第6話
六
その三日後、陳留という要衝地に到着。
ここで、安禄山は怒り狂った。
陳留城内に掲げられた高札に、安禄山が唐に背いた反逆者とされた事、長安に残していた長男・安慶宗が斬られたという事が記されていたのである。
「李隆基め、やりおったな! 息子を殺し、わしを逆賊と決めつけたか。今まで唐の辺境を守って来たのは、誰だと思っているのだ!」
李隆基とは、皇帝玄宗の本名である。
それを呼び捨てにして、安禄山は酒杯を床に叩きつけた。
「わしを甘く見るなよ。仇討ちは、今ここから始めてやる。――皆、もう我慢しなくていい。陳留の兵は全て殺せ。略奪も構わん!」
義軍だったはずの将兵たちは、この言葉で完全に箍が外れてしまった。雷梧は好きではなかったが、将兵の楽しみといえば、戦に勝った後の略奪なのである。
安禄山の許しが出た途端、彼らの欲望は剥き出しになった。抵抗する者は容赦なく殺され、城内は地獄絵図となったのである。
「どうしてだ。僕らは正義のために進んでいるはずなのに」
兵舎の窓から様子を見て、雷梧は慌てた。すでに自分の部隊も、略奪に加わっている。
「僕の隊だけでも止めないと。これでは賊と変わらない」
急いで鎧を着け、厩に走って闇鵬の手綱を解く。しかしその途端、追いつめられた陳留兵の一団がなだれ込んで来た。
その一人が、雷梧の姿を見て止まる。
「おい、こいつ。安禄山軍の将軍だ」
「まさか。子供だぞ」
「間違いないさ、この鎧。先頭で入城して来たのを見たんだ」
陳留兵たちは頷き合い、持っていた槍で突きかかろうとする。
咄嗟の事に、雷梧は凍りついた。
こんな形で死ぬのか。
「うわっ、何だ、この馬」
しかし、闇鵬が急に暴れ出し、陳留兵を蹴散らした。逃げ出す彼らを見ながら、雷梧は愛馬をなだめる。
「ありがとう、闇鵬。また助けられたな」
初陣のときも、この馬が跳び出さなければ勝利はなかった。危機に敏感な馬である。
それにしても。
安禄山軍は、略奪と殺戮を続けている。
だから陳留の兵には、必死に抗う事しか残されていないのだ。
(僕は暴力を振るいたくないけど、信じてもらえる状況じゃないな)
雷梧は闇鵬に跨り、外へ出た。恐慌になって向かってくる兵は、仕方なく斬る。残念だが、窮鼠のような相手に、うまく手加減ができない。
人の流れをくぐり抜け、城へ向かう。
壕の吊り橋を渡り、馬車が何台も併走できるほどの広い道を走ると、頑強な石垣に乗った朱色の門が見えてきた。
馬を下り、門を通って本殿前の廊下で呼びかける。
すると、少し扉を開けて、厳荘が現れた。
焦燥を露わにして、雷梧は両手を広げる。
「殿に直接、お話がしたいのです。どこにおられますか」
その時本殿の奥から、女性の悲鳴と、安禄山らしい笑い声が聞こえてきた。
雷梧がのぞき込むと、厳荘がすぐさま扉を閉める。声は消えた。
「殿はお楽しみの最中だ。邪魔をすると、私でも斬られる」
厳荘は、薄笑いして首を振った。
「殿はなぜこんな事を? ご子息の事は残念でしょうが、なぜ前もって呼び戻さなかったのです」
安禄山の長男・安慶宗は長安に残されていたため、見せしめとして処刑されていた。しかしこれは、范陽から挙兵する前に防ぐこともできたはずである。雷梧は、興奮してそうまくし立てた。
が、厳荘は鼻で笑う。
「呼び戻せば、計画がばれる可能性がある。だから殿は、ご子息をこういう形で利用したのだよ」
雷梧は首をひねる。意味が分からない。
厳荘が、雷梧の肩に掌を置いた。人とは思えぬくらい、冷たい。
「雷将軍、君もそろそろ気づいていいはずだ。我々がどうして挙兵したのか」
凍てつくような、厳荘の目。雷梧は、自分の頭の中で、何かが百八十度回転する音を聞いた。
「……謀反だったのですか」
厳荘は、苦笑して頷く。
「純真な君には、ちょっと黙っておいた。悪かったね」
「うう……」
雷梧は唸った。知らぬ間に涙もこぼれている。正義だと信じて疑わなかったものが、泡となって消えた。
しかし、簡単に消させて良いわけはない。将軍用の剣を、勢い良く床に捨てた。
「冗談じゃないぞ。僕は逆賊になどならない」
そう言って厳荘をにらみつけた。しかし厳荘は、反対に和らいだ表情になる。
「聞いてくれ。我々の行動は、唐から見れば確かに謀反だ。しかし、楊貴妃との享楽で堕落した皇帝と、その陰で悪政を続ける楊国忠。奴らに支配されている民衆こそ、哀れではないか。……だから雷将軍、今だけは汚名を被ろう。いずれ殿は唐を破り、新しい皇帝となる。それから、共に平和な国を作ればいい」
雷梧は止まった。
そう言われると、一理はある。怒りも少し収まって来た。
唐の辺境で暮らした雷梧には、安禄山が支配する一帯が、事実上の「国」であった。それ以外は知らない。だから、長である安禄山が、唐の腐敗を一掃し、新たな国を建てようと考えているなら、それは良いことなのではないか。雷梧は頷きかけた。
「いや」
しかし首を振る。
「だとしても、陳留の兵は恭順したのです。それを殺すなんて。無用な殺戮をしては、民衆も我々を恐れます」
矛盾をついたつもりだった。
しかし、厳荘は毒々しく嗤う。
「唐側もこうなる事は覚悟の上で、安慶宗殿を殺したのだ。……政治とはな、きれい事だけで進むものではない。それに、その返り血は、唐の兵を斬ったものではないのか?」
そう言って、厳荘は雷梧の鎧を指さした。
雷梧は、返す言葉がない。
自分がした事も、この謀反も、すでに取り返しのつかないところまで来ていると、改めて思い知らされた。
だが、望みは捨てたくない。
「殿は、僕を養子にしてくださった。僕から頼めば、きっと考え直して」
言い終わる前に、厳荘が腹を抱えて笑いだした。
「殿の養子が何人いるか知らないのか? 八千人もいるんだぞ。これは節度使が皆やっていることだが、親子の関係で結束を強くするという便宜だ。要するに、親分子分の間柄さ」
「なに」
そういうことか。
完全な勘違いだった。
以前に時仁夏が口を閉ざしたのは、事実を言って悲しませたくなかったからだろう。
身が縮む思いだった。何も知らずに喜んでいた自分が恥ずかしい。安禄山の優しさは、全て計算の上だったわけか。
「例の密書も、捏造だったんですね。なぜあの時、僕を長安へ行かせたんです」
雷梧は、いま気付いた疑問をぶつけた。
「挙兵前の、最終的な偵察さ。王金鹿たちがその役目だった。お前を観光させるという口実で、関所を通ったんだよ」
厳荘が微笑みながら一歩寄る。嘲笑っているような顔だ。
「そもそもお前を取り立てたのも、『軍功はきちんと賞する』と皆に知らしめる演出だったのだ。……だがな雷梧、殿は感謝していたぞ。決起の後も、お前の純真さで、うまく兵たちを誤魔化せたからな」
止めを刺すような慰めを残して、厳荘は去った。
雷梧はその場に膝をつく。
しばらく思いを巡らし、そして剣を拾った。
結局この日、安禄山軍は陳留の兵一万人を虐殺したのだった。
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