第10話 紗友里から吾郎に電話が架かって来た

 紗友里から吾郎に電話が架かって来たのは、それから三カ月が経った三月の末だった。

学会を半月後に控えて、吾郎はその時、医局で教授や助教、先輩医師や局員たちと論文の最終的な打ち合わせをしていた。

「柏木先生、お電話です」

若い医局員に呼ばれた時、吾郎は露骨に眉を顰めた。

論文の纏め方について教授が直截に話をしていた。若い担当者である吾郎が中座して立ち上がるのは如何にも失礼に思えた。

「今、会議中だから・・・」

吾郎が言いかけた時、教授が話を止めて言った。

「まあ、良いから、出給え」

「済みません」

吾郎は一礼して席を立った。

「もしもし・・・」

直ぐに受話器から声が返って来た。

「柏木先生?あたし、判る?」

「えっ?」

「紗友里です、“圭”に居た・・・」

「あ、あぁ・・・」

紗友里?と言いかけて彼は危うく声を呑み込んだ。教授以下、全医局員が打ち合わせを中断して彼が電話を終わるのを待って居た。

「何だ?」

「あたし、今週から木屋町の“キング”って言うバーに勤めているの」

「今、会議中で忙しいんだ」

彼は殊更に無愛想に言った。

「そう、じゃ、電話番号だけ教えとくね」

「二七三の一六二一よ」

紗友里は番号を二度繰り返した。

「分かった?」

「二七三の一六二一ですね」

彼は他人行儀に言ってその番号を手帳に書き留めた。

「じゃ、またね」

電話はそれで切れた。

吾郎は席に戻って教授に頭を下げた。

「失礼しました」

教授は軽く頷いてから話を再開した。

 

 論文のテーマは変形性股関節症だった。変形性股関節症は股関節を形作っている大腿骨の頭とそれを支えている骨盤の臼状の骨との間の噛み合わせが悪くなる病気である。言い換えると、球とそれを包んでいる臼の蝶番の適合が狂う訳である。

教授が改めて説明した。

「君たちも十分承知しているだろうが、原因は色々在るけれども、一番多いのは先天性股関節脱臼である。他に、股関節の外傷性脱臼や、骨盤骨折の後遺症などでも股関節の狂いが生じて同じ症状が出て来る。これらに対する治療法は手術以外には無いが、その手術法は大きく分けて次の二つが考えられている」

 第一の手法には「大腿骨切り術」と言うのが在る。これは大腿骨の骨頭の少し下の部分を切って、斜めに押し広げる方法である。この手術をすると、躰の支点が内側に移動して傷んだ股関節に直接負担がかからなくなり、痛みが軽くなる。然も、股関節そのものにメスを加えないので関節の動きを損なうことも無い。

「然し、これにも欠点はある。骨を切り曲げて躰の支点を移動させても、正常でない処で支えて居る訳だから、四、五年もすると新しい支点にまた痛みが出てくる惧れがある。その意味では完全な手術法とは言い難い」

 これに対して、別にもう一つ、「股関節固定術」と言うのが在る。文字通り、股関節を動かさないように、骨盤と大腿骨を繋いで固定してしまう方法である。股関節に痛みが出るのは、其処が動いて関節の周りの神経を刺激するからであり、動かなくしてしまえば痛みが無くなるのは当然のことである。然し、反面、関節が動かないと言う欠点も避けられない。

 若い女医が手を挙げて質問した。

「先生、固定術の術後は、脚は開くのでしょうか?」

教授が答える前に助教授が答えた。

「股関節を動かないように固定する訳だから、股は開かないでしょう」

「やっぱり・・・」

他の出席者たちは、何を当たり前のことを聞いているんだ?当然のことだろう、という表情で女医の顔を見た。

別の若い医局員が教授に訊ねた。

「骨切り術と固定術と何方の方法を採るか、現場の医師は迷うと思うんですが、何か目安となるものは有るのでしょうか?例えば性別で区分判断をするとか・・・」

教授が答えた。

「そうだね、大体の目安は有るね。変形性股関節症のうち、痛みや爬行の強い割には動きの良いもの、又は、症状の比較的軽いもの、或いは、女性、特に未婚者に対しては骨切り術を行い、これに対して、症状が重く関節の動きの悪いもので、男性、特に物を担いだりする肉体労働者に対しては関節固定術を施す。そういう目安が有る訳だよ」

そして、柏木の所属する教室では、この関節固定術を以前から積極的に行って来たのだった。

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