五十二 仄暗く
****
昼下がり。飲みかけの葛湯みたい。
さほどつめたくはない。どこかもったりとしていて、決してあたたかくない。
それでも、やはりのどかではある。悲鳴も怒号も聞こえず、ばけものも暴れておらず、だれも血まみれになっていない。
あれから、半月ほど経った。
すべてが終わったあとに決めたとおり、衣子は
このあたりの
だからあの夜からは、ほかの場所の傀廻しがやってきたり、屈強な兵士が
あの日の夜からは、なにも起こっておらず毎日おだやかだ。いまはともかく、もしもあの夜にまたなにか暴れていたとしたら。考えると、ぞっとするような気もする。きっとみんな、いろいろさっぱり、あきらめられただろう。
このあたりの傀廻したちは、しばらく居座っている徳彦と衣子に対し、ていねいに接してくれる。傀の暴走を止められなかった
でも、なかよくしているかと言えばそういうわけでもない。必要なやり取りしかしない。豊手村の吊頭所のひとたちともそうだ。
そんなこんなで半月も経てば、ひどい怪我を負った傀廻しも回復してきていた。そろそろここにいる必要もなくなってきた。いたってかまわないのだろうけれど、いようとは思わない。だからと言って、行くところがあるわけでもない。もう、居場所はなくしてしまった。
暁城の周辺は、
徳彦と衣子は、昼間には城周辺の片づけにも加わることがある。気持ちがよいことではないのは当然で、でももう、慣れてきてしまった。
いまはとくに、なにも感じてはいなかった。あの日のことは、あまり覚えてもいない。おぼろげに思い出すことだって、つらくていやというよりは、単に面倒なのでやらない。
もっと時間が経てば、ひどく苦しくなったり死んでしまいたくなったりするのだろうか。そんなおのれの様子は、どうも思い浮かべることができない。ずっとこんなふうに、ゆるくてぬるいままでいる気がする。この、仄暗くけだるい感じは、べつにきらいじゃなかった。
「おい」
聞き慣れすぎた声がした。急なことでも、驚きもしなかった。
「なにやってんだよ」
衣子は顔も向けずにこたえた。
「空気をね、見てんの」
「なんだそれ」
あきれた調子で言いながら、徳彦は衣子のとなりに腰を下ろした。となりと言っても、ひとりぶんくらいの隙間があいている。いまはそれ以上寄ってほしくないと、ぼんやり思う。きっと寄ってなど、こない。
徳彦は、近くに来たくせに黙りこくっていた。衣子も、喋ることなんてないので黙っていた。ひとの話し声や、鳥のさえずりが遠く聞こえた。みんな生きて音を出しているのだと、わたしも生きてそれを聞いているのだと、それがなんだかとてもふしぎで。
耳を澄ませると、徳彦が息をしているのがわかる。少し不自然で、がんばっているみたいだ。徳彦も生きていて、生きようとしている。
「あんたこれからどうするつもり」
気づくと衣子は、徳彦にたずねていた。沈黙が気まずかったわけではなくて、なんとなく、口から言葉が落ちた。
「これから」
徳彦は繰り返し、それきりまた押し黙った。なにも言わないほうがよかったのかもしれない。一生返事がない気がして、それでもまあいいかと思ったとき、徳彦が言った。
「おまえはどうするんだ?」
え、と高い声がもれてしまう。
「え、ってなんだよ。なんか考えてたんじゃねぇのか」
徳彦は、足のそばに生えたしぶとそうな草をいじくり回していた。
「考えてねぇから聞いたってことか?」
衣子は口を結び、抱えた膝に顎をのせた。
「考えてないっていうか。考えてなかったけど。でも、そろそろ考えなきゃだめでしょうよ」
あんたは。
「考えてんの?」
「まあ、そうだな、ここにずっといる気はねぇな……」
徳彦は、今度はさらりとこたえた。
「ここでお役御免になったら、出て行って」
「でも、あんた傀廻しでしょ。出て行っても、やれること限られてる」
「そうでもねぇだろ」
徳彦は急に、衣子の手首を指差してきた。
「おれらは傀廻しみたいなことしてたけど、ちゃんとした傀廻しじゃない。血は入れたけど、入れ墨なしだ。だれもわかんねぇよ」
こともなげに言う。たしかにそうだ。
「じゃあ、なんか仕事も探せるか」
「探そうと思えば。まあせっかく飲んだんだし、血を生かしたっていいけど」
「傀廻しやるの。
「べつにやりたくはない。だけど戦に同行して護衛しろって、いつもどこかしらで募ってる。それをやったら、しばらく暮らせるってさ。困ったときはそれだ。けどなんか傀廻しって、献身の病にかかってんだろ。身体もそれなりに鍛えてるし、いろんなやつが雇いたがるんじゃねぇか」
徳彦は、やはりいろいろと考えているようだ。衣子は少し、ほっとする。
「でもほんとに、そんなに都合よくあるの、戦」
「おまえな、それは困ったときだって」
「困るかもしれないでしょ」
「心配してんのか?」
「あるの」
「あるだろ。戦しかねぇだろ」
「ずっと?」
「ずっとだろ」
「そう」
なんだか中身のないやり取りをして、また沈黙してしまう。やはり、風にとろみがあるように思う。身体に絡みついてくる。
「衣子」
ふと呼ばれた。衣子は宙を見つめながら返事をした。おまえさ、といったん区切ってから、徳彦は言い当てた。
「考えようと思ってねぇだろ」
「うん」
悟られたものは、しかたない。
「だって、めんどくさいよ」
衣子はつぶやいた。まろい空気に、吸い取られて消えそうだから、なにを言ってもいい気がしてきた。
「考えるの、めんどくさい。考えたくない。考えなきゃいけなくなるから、めんどくさいよ」
徳彦は遮らない。
「生きてたら。考えなきゃいけないからめんどくさい。わたしもうやめるよ」
「死ぬってことか?」
衣子は思わず目をしばたいた。長くて鋭い静寂を想像していたから、即座に返事があったことに、たじろいでしまったのだ。そして徳彦の問いは、衣子の言葉よりもずっとなめらかだった。
「えっと。うん。そういうことかもしれない、ね」
衣子は調子を乱されつつもこたえた。なんとなく徳彦のほうを見られず、草がはげた地面を見ていた。そうか、と徳彦は言った。
「じゃあ死ぬか」
「は?」
すっとんきょうな声が飛び出し、身体が徳彦のほうを向いた。
「あんたなに言って──」
衣子は続きを飲み込んだ。深淵にのぞき込まれていたから。そろりとつめたく、心臓が撫で上げられる。
「どうした? 衣子」
湿った夏の夜風に似ている。いつもとちがうその声に、衣子はこたえを返せない。そのうちに隙間が、埋められてしまう。それ以上、寄らないでと思っていたのに。それ以上、離れないでと思っていたから。
長い指が、衣子の両肩をとらえ、封じる。そして底の見えない瞳が、むやみに近づいてくる。こんなにも、妖しく端正だっただろうか。そんな、どうでもいいことを、どこかで思って。まばたきもできず、時を止めた衣子の額に、かるく、額が当てられる。
「気色わるいだろ」
問いではなく、徳彦は断じる。衣子はなにも考えず首を振る。おなじぬるさの額が擦れ合う。
「だけど本気だ」
知った声音が戻ったことに少し安心して、でも、こんなに近くでこのひとを見たのははじめてで、衣子は動くことができない。
「本気だから」
徳彦は言う。
「おまえが死んだらおれは死ぬ」
「頭──」
おかしいんじゃないの。
「おかしいけど。おまえがいないと、どうなるかわかんねぇよ。おれは」
ばけものだから。死ぬしかなくなる。徳彦はささやき、目を閉じる。
「おまえ、わかってて、へんなことばっかりやってるんじゃねぇの」
わからない。
「おまえみたいな、手のかかるやつの世話してたら、ひとみたいになれるんだよ。そうやっておれのこと、ひとにしようとしてるんじゃねぇの」
そうかもしれない。
「ばかだね。買い被りすぎだ」
衣子はこたえて、目を閉じてみる。
暁城で、はじめて徳彦に会ったとき、この子はからっぽなんだと思った。わたしとは、ちがうんだと思った。なにも、注がれたことがないんだ。でもその、がらんどうに、どうしようもなくひきつけられた。ずっと見つめていたくなった。うまく繕って隠しているから、なおさら。
どうすれば、このひととおなじになれるだろう。だいじなものを失えば、なれるだろうか。つらくてかなしい思いをすれば、なれるだろうか。どうすれば、おなじものが見られるだろう。
ずっとそんなことを考えていたから、もう二度と家からの迎えは来ないのだと知ったとき、衣子はじんわりと、うれしかった。
父や母が死んだというのに、そんなふうに思うなんて、ひとでなしで、ばけものみたい。おのれの心に驚いて、恐ろしくもなったけれど。これでおなじだと思った。
「あんたがばけものって言うんだったら、わたしもばけものだよ」
衣子は目を閉じたまま、肩をとらえた徳彦の手を撫でる。少し荒れていて、あたたかい。
「暗くて、黒いのがすきなんだよ、苦労もしてないのに。だから、たぶんひかれるんだけど」
とくべつなものに見えてしまうから。
「暗くて黒いのを追いかけちゃうばけものだ。いまだって、ぬるってしてて明るくないけど、そんなにいやじゃないんだよ」
ずっとこのままでも、かまわない。
「あのね。わたし機会があったらね、たぶん
「衣子は、ひとだろ」
「ありがとね。でも、ひとってそんな偉いか?」
徳彦の言うとおりだとしても、ここにいるのは、ろくでもないひとでしかない。
「だいじょうぶだよ。あんたはばけもので、わたしはひとって、あんたが言い張りたいんならそれでもいいけど、あんたわたしより、ずっとちゃんとしてるし。たいしたばけものじゃないから。わたしがいないと死ぬしかなくなるなんてことないよ」
「ちがう」
肩に置かれた手に、ぐっと力がこもる。指が食い込んできて、少し痛い。
「なに?」
「すまん」
「だからなに?」
くっついていた額が離れ、徳彦はうつむいたらしい。しょげているみたいで、なんだかちょっぴり、かわいらしいと思ってしまう。徳彦は懸命な様子だとわかっているのに。やはりばけものなのだろう。
「衣子」
「なにさ」
「ばけものとか、ひととかどうでもいい」
「はいはい」
「生きててくれ」
「あん?」
「おまえがいないと、生きてられない」
「気色わる」
衣子は笑った。鼓動が揺らいで、少し苦しくなったから。目を開けると、徳彦はやはり、衣子の両肩を掴んだまま深くうなだれていた。その頭を両手で挟み、かるく揺らしてみる。
「じゃあなにあんた、わたしのこと御すために生きてるってことでいいの」
「それは、最初の言い方、まちがえたんだって。おまえが生きてたら、それでいい」
「あ、わかった。かっこつけようとしたんだ。おれはばけものだぁとか言ってみたかったんでしょ」
「もうそういうことでいいから、揺らすのやめろ、じゃなくて」
「わかったよ」
衣子は徳彦の額を押し上げ、顔が見えるようにした。それから遠慮なく、前に倒れ込んだ。うわっと言われたけれど、しっかり受け止められた。
「わたしもあんたには、生きててほしいよ」
徳彦がいなくなるなんて、ありえないことだ。徳彦は鼻で笑う。
「じゃあ、おまえも生きてるしかねぇな」
「そうみたいだね。めんどくさいな」
「ふざけんなよ」
背にふれているだけだった腕に、ぐっと力がこめられる。やっぱり少し、痛い。
「めんどくさくて、どうにもならねぇときは、おれについてくればいいだろ」
「嘘でしょあんた。わたしのうしろばっかり歩いてたのに?」
「あれはおれが御してたんだよ」
知ってた。
衣子は徳彦の肩に顔をうずめた。よく知った匂いがした。心臓の音は知らなかった。ずいぶんせわしないようだった。
「ねえ徳彦」
衣子はゆっくりと、身体の力を抜きながら呼ぶ。徳彦が返事をすると、喉のあたりがふるえるのがわかる。それがどうしようもなく、とけ落ちそうにせつない。
「あのさ。わたし生きてるんだけどさ。いますごく、めんどくさいし、わけわかんないから、ちょっとだけこうしてても、いいよね」
「ああ」
いまはなにも、考えたくない。考えられない。思い出したくも、ない。なにも。
「なんかさあ……。ばけものふたりが残っちゃってさあ……」
「ああ」
「世の中わけわかんないよ……。頭、おかしいよ……。いやだこんなのめんどくさい……死んじゃう……」
たしかなぬくもりに身を委ねていれば、まだふたりとも、生きていられる気がして。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます