五十二 仄暗く

 




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 昼下がり。飲みかけの葛湯みたい。

 さほどつめたくはない。どこかもったりとしていて、決してあたたかくない。

 それでも、やはりのどかではある。悲鳴も怒号も聞こえず、ばけものも暴れておらず、だれも血まみれになっていない。

 衣子いこは、そんなゆるい時間の流れる、豊手村とよてむら吊頭所ちょうとうしょにいた。納屋の壁にもたれて座り、ぼんやり宙を眺めるという作業をしていた。


 あれから、半月ほど経った。

 すべてが終わったあとに決めたとおり、衣子は徳彦とくひことともにしばらく、豊手村の吊頭所の、納屋に居座っていた。夜になれば、徳彦と手分けして近くの村を巡回する。

 このあたりの傀廻くぐつまわしたちは、豊手村を筆頭として傷がひどかった。あの夜からそのまま仕事などしたら、きっと死んでしまっただろう。夜は怪我が治るのが早いので、少しだけましにはなったようだけれど、それでも限界というものがある。

 だからあの夜からは、ほかの場所の傀廻しがやってきたり、屈強な兵士が鞘野さやの家より遣わされたりしていた。徳彦と衣子も、そのときから豊手村にいる。渦中にはいたけれど、たいして戦ったわけでなく怪我もなかったので、働いている。

 あの日の夜からは、なにも起こっておらず毎日おだやかだ。いまはともかく、もしもあの夜にまたなにか暴れていたとしたら。考えると、ぞっとするような気もする。きっとみんな、いろいろさっぱり、あきらめられただろう。

 このあたりの傀廻したちは、しばらく居座っている徳彦と衣子に対し、ていねいに接してくれる。傀の暴走を止められなかった暁城あかつきじょうから、のこのこ逃げてきていると捉えられてもおかしくないのだけれど、そのように扱われたことはない。おなじ仕事をしているし、手伝わせているという負い目もあるのだろう。

 でも、なかよくしているかと言えばそういうわけでもない。必要なやり取りしかしない。豊手村の吊頭所のひとたちともそうだ。

 早瀬はやせが一度、納屋ではなくこちらに来ればいいと言いに来たけれど断った。早瀬もすぐに引き下がった。なんだか少し、寂しそうには見えたけれど。そうであってほしいだけかもしれないけれど。

 斎丸さいまるも、胴に巻いてやった衣子の羽織について、損傷がひどいので新しいものをと申し出てきた。これも断った。その羽織でなければ意味がないからもういいとか、とてもいやなひとみたいなことを言って追い払った。すると斎丸は後日、ほとんどもとに戻った羽織を返してきた。どうやったのかわからないけれど。みんな大変だっただろう。

 そんなこんなで半月も経てば、ひどい怪我を負った傀廻しも回復してきていた。そろそろここにいる必要もなくなってきた。いたってかまわないのだろうけれど、いようとは思わない。だからと言って、行くところがあるわけでもない。もう、居場所はなくしてしまった。四郎しろうだってもういない。小さなすがたで、つめたくなった。力尽きてしまったのだろうと、千世ちせが伝えてくれた。

 暁城の周辺は、羽流はながれをはじめ鞘野さやの尚孝なおたかが味方につけた隣国の助けも借り、事後処理が行われている。片づけと言えばよいのだろうか。国の傀廻しも順番に動員されている。ただし豊手村近くの傀廻したちは、当面のあいだ免除ということになっていた。

 徳彦と衣子は、昼間には城周辺の片づけにも加わることがある。気持ちがよいことではないのは当然で、でももう、慣れてきてしまった。

 いまはとくに、なにも感じてはいなかった。あの日のことは、あまり覚えてもいない。おぼろげに思い出すことだって、つらくていやというよりは、単に面倒なのでやらない。

 もっと時間が経てば、ひどく苦しくなったり死んでしまいたくなったりするのだろうか。そんなおのれの様子は、どうも思い浮かべることができない。ずっとこんなふうに、ゆるくてぬるいままでいる気がする。この、仄暗くけだるい感じは、べつにきらいじゃなかった。

「おい」

 聞き慣れすぎた声がした。急なことでも、驚きもしなかった。

「なにやってんだよ」

 衣子は顔も向けずにこたえた。

「空気をね、見てんの」

「なんだそれ」

 あきれた調子で言いながら、徳彦は衣子のとなりに腰を下ろした。となりと言っても、ひとりぶんくらいの隙間があいている。いまはそれ以上寄ってほしくないと、ぼんやり思う。きっと寄ってなど、こない。

 徳彦は、近くに来たくせに黙りこくっていた。衣子も、喋ることなんてないので黙っていた。ひとの話し声や、鳥のさえずりが遠く聞こえた。みんな生きて音を出しているのだと、わたしも生きてそれを聞いているのだと、それがなんだかとてもふしぎで。

 耳を澄ませると、徳彦が息をしているのがわかる。少し不自然で、がんばっているみたいだ。徳彦も生きていて、生きようとしている。

「あんたこれからどうするつもり」

 気づくと衣子は、徳彦にたずねていた。沈黙が気まずかったわけではなくて、なんとなく、口から言葉が落ちた。

「これから」

 徳彦は繰り返し、それきりまた押し黙った。なにも言わないほうがよかったのかもしれない。一生返事がない気がして、それでもまあいいかと思ったとき、徳彦が言った。

「おまえはどうするんだ?」

 え、と高い声がもれてしまう。

「え、ってなんだよ。なんか考えてたんじゃねぇのか」

 徳彦は、足のそばに生えたしぶとそうな草をいじくり回していた。

「考えてねぇから聞いたってことか?」

 衣子は口を結び、抱えた膝に顎をのせた。

「考えてないっていうか。考えてなかったけど。でも、そろそろ考えなきゃだめでしょうよ」

 あんたは。

「考えてんの?」

「まあ、そうだな、ここにずっといる気はねぇな……」

 徳彦は、今度はさらりとこたえた。

「ここでお役御免になったら、出て行って」

「でも、あんた傀廻しでしょ。出て行っても、やれること限られてる」

「そうでもねぇだろ」

 徳彦は急に、衣子の手首を指差してきた。

「おれらは傀廻しみたいなことしてたけど、ちゃんとした傀廻しじゃない。血は入れたけど、入れ墨なしだ。だれもわかんねぇよ」

 こともなげに言う。たしかにそうだ。

「じゃあ、なんか仕事も探せるか」

「探そうと思えば。まあせっかく飲んだんだし、血を生かしたっていいけど」

「傀廻しやるの。れびとにでもなるの」

「べつにやりたくはない。だけど戦に同行して護衛しろって、いつもどこかしらで募ってる。それをやったら、しばらく暮らせるってさ。困ったときはそれだ。けどなんか傀廻しって、献身の病にかかってんだろ。身体もそれなりに鍛えてるし、いろんなやつが雇いたがるんじゃねぇか」

 徳彦は、やはりいろいろと考えているようだ。衣子は少し、ほっとする。

「でもほんとに、そんなに都合よくあるの、戦」

「おまえな、それは困ったときだって」

「困るかもしれないでしょ」

「心配してんのか?」

「あるの」

「あるだろ。戦しかねぇだろ」

「ずっと?」

「ずっとだろ」

「そう」

 なんだか中身のないやり取りをして、また沈黙してしまう。やはり、風にとろみがあるように思う。身体に絡みついてくる。

「衣子」

 ふと呼ばれた。衣子は宙を見つめながら返事をした。おまえさ、といったん区切ってから、徳彦は言い当てた。

「考えようと思ってねぇだろ」

「うん」

 悟られたものは、しかたない。

「だって、めんどくさいよ」

 衣子はつぶやいた。まろい空気に、吸い取られて消えそうだから、なにを言ってもいい気がしてきた。

「考えるの、めんどくさい。考えたくない。考えなきゃいけなくなるから、めんどくさいよ」

 徳彦は遮らない。

「生きてたら。考えなきゃいけないからめんどくさい。わたしもうやめるよ」

「死ぬってことか?」

 衣子は思わず目をしばたいた。長くて鋭い静寂を想像していたから、即座に返事があったことに、たじろいでしまったのだ。そして徳彦の問いは、衣子の言葉よりもずっとなめらかだった。

「えっと。うん。そういうことかもしれない、ね」

 衣子は調子を乱されつつもこたえた。なんとなく徳彦のほうを見られず、草がはげた地面を見ていた。そうか、と徳彦は言った。

「じゃあ死ぬか」

「は?」

 すっとんきょうな声が飛び出し、身体が徳彦のほうを向いた。

「あんたなに言って──」

 衣子は続きを飲み込んだ。深淵にのぞき込まれていたから。そろりとつめたく、心臓が撫で上げられる。

「どうした? 衣子」

 湿った夏の夜風に似ている。いつもとちがうその声に、衣子はこたえを返せない。そのうちに隙間が、埋められてしまう。それ以上、寄らないでと思っていたのに。それ以上、離れないでと思っていたから。

 長い指が、衣子の両肩をとらえ、封じる。そして底の見えない瞳が、むやみに近づいてくる。こんなにも、妖しく端正だっただろうか。そんな、どうでもいいことを、どこかで思って。まばたきもできず、時を止めた衣子の額に、かるく、額が当てられる。

「気色わるいだろ」

 問いではなく、徳彦は断じる。衣子はなにも考えず首を振る。おなじぬるさの額が擦れ合う。

「だけど本気だ」

 知った声音が戻ったことに少し安心して、でも、こんなに近くでこのひとを見たのははじめてで、衣子は動くことができない。

「本気だから」

 徳彦は言う。

「おまえが死んだらおれは死ぬ」

「頭──」

 おかしいんじゃないの。

「おかしいけど。おまえがいないと、どうなるかわかんねぇよ。おれは」

 ばけものだから。死ぬしかなくなる。徳彦はささやき、目を閉じる。

「おまえ、わかってて、へんなことばっかりやってるんじゃねぇの」

 わからない。

「おまえみたいな、手のかかるやつの世話してたら、ひとみたいになれるんだよ。そうやっておれのこと、ひとにしようとしてるんじゃねぇの」

 そうかもしれない。

「ばかだね。買い被りすぎだ」

 衣子はこたえて、目を閉じてみる。

 暁城で、はじめて徳彦に会ったとき、この子はからっぽなんだと思った。わたしとは、ちがうんだと思った。なにも、注がれたことがないんだ。でもその、がらんどうに、どうしようもなくひきつけられた。ずっと見つめていたくなった。うまく繕って隠しているから、なおさら。

 どうすれば、このひととおなじになれるだろう。だいじなものを失えば、なれるだろうか。つらくてかなしい思いをすれば、なれるだろうか。どうすれば、おなじものが見られるだろう。

 ずっとそんなことを考えていたから、もう二度と家からの迎えは来ないのだと知ったとき、衣子はじんわりと、うれしかった。

 父や母が死んだというのに、そんなふうに思うなんて、ひとでなしで、ばけものみたい。おのれの心に驚いて、恐ろしくもなったけれど。これでおなじだと思った。

「あんたがばけものって言うんだったら、わたしもばけものだよ」

 衣子は目を閉じたまま、肩をとらえた徳彦の手を撫でる。少し荒れていて、あたたかい。

「暗くて、黒いのがすきなんだよ、苦労もしてないのに。だから、たぶんひかれるんだけど」

 とくべつなものに見えてしまうから。

「暗くて黒いのを追いかけちゃうばけものだ。いまだって、ぬるってしてて明るくないけど、そんなにいやじゃないんだよ」

 ずっとこのままでも、かまわない。

「あのね。わたし機会があったらね、たぶんくぐつになるよ。傀の才能があるんだ」

「衣子は、ひとだろ」

「ありがとね。でも、ひとってそんな偉いか?」

 徳彦の言うとおりだとしても、ここにいるのは、ろくでもないひとでしかない。

「だいじょうぶだよ。あんたはばけもので、わたしはひとって、あんたが言い張りたいんならそれでもいいけど、あんたわたしより、ずっとちゃんとしてるし。たいしたばけものじゃないから。わたしがいないと死ぬしかなくなるなんてことないよ」

「ちがう」

 肩に置かれた手に、ぐっと力がこもる。指が食い込んできて、少し痛い。

「なに?」

「すまん」

「だからなに?」

 くっついていた額が離れ、徳彦はうつむいたらしい。しょげているみたいで、なんだかちょっぴり、かわいらしいと思ってしまう。徳彦は懸命な様子だとわかっているのに。やはりばけものなのだろう。

「衣子」

「なにさ」

「ばけものとか、ひととかどうでもいい」

「はいはい」

「生きててくれ」

「あん?」

「おまえがいないと、生きてられない」

「気色わる」

 衣子は笑った。鼓動が揺らいで、少し苦しくなったから。目を開けると、徳彦はやはり、衣子の両肩を掴んだまま深くうなだれていた。その頭を両手で挟み、かるく揺らしてみる。

「じゃあなにあんた、わたしのこと御すために生きてるってことでいいの」

「それは、最初の言い方、まちがえたんだって。おまえが生きてたら、それでいい」

「あ、わかった。かっこつけようとしたんだ。おれはばけものだぁとか言ってみたかったんでしょ」

「もうそういうことでいいから、揺らすのやめろ、じゃなくて」

「わかったよ」

 衣子は徳彦の額を押し上げ、顔が見えるようにした。それから遠慮なく、前に倒れ込んだ。うわっと言われたけれど、しっかり受け止められた。

「わたしもあんたには、生きててほしいよ」

 徳彦がいなくなるなんて、ありえないことだ。徳彦は鼻で笑う。

「じゃあ、おまえも生きてるしかねぇな」

「そうみたいだね。めんどくさいな」

「ふざけんなよ」

 背にふれているだけだった腕に、ぐっと力がこめられる。やっぱり少し、痛い。

「めんどくさくて、どうにもならねぇときは、おれについてくればいいだろ」

「嘘でしょあんた。わたしのうしろばっかり歩いてたのに?」

「あれはおれが御してたんだよ」

 知ってた。

 衣子は徳彦の肩に顔をうずめた。よく知った匂いがした。心臓の音は知らなかった。ずいぶんせわしないようだった。

「ねえ徳彦」

 衣子はゆっくりと、身体の力を抜きながら呼ぶ。徳彦が返事をすると、喉のあたりがふるえるのがわかる。それがどうしようもなく、とけ落ちそうにせつない。

「あのさ。わたし生きてるんだけどさ。いますごく、めんどくさいし、わけわかんないから、ちょっとだけこうしてても、いいよね」

「ああ」

 いまはなにも、考えたくない。考えられない。思い出したくも、ない。なにも。

「なんかさあ……。ばけものふたりが残っちゃってさあ……」

「ああ」

「世の中わけわかんないよ……。頭、おかしいよ……。いやだこんなのめんどくさい……死んじゃう……」

 たしかなぬくもりに身を委ねていれば、まだふたりとも、生きていられる気がして。

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