悉傀記

相宮祐紀

第一章 魅惑

一   夜闇の果て

 黒が、まとわりついてくる。草鞋にしみ込み足袋を湿らせ、筒袖と括り袴を浸す。腰に帯びる、大小の刀を染める。濡れた頭巾を、片手で目もとへ引き下げる。

 黒い、血にまみれ、首を引きずり、早瀬はやせは黒の中を進む。陰となった木々、重くぬるい泥、落ちる寸前の空、月影もなく。けれど夜目がきく。顔に血よけの布をかけても、暗い山の道なき道でも、なんの障りもなく歩める。

 ごわついた毛を握り直し、ちらりと振り返る。米俵ほどの首が、黙って引かれてついてきている。顔はいかつい馬というふうだ。鹿に似た角がついており、運び勝手があまりよくない。掴んでいるのは頭にふさふさ生えた毛だ。この首が胴とつながっていたときは、見上げるくらいのばけものだった。

 早瀬は前に向き直る。早くこのばけものの、くぐつの首を、あの村に届ける。旅の途中で立ち寄った村だ。そこのひとたちに、この傀が近頃あまりに暴れるので退治してほしいと、頼まれていた。

 傀はどんな国にでもいて、夜になれば気ままに山から出てくる。相手をするために、その地にはその地の、傀廻くぐつまわしがいる。それはどこでもそうだ。しかし大変面倒な傀にかんしては、手に負えなければ外から来た傀廻しに討伐を頼むことがある。ごくたまにいる、諸国を旅しつつ、傀とやり合う傀廻しに。そういう者はれびとと呼ばれる。早瀬は、一年と少し前からそれをやっていた。

 旅の、終わりの地は決めている。良庫国らくらのくに暁城あかつきじょう四郎党しろうとうの根城。もう、すぐ近くではある。そこであれを、仕留める。身魂投げ打ってやり遂げる。

 いま、首だけ持ち帰っているこの傀は、ずっとおとなしかったというのに急に荒れ始め、村を脅かしていたらしかった。傀というのはそういう、ものだ。だから村のひとたちは、通りすがりの離れびとに頼ったのだ。依頼をされたのは今日の昼だった。

 傀にその気がなければ、夜にこちらがちょっかい出してもひたすら守りに入られる。仕留めるまでに数日かかることも考えていたが、この傀は早瀬が訪ねるとすぐに襲ってきた。返り血ばかりをこうむったのち、心臓を、取り出した。傀はそうしなければいのちを絶てない。

 握った血濡れの毛が、なまぬるい。どれだけ血を流しても、傀は少しもひるまない。傷はひとより早く閉じるし、痛みにも苦しみにも、ひどく鈍い。互いに近づかない。ひとを傷つける、ことしか知らない。ばけもの。ずっと、つき合うしかないばけもの。

 でも、この首を持っていけば、あの村のひとたちは少し安心するだろうか。とりあえずこの傀はいなくなった。傀のものに限らないが、骸や墓は傀よけになる。この首もしばらく村に置いてから、墓を作るとよいだろう。

 あそこはあたたかいところだ。村のひとたちの顔を思い出して、早瀬は衿もとを押さえた。

 ばけものの血にまみれながら旅をする離れびとなので、早瀬はひとを怖がらせてしまう。仕事は頼まれても、どうしても離れびとでないひとたちとは溝がある。恐ろしい思いをさせることは望まないので、早瀬はあまりひとに近づかないようにしてやってきた。離れびとではなくとも、旅の者とあまりなれ合ってはならないとか、家の中に泊めてはならないと領主が命じているところも多い。だから泊めてもらうとすればお堂や厩で、早瀬はそれでじゅうぶんだった。

 そうさせてもらおうと思って寄ったのに、あの村のひとたちは気さくだった。村長はちょうど雉を仕留めていたと言って、鍋にしてふるまってくれた。村の傀廻したちはすごいのが来たと沸いて、早瀬の旅の話など聞きたがってくれた。子供たちはお兄ちゃんとか呼んで、あちこち連れ回してくれた。驚いてしまった。くすぐったくなって少し、痛かった。

 うわ、と声が出る。急につんのめってしまった。振り返ると、木と木のあいだに傀の角が引っかかっていた。なんだか、笑えてしまう。ほかのことを考えていたら、こいつが通れる幅を見誤ったようだ。早瀬は首に歩み寄って、向きを変えようとした。

 すう、と風が吹いた。鋭いつめたさに、思わず動きを止める。早瀬は顔を上げた。頭上に蓋をした木々の枝が、小刻みに揺れていた。のこす言葉をささやくような、かすかな音を立てている。

 傀の硬い毛から、手を離す。見回す。木に囲まれた暗闇。ただの、まろい夜のやみ。とろけそうに、やわい、くろ。

 早瀬は歩きだした。傀の首をほうったままで、そこを離れた。おまえはあとでなんとかする。いまは、行かなければならない。早く行かなければならない、どこに。わからない。でも、はやく。

 早瀬は走りだした。なにかに引きずられ走った。走っていると、木の根につまずいた。落ち葉で滑った。沼へはまった。それでも止まらなかった。ますますどろどろになりぬるい汚れを肌に感じて、斜面を転がりあちこち打ちつけ擦り切れた。起き上がり、また駆けだした。早瀬は止まらなかった。止まれなかった。衿もとを握りしめた。だって、叫んでいる。たすけて。たすけてと、求めている。はやく。

 突然に全身がすくみ上がり、早瀬はようやく立ち止まった。立ち尽くした。そこは、湿った落ち葉と土のにおいが満ちた窪地。足もとには、ところどころ水たまりができている。その真っ暗な水面に、波紋が誘うように広がって。足も浸かりきらないだろうに、のぞけば戻れぬ深淵に見えて。

 そんな場所に、いた。倒れていた。転がり回っていた。傀が。何体もの、さまざまなすがたの傀が、そこで苦しんでいた。

 犬に似たものも、猪に似たものも、こんにゃくのようなものも餅のようなものも、ひとのかたちをしたものも。みんな地面をのたうっていた。悪夢にうなされているかのようだった。弱々しいうめき声まで聞こえた。

 早瀬はそれを呆然と見つめた。傀が、群れている様子など、苦痛に苛まれている様子など、見たことがなかったのだ。

 いったいなにを、しているのか。これはいったい、なんなのか。混乱しながら早瀬は、刀の柄に手をかける。尋常ではないことが起こっている。見たことも聞いたこともないことが。

 どうしてこの傀たちは、寄り集まっているのだろうか。一緒になってなにかをしているのか。群れられてはかなわなくなる。あの村のひとたちも、危うくなってしまうかもしれない。どうして、つらそうに転げ回っているのだろうか。なにが苦しいのか。傷はないし、傀が苦痛を覚えることなども、ないはずだ。だからあれは、おそらく苦しんでいるように見えるだけで、暴れる前兆のようにも見受けられ、そのような場面ならば見たことがあり、そう、いつまでもぼけっとしておくわけにはいかない。

 早瀬は柄を握る手に力をこめた。この傀たちは、えぐり出しておくのがよい。いまここで離れびとがすべて。

 傀は五体だ。一度に二体以上を相手にしたことはない。なにが起こるかもわからない。でもやる。早瀬は打刀を抜いた。

 注視すれば、五体の傀たちは輪になっていた。なにかを丸く、取り囲んでいるような配置だ。取り囲んでいるような配置。なにかを、丸く。

 早瀬は戦慄した。傀たちはたしかに、なにかを囲っていた。それは、囲われているのは、ひとだった。小柄なだれかが、傀の輪の中にしゃがみ込んでいるのだ。

 いけない。まず、あのひとをあそこから連れ出す。早瀬が駆けだしかけたときだった。餅のような傀が、ぬうっと動いた。なにか求めるように、座り込むひとに向かって、伸びた。

 即座に地を蹴る。一気に迫り振り抜く。ぴしゃん、と音を立て、餅の切れ端がぬかるみに転がる。瞬間、先を切り落された餅の本体がくねり、細長く伸びてくる。同時に犬と猪とこんにゃくとひとがたも、頭をもたげる。さいごの狙いを定められたと、わかる。

 凍った激情が心臓を穿つ。殺す。早瀬は、はじめた。

 受け流し振り下ろし叩き込み、突き立て掻き回し押し込み切り飛ばし、蹴り倒し、串刺し。黒を噴き出す傀どもは、ふたたび転がり輪になった。そのふちをなぞり、心臓を、えぐり出していった。傷を塞ぐいとまもなく、傀どもはすべて、ぴくりとも動かなくなった。

 立ち止まる。たったいま五体を殺した刃を、いままで多くを殺してきた刃を、かざしてみる。てらてらと、ぬらぬらと、つやめいている。一度振って、袖で拭う。じとり、腕にまとわりつく。幾度も、拭き取っているとふいに、背後で空気が動いた。振り向くと、そこにいた。

 そのひとは、ぬめった地面に座り込み、うつむいていた。少し乱れた長い黒髪が顔を覆い隠し、肩へ背へ、こぼれている。それがふうと、揺らぐ。顔を上げようとしている。なぜか一瞬で、ぞわりと総毛立つ。

 見てはならない。絶対にこれ以上、見てはならない。見なければならない、絶対に見なければならない、見たい、見たくてしかたない、みて。見て、ほしい。

 垂れ絹のような黒髪が、頬の線をなぞって滑り落ちるのを見る。まぶたを閉ざした白いおもてが、あらわになるのを見る。そしてその目がゆっくりと、ひらかれていくのを見る。隠れていた、瞳がのぞく。

 刹那、貫かれていた。澄み切った光に、貫き通された。同時に、押し寄せてくる。呑み込まれて、さらわれて揉まれる。上下も前後も知れず、いつともどこともだれとも知れず、流れ込んでは流れ出し、流れ出しては流れ込む。

 倒れ伏す。視界がぼやけ、歪んでいく。その中でもそれだけは、かがやいて、うつくしい。しんでしまいそうなほどに、うつくしいと、早瀬は思った。それは両の瞳だった。涙よりもすきとおった、ふたつの瞳だった。ひかれて、きたのだ。きっとこれが、ずっと、ずっと、ほしかったのだ。










 だれかが泣いているみたいな、風をきいていた。そうしたらいつのまにか、ほんのり、明るくなっていた。ついさっきまであんなにも、くらかったのに。あのとろりとしたやみは、どこかへいってしまったのだ。いまはもうどこにもみえない。かわりにさらり、さらり、透けた木の葉のあいだから、薄いひかりが差し込んでくる。どちらにしても、さわれない。だから、泣いていたのだろうか。

 だれかが。そばで、だれかが倒れている。身じろぎもせずに、伏している。地面との境目が、よく、わからなくなっている。とけてしまったのなら、きっともう、動けない。

 でも、くらいときには動き回っていた。いきなりすっ飛んできて、それでぜんぶ、ごちゃごちゃにして、ぐちゃぐちゃにして、べちゃべちゃにした。それくらい、動いていた。

 そのせいだ。くろくてくろい蜜が、そこらじゅうにどろんと、寝そべっている。地面が湿っているから、なかなか迎え入れてもらえないみたいだ。虫とか浮かべて、揺れている。すこしまえまでは、おなかがそわっとするにおいも、していた。それから、大きな五つのかたまりが、じっと、じっと黙っている。

 ものの血。もののむくろ。これを、ぜんぶやってから、このだれかはくずおれた。そしてずっと、おなじ姿勢でいる。

 ふいに、すきとおった日差しをきらり、なにかがはじいた。それで目のまえのだれかが、刀を手にしていると気づいた。晴れた雪の朝に似ている。目を細めてみる。その柄を握る手にはぎゅうっと、力がこもっている。

 おきて、いるのだろうか。いきて、いるのだろうか。わからない。顔が隠れている。くろい布で覆われて、くろい頭巾に囲われている。だからわからない。

 もういちど、手もとをみてみた。手甲をしているようだけれど、外れかけて手首まで出ている。がさがさしたくろがこびりついて、肌がひどく荒れているみたいにみえる。

 手を伸ばす。さわってみても、あたたかくもつめたくもなかった。おかしな力が抜けなくて、浮き上がった骨をなぞる。手の甲から手首へ。こんなにぎゅっとしているのなら、生きているのかもしれない。くるしそう。手首に、なにか文字が刻まれていることに気づく。くろい文字が、手首に巻きついている。

 そのとき、その手がぴくりとふるえた。力がちょっと弱まってからぐっと強まって、それから、背中が動く。どうやら、生きていた。もぞもぞして、起き上がろうとしている。

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