玖治琥珀堂の宝石綺譚

@manuru-tukinaga

第1話【アクアマリンとタルトタタン①】

松島明空アクアはごくごく普通の人間であると自負している。

名前こそ非凡であったが、それも社会に出てしまえば下の名前を呼ばれることはほとんど無い。別段不幸と思ったこともなく、平穏に毎日を過ごしていた。

……つい、数ヶ月までは。


「……はあ」


盛大な嘆息は心の声の漏洩か、それとも都心にほど近い場所でありながら急勾配の続くこの道のせいだろうか。

十月の半ばだというのに近年の異常気象のせいか長時間歩いていると汗ばむような気温と、小さな橙色の花を咲かせた金木犀の甘い香りが、ひどく違和感をもたらしていた。

ふと、男が足を止める。疲労からではなく、目的の場所を見つけたからである。

液晶画面に映ったマップアプリには目的地と己の位置がぴったりと重なっていた。


「ここ……?」


アーチのように木々が囲う玄関までの道を抜けると、ひっそりと佇んでいたのは一軒の古めかしい家であった。椿や金木犀、槐の木に守られるようにして玄関さえぱっと見では分からない。恐る恐る足を踏み入れると、甘い香りがいっそう強くなった。

視線を落とすと、足元の手作りらしき木札に屋号のような文字が書いてある。よくよく見ると男の求めていた文字であったので、仕方なしに引き返すのはやめた。

インターホンは見当たらず、ガラス戸に手をかけた……するとあっさりと引き戸が開いたので、男は呆気に取られる。


(無用心にもほどがあるだろ)


自分が空き巣だったらどうするのか。もちろん何の他意もないが、むしろここまで無用心だと自分の方が何らかの誤解を受けるのではないかと不安になってしまう。


「すみませーん……」


あまり大声を張り上げる気にもなれず、小さく声をかける。が、反応は、無い。


(やっぱり、帰ろうかな)


もともとさほどに乗り気ではなかったのだ。それでも、どうしても目を背けることは出来ず、気付けばこの家の住所が載ったサイトを探し当てていた。


(そうだ、折角ここまで来たんだ)

「すみま――」

「はぁい!!すみま……ぅわぁあっ!!」

「ッ?!」


突然。奥の方から声と、どさどさと何かが雪崩れる音が響く。

びくりと飛び上がりかけ、音のした方へ走ろうとも思ったのだが勝手に室内に入るのは憚られて、男は少しの間待った。


「……えっと、すみません、お待たせして」


やがて奥の間からひょこりと顔を出したのは、若い青年だった。大学生か、社会人になりたてくらいだろうか。少し寝癖のついた黒髪に、柔らかな印象の顔立ち。けれど白緑びゃくろく色の着物が彼の年齢を不詳にした。

何かにぶつかったのか、丸い瞳が潤んでいる。登場の仕方もあいまってか、どことなく。


(子犬っぽい人だな……いや、初対面で失礼かもしれないけど)

「あの、大丈夫でしたか?」

「え?」

「すごい音してたので」

「あ、ああ。うん、大丈夫です。ちょっと転んじゃって」

「驚かせちゃいましたかね、すみません」

「いえ!俺、よくやっちゃうので……気にしないでください」

言ってへらりと青年が笑う。笑うとますます幼く見えて、年齢が分からないほどだ。

やがて青年の方が男の方をしっかりと見て、小首を傾げる。

「あ、何か御用でしたでしょうか?」

「ああ、えっと、今日予約してた、松島と申します」

すると青年が、ああ!と目を瞬かせる。丁寧な所作で招き入れる仕草をして。

「そうでしたか、お待ちしてました。ようこそ【玖治琥珀堂くじこはくどう】へ」


今度はどこか大人びた表情で、笑んだ。

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