悉傀記
相宮祐紀
第一章 魅惑
一 夜闇の果て
黒が、まとわりついてくる。草鞋に染み込み足袋を湿らせ、筒袖と括り袴を浸す。腰の大小の刀を塗り込め、頭巾を濡らし、こめかみを伝う。
黒い、血にまみれ首を引きずり、
ごわついた毛を握り直し、ちらりとうしろを振り返る。米俵ほどの大首が、黙って引かれてついてきている。顔はいかつい馬というふうで、鹿に似た角がついており、運び勝手があまりよくない。この首が胴とつながっていたときは、見上げるくらいのばけものだった。
早瀬は前に向き直る。早くこのばけものの、
傀はどんな国にでもいて、夜になれば山から出てくる。相手をするために、その地にはその地の
この旅の終わりの地は決めている。
いま、首だけ持ち帰っているこの傀は、ずっとおとなしかったというのにある日突然荒れ始め、村を脅かしていたらしかった。傀というのはそういう、ものだ。だから村のひとたちは、離れびとに頼ってきたのだ。依頼されたのは今日の昼どきだった。
傀にその気がないときは、夜にこちらがちょっかい出してもひたすら守りに入られる。仕留めるまでに数日かかることも考えていたが、この傀は早瀬が訪ねるとすぐに襲ってきた。返り血ばかりをこうむったのち、心臓を取り出した。傀のいのちを絶つためには、必ずそうしなければならない。
血濡れの毛が、手になまぬるい。どれだけ血を流しても、傀は少しもひるまない。傷はひとより早く閉じるし、痛み苦しみにひどく鈍い。互いに近づくことはない。ひとを傷つけることしか知らない。傀はそういうばけものである。ずっと、つき合うしかないばけもの。
でも、この首を持っていけば。あの村のひとたちは、少し安心するだろうか。この傀はもういなくなった。傀のものに限らないが、骸や墓は傀よけになる。この首もしばらく村に置いてから、墓を作るとよいだろう。
あそこはあたたかいところだ。村のひとたちの顔を思い出し、早瀬は衿もとを押さえた。
ばけものの血にまみれながら旅をしている離れびとなので、早瀬はひとを怖がらせてしまう。仕事を頼まれることはあっても、離れびとでないひとたちとのあいだには、どうしても溝がある。恐ろしい思いはさせたくないので、早瀬はあまりひとに近づかないようにしてやってきた。離れびとではなくとも、旅の者とあまりなれ合ってはならないとか、家の中に泊めてはならないと領主が命じているところも多い。だから泊めてもらうとすればお堂や厩で、早瀬はそれでじゅうぶんだった。
そうさせてもらおうと思って寄ったのに、あの村のひとたちは気さくだった。村長はちょうど雉を仕留めていたと言って、鍋にしてふるまってくれた。村の傀廻したちはすごいのが来たと沸いて、早瀬の話を聞きたがってくれた。子供たちはお兄ちゃんとか呼んで、あちこち連れ回してくれた。驚いてくすぐったくなって、少しだけ、痛かった。
急につんのめって振り返ると、木々のあいだに傀の角が引っかかっていた。ほかのことを考えていたら、こいつが通れる幅を見誤ったようだ。早瀬は首に歩み寄り、向きを変えようとした。
そのとき、すう、と風が吹いた。鋭く尖ったつめたさに、早瀬は思わず動きを止める。顔を上げると、頭上に蓋をした木の枝が小刻みに揺れていた。のこす言葉をささやくような、かすかな音を立てている。
傀の毛から手を離し、見回す。一面木々に囲まれた暗闇。ただの、まろい夜のやみ。とろけそうに、やわい、くろ。
早瀬は、歩きだしていた。傀の首をほうったままで、そこを離れようとしていた。おまえはあとでなんとかする。いまは、行かなければならない。早く行かなければならない、どこに。わからない。でも、はやく。
早瀬は、走りだしていた。なにかに強く引きずられ走った。走っていると、木の根で転んだ。落ち葉で滑った。沼へはまった。それでも早瀬は止まらなかった。止まらずますますどろどろになり、ぬるい汚れを肌に感じて、斜面を転がりあちこち打ちつけ、擦り切れながらもひたすら駆けた。早瀬は一度も止まれなかった。衿もとをぐっと握りしめた。だって、叫んでいるのだ、たすけて。たすけてと、求めているのだ。はやく。
突然に全身がすくみ上がり、早瀬はようやく立ち止まった。そこは、湿って腐った落ち葉と土のにおいが満ちた窪地。ところどころ水たまりがある。その真っ暗な水面に、波紋が誘うように広がる。足も浸かりきらないだろうに、のぞけば戻れぬ深淵に見える。早瀬はその場に立ち尽くした。そこに、いるのを見つけたから。倒れて、転がり回っていたから。
傀が。何体もの、さまざまなすがたの。
犬に似たものも、猪に似たものも、こんにゃくのようなものも餅のようなものも、ひとのかたちをしたものも。みんな地面をのたうっている。悪夢にうなされているかのようだ。弱々しいうめき声まで聞こえる。
早瀬はそれを呆然と見つめた。傀が、群れている様子など、苦痛に苛まれている様子など、見たことがなかったのだ。
いったいなにを、しているのか。これはいったい、なんなのか。混乱しながらも早瀬は、刀の
どうしてこの傀たちは、寄り集まっているのだろうか。一緒になにかをしているのか。群れられては敵わなくなる。あの村のひとたちも、危うくなってしまうかもしれない。どうしてこの傀たちは、つらそうに転げ回っているのだろうか。どこか苦しいとでもいうのか。傷などは見当たらないし、もしも傷があったとしても、傀が苦痛を覚えることはないはず。だからあれは、おそらく苦しんでいるように見えるだけで、暴れる前兆のようにも見受けられ、そのような場面ならば見たことがあり、そう、このままではいけない。
早瀬は柄を握る手に力をこめた。この傀たちは、えぐり出しておくのがよい。いまここで離れびとがすべて。
注視すれば、傀は五体だ。一度に二体以上を相手にしたことはない。なにが起こるかもわからない。でもやる。早瀬は打刀を抜いた。傀たちは輪になっていた。なにかを丸く囲むような配置だ。囲むような配置。なにかを、丸く。
瞬間、早瀬は戦慄した。五体の傀たちはたしかに、なにかを取り囲んでいた。囲われているのは、ひとだった。小柄なひとが、ひとりきり、傀の輪の中にしゃがんでいるのだ。
だめだ。まずあのひとをあそこから連れ出す。駆けだしかけたときだった。ぬうっと、餅じみた傀が動いた。なにか求めているかのように、座り込むひとに向かって伸びた。
即座に地を蹴り、一気に振り抜く。びしゃん、と重い音を立て、餅の切れ端がぬかるみに転がる。途端、餅の本体がくねり、細く長く伸びてくる。同時にほかの傀たち──犬と猪とこんにゃくとひとがたも、いっせいにその頭をもたげる。さいごの狙いを定められたと、早瀬はすぐに理解した。刹那。
凍った激情が心臓を穿つ。殺す。来い。ぜんぶ殺す。ぜんぶが一緒に迫りくる。
殺す。
受け流し振り下ろし叩き込み、突き立て掻き回し押し込み切り飛ばし、蹴り倒し、串刺し。黒を噴き出す傀どもは、ふたたび転がり輪になった。そのふちをなぞるようにして、心臓をえぐり出していく。傷を塞ぐいとまも与えず。心臓をえぐり出していく。やがて傀どもはぜんぶ、ぜんぶ、ぴくりとも動かなくなった。
立ち止まる。たったいま五体殺した刃を、いままで多くを殺した刃を、目の上へかざしてみる。てらてらと、ぬらぬらと、てらてらぬらぬらとつやめいている。一度振って袖で拭えば、じとり、腕にまとわりつく。幾度も拭き取っているとふいに、背後で空気が動いた気がした。振り向くと、そこにいた。
そのひとは、ぬめった地面に座り込み、顔をうつむかせていた。少し乱れた黒髪が顔を覆い隠しながら、肩へ、背中へこぼれている。それがふいに、ふうと、揺らぐ。顔を上げようとしているのだ。悟った瞬間、理由もわからず、ぞわりと心臓がふるえた。
見てはならない。見てはならない。これ以上絶対に見てはならない。見なければならない、見なければならない、絶対に見なければならない、見たい。見たくて、見たくてしかたない、みて。見て、ほしい。
垂れ絹のような黒髪が、頬の線をなぞり落ちるのを見る。まぶたを閉ざした白いおもてが、闇の中あらわになるのを見る。そのまぶたがゆっくりと、ひらかれていくのを見る。そして隠れた瞳がのぞき、光に貫き通された。
透明な光だった。澄み切って、押し寄せてくる。呑み込まれて、さらわれて揉まれる。上下も前後も左右も知れず、いつともどこともだれとも知れず、流れ込んでは流れ出し、流れ出しては流れ込む。
倒れ伏す。視界がぼやける。その中でもそれだけは、かがやいて、うつくしい。しんでしまいそうなほど、うつくしいと、早瀬はそんなことを思った。
それは両の瞳だった。涙よりもすきとおった、すきとおった瞳だった。きっと、ひかれて、ここまできたのだ。きっと、これがずっとずっと。ずっと、ほしかったのだ。
だれかが泣いているみたいな、風をじっと聞いていた。そうしたら、いつのまにか、ほんのり明るくなっていた。ついさっきまであんなにも、くらかったはずなのに。あのとろりとしたやみは、どこかへいってしまったのだ。いまはもうどこにもみえない。かわりに、さらり、さらりとして、透けた木の葉のあいだから薄いひかりが差し込んでくる。どちらにしても、さわれない。だから、泣いていたのだろうか。
だれかが。そばで倒れている。身じろぎもせず伏している。地面との境目が、よくわからなくなっている。とけてしまったのだろうか、それならもう、動けない。
でもくらいときは動いていた。いきなりどこからかすっ飛んできて、それでぜんぶ、ごちゃごちゃにして。ぐちゃぐちゃにして、べちゃべちゃにした。それくらい、動き回っていた。
ぜんぶ、ぜんぶそのせいだ。くろくて、どろんとした蜜が、そこらじゅうに寝そべっている。地面がもともと湿っているから、なかなか迎え入れてもらえない。虫とか浮かべて、揺れている。たしか、すこしまえまでは、おなかがそわっとするにおいもしていた。その中で、じっと黙っている。大きな、くろい五つのかたまり。
ものの血。もののむくろ。これを、ぜんぶやってから、このだれかはくずおれた。そしてずっと、おなじ姿勢でいる。
ふいに、すきとおった日差しをぎらり、なにかがはじいた。それで目のまえのだれかが、刀を手にしていると気づいた。ちょっと目を細めてみる。柄を握っている手に、ぎゅうっと、力がこもっている。
おきているのか。いきているのか。わからない、顔が隠れているし。くろい布で覆われて、くろい頭巾に囲われている。だから、よくわからない。
もういちど、手もとをみてみる。手甲をしているようだけれど、外れかけて手首まで出ている。がさがさしたくろがこびりついて、肌がひどく荒れているみたい。
手を伸ばして、さわってみても、あたたかくもつめたくもない。おかしな力が抜けなくて、浮き上がった骨をなぞる。手の甲から手首へゆっくり。こんなにぎゅっとしているのなら、生きているのかもしれない。くるしそう。指先をすいと滑らせた手首に、なにか文字が刻まれていると気づく。手首に巻きつく、くろい文字。
そのとき、その手がぴくりとふるえた。力がちょっと弱まってから、またぐっと強まって、それから、背中が動き始めた。どうやら生きていたらしい。もぞもぞして、くろの中から、起き上がろうとしているようだ。
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