第3話 摩耗の街
明智健悟は飯田橋の駅前に立ち、今日は何かが違うと感じた。霧がかかるように薄い曇り空が広がり、空気の湿気に包まれていた。人々の行き交う足音や自転車のベルがいつもよりも遠くに響くように思える。目を向ける先にあるバス停の周りには、誰も座らない椅子が並んでいた。その一つに座っている人物がいた。正確には、座っている「はず」だったのだが、顔がぼやけて見え、座っている姿勢もどこか不自然に感じた。
気のせいかと思って歩を進めたが、なぜかその椅子に引き寄せられるように足が止まった。
バス停を挟んで向かいにあるのは、薄汚れたビルの裏手にある小道だった。そこには誰も近づこうとしない。通り過ぎる度に、何かがひっかかるような感覚が残る場所だ。しかし、今日はその小道の向こうに何かが見えた。死体置き場、あの場所が映った気がした。
背筋に冷たいものが走る。気のせいだろう、と思いながらも、ふと見上げた空には、すでに不安を引き寄せるような重たい雲が垂れ込めていた。
数分後、誰もいないはずのバス停で、再びあの椅子が目に入った。今度は、そこに座っていた人物が微かに動いた。椅子の背もたれに手をついて、ゆっくりと立ち上がる。その動作は異常に緩慢で、まるで長い間使われていなかった何かが、急に動き出したような感覚を与えた。
椅子を背にしたその人物は、白いシャツを身にまとっていた。だが、そのシャツの色が徐々に変わり、灰色から黒、そして青黒く変わりつつあるのを見逃さなかった。何かが、確実に時間を逆行している。摩耗している。
突然、その人物が振り返る。その目がこちらをじっと見つめ、言葉はない。しかし、視線だけで「お前も来るべきだ」と告げられたような気がした。
その瞬間、遠くからバスがやって来た。何の前触れもなく、バス停の前で急停車すると、ドアが開いた。運転手が無表情に一度もこちらを見なかった。まるでこの街で起こるすべての出来事が、誰かの計画通りに動いているような気さえしてくる。
バスの中には誰も乗っていなかった。車内の椅子もまた、無駄に並んでいて、今にも動き出しそうで、でもどこかで停まったままのように見える。
背後から、またその不自然に動く人物が近づいてきた。そして、次の瞬間、椅子の上に置かれたトランプカードが目に入った。「スペード」のエースが、床に滑るようにして転がり、バス停の下まで落ちた。
それを見た途端、目の前がぐらりと揺れる。何かが崩れ落ちる音が響く。死体置き場へ向かう足音が、ふいに重なり合い、そしてすべてが消えていった。
時計の針が静かに、確実に進んでいた。
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