にしたんだ。驚かせたならすまないね」
彼の言うとおり、カップの中身はほうじ茶だったのだ。紅茶と思って口をつけたので驚いたのだが、これまた彼の言葉とおり、このケーキには良く合う。
屋敷の雰囲気もそうだが、この組み合わせも不思議と馴染んでいた。
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