第55話 弟と相手の娘は午後六時前にやって来た

 初つばめ・・・

今日、初つばめを見た、と弟にも相手の娘にも話してやろうと思いながら、美香はマンションへと続く道を、橋を渡って急ぎ足に歩いた。

 食品スーパーの前を通り過ぎようとした美香は、つと、立ち止まった。そして、一瞬、冷蔵庫に残っている食材に思いを巡らせてから、その店に入り、野菜や豆腐等と一緒にワインを2本買って、マンションへ戻った。

買ってきた品物をダイニングキッチンに置くと、美香はささやかな幸福感を胸に、部屋の掃除を始めた。掃除機の音も心なしか今日は静かに聞こえた。

 

 弟と相手の娘は、午後六時前、陽が落ちる少し前にやって来た。

弟はドアを開けて中に入る時、頭を打ちそうになって、慌てて首を竦めて潜って入った。濃紺のスーツに薄いブルーの無地ネクタイを締め、胸には白いハンカチが覗いている。社会人になって最初に貰った給料で、美香への誕生日プレゼントを買い、ジーパンにジャンパーを羽織ってやって来た昔に比べると、見違えるほど大人になっている。

 そして、弟の後ろから身を竦めるようにして、遠慮がちに部屋へ入って来た相手の娘を見て、美香は眼を見張った。着ているものはブランド品の流行もので、色は少し地味だが、いかにも高価そうである。無造作に手にしているバッグも舶来の高級品であった。

その上、肌は滑らかに白く、身体もほっそりしている。艶のある長い黒髪は肩まで垂れ下がり、切れ長の細い眼は知的であった。弟の嫁になる人と言うから、てっきり会社勤めのОLだと思っていた美香は、虚を衝かれた思いだった。俯いて入って来た娘は、事務員でも店員でもなかった。

 この娘は・・・何処かのお嬢さんだわ、と思ったが、気を取り直して美香は声をかけた。

「さあさあ、狭いところですが、どうぞお掛けになって下さい」

今、お茶を入れますから、と言って美香はキッチンへ立った。柱に隠れて手で髪を直したが、髪を直したくらいでは追いつかないだろう、と美香は思った。店から帰って来て直ぐに、一通り化粧は直したものの、夜の商売につきものの寝不足と酒とで浮腫んだ顔は、明るい蛍光灯の下では隠しようも無かった。

 美香は急に弟に腹が立って来た。相手があんなお嬢さんなら、それならそうと事前に話しておいてくれたら良かったのに、いきなりじゃ、面食らうじゃないか、と思った。別にお嬢さんだからと言ってどうということは無いが、勇一の姉でございます、と名乗るには、少し気が引ける思いがした。そのことが腹立たしかったのである。

「わざわざこんなむさ苦しい狭いところへ来て頂いて・・・」

美香はお茶を出しながら、そう言った。気持が卑屈になっているのが自分でも解った。

「何回も言わなくてもいいよ。狭いのは見れば解るんだから」

弟がやや不機嫌な口調で応じた。そして、美香がお茶を勧めると、娘に「姉だよ、俺の親代わりなんだ」と言った。

「姉さん、この人が福本智恵さんだ」

 それまで、俯き加減にしていた娘が顔を上げてはっきりと美香を見た。

「初めまして、福本智恵と申します。宜しくお願い致します」

色白のほっそりした顔だった。少し濃い目の化粧を丹念に施している。

未だあどけなさが残る可愛い顔であるが、切れ長の眼だけが瞬きもせずに自分を見たのを美香は感じた。冷たい眼だと思った。見定められたような、値踏みされたような感触が残った。

この娘は、気が強くて、我が侭かもしれない・・・弟はこんな娘と一緒になって大丈夫だろうか、と美香は思った。が、直ぐに気を取り直して挨拶を返した。

「勇一の姉です、宜しくね」

娘は丁寧に頭を下げて応えた。

「さあ、兎に角、初めて来られたんだから、先ずはちょっと気分を解すのに、ワインでも開けようか」

美香はそう言って冷蔵庫の方へ立とうとした。すると、弟が手を振った。

「いや、酒はいいよ。この人は酒が駄目なんだ」

「でも、形だけでも」

「いいと言ったら、いいんだよ」

弟は素っ気なく言った。

「じゃ、お前だけでも少し飲めば。お祝い事だもんね」

「今日はいいんだよ。要らないと言っているだろう!」

弟が思いがけない尖った声を出した。

「そうかい、でも何だか恰好が付かないわね」

美香が言うと、智恵がまた顔を上げて美香を見た。細長の眼に笑いが見えたような気がした。が、智恵は笑った訳でもないようであった。おや、この眼は何だろう、と美香が思ったとき、智恵はもう顔を伏せていた。

「それじゃ、お酒は止めにして、ご飯にしようか」

美香が言うと、弟と智恵が顔を見合わせている。智恵が弟の背広の袖を引っ張ったのが目に入ったが、美香は見なかった振りをした。

「今日はお店を休ませて貰って、姉さんが料理の腕を振るったのよ。別にこれと言って大したものも出来なかったけどね」

「・・・・・」

「本当はワインぐらい軽く飲みながら、色々と話を聞かせて貰おうと思ったんだけど、まっ、良いか。食べながらでも話は出来るわよね」

「姉さん!」

「何だい、怖い顔をして」

「姉さん、ご飯は要らないよ」

美香はキッチンへ行こうとして立ち上がっていた身体を、ゆっくりと椅子に沈め直して、二人を見た。

「ふ~ん。お酒も飲まずご飯も食べないで、どうするのよ?」

「用意してくれて悪いんだけど・・・」

弟は、名前を聞けば誰もが知っている高級料理店の名前を言った。繁華街の四条通りに在る名店である。

「今夜は二人で其処へ行くことになっているんだ」

「予約してあるの?」

「うん。七時の予約だよ」

「へ~え。豪勢なもんだね」

美香は頬の辺りから血の気が引き、顔色が変わるのを自分でも意識した。

「それだったら、こんな狭いむさ苦しい処で、ご飯なんか食べていられないわね」

「嫌味は止めてくれよ、姉さん」

弟は笑おうとしたが、顔が少し引き攣った。

「嫌味じゃないわよ。本当のことを思った通りに言っただけよ」

「いや、悪いとは思ったんだけど、この人のお父さんに、飯でも食って来い、ってお金を貰ったものだから」

「別に引き止めはしないよ、安心して行っておいで」

美香は二人の前から湯飲み茶碗をお盆に移して、立ち上がった。

「それじゃ、少し話を聞かせて貰おうか。先方さんの名前も碌に知らないんじゃ、姉として話にならないからね」

「当たり前だよ、それを話しに来たんじゃないか」

そう言う弟の声を聞き流して、美香はポットのお湯を急須に注ぎ足した。そして、キッチンの隅でコップに冷酒を注いで一息で飲み干した。

一寸思案してから、美香はもう一杯酒を注いだ。それを、顔を仰向けて一気に呷ると、口を拭ってリビングの方へ引き返した。短いカーテンだけで仕切られたキッチンであるが、上手く柱の陰に隠れて飲んだので、二人の座っている場所からは見えなかった筈である。

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